大伴家持の紀女郎(きのいらつめ)に報(こた)へ贈れる歌1首
大伴家持が青春時代を過ごした 瓶原(みかの)原 恭仁京「くにきゅう」跡
       ひさかたの 雨の降る日を たた独り 山辺にをれば いぶせかりけり       

雨の降る鬱陶(うっとう)しい日なのに一人っきりで山近くにいると、ほんとうに気が晴れず

重苦しいものです。


家持、恭仁の宮仕えの閑暇の所在なさを訴える歌。このような時に機智に富む受け答えで家持

を慰めるのが紀女郎であった。家持は恭仁京から坂上大嬢(おほをとめ)に計10首、紀女郎へは

7首、他の女性に4首贈っている。

            大伴家持 恭仁の京より、寧楽の宅に留まる坂上大嬢に贈る歌1首 巻8‐1632


      あしひきの 山辺に居りて 秋風の 日に異(け)に吹けば 妹(いも)をしぞ思ふ

独り山辺にいて、秋風が日ましに冷たく吹くと、ただひたすらあなたのことが偲ばれてなりません

家持は「山辺」にいることを随分強く意識している。山辺は人の訪れのない寂しい所で奈良こそ本当

の都であり、恭仁の都などは山里だという。彼は都会人だった。田舎は肌に合わなかったのである


天平15年(743年)聖武天皇の大仏建立の詔が出され、天平勝宝(752年)4月には盛大な開眼

供養が実地された。しかし天平は決して天平(てんたいら)な時代ではなかった。強くなければ生き残れ

ない時代でもあった。新興勢力 藤原氏と橘氏をはじめとする伝統勢力―大伴家持氏も含まれてい

る―との対立で政治は麻のように乱れていた。

藤原不比等には男子4人はいずれも要職にあったが、天平9年。天然痘で相次いで死ぬ。その後

橘諸兄らが政界のリーダーに台頭する。これは首相が森さんから小泉さんに変わるような、生ぬる

いものではない。藤原一族が政治の前面から後退を意味する。橘氏の勢力に押され、太宰府に追

いやられていた藤原氏の若き旗頭 広嗣が挙兵した。これは壬申の乱につぐ大反乱だった。

乱は鎮圧され、事なきを得たのだが、たびたびの疫病や戦乱に見まわれて、世情不安の中、こうし

た事態を打開するため聖武天皇は何故か「朕思うことありて……」という言葉を残し姿を消した。

当時の不穏の都の状況を考えると、市中に藤原の手の者達が九州に呼応して立ち上がるのを恐れ

たとも思われる。天平12年(740年)平城京から北西17キロに恭仁の都(京都府相楽郡加茂町)

を作り天平16年(744年)わずか4年で廃都されてしまいます。

大伴家持も内舎人(うどねり)として恭仁の都に移った。 内舎人(うどねり)とは、まだ官位を与えられな

いで、一流貴族の子弟が帝の身のまわりの世話や警護をする近衛兵的な役割がある。

藤原氏の勢力の及ばない、政争もないこの地で理想的な王城が建設出来ると当時の家持はそう

思ったであろう。天平時代の最大の立て役者の帝の人生そのものが、その後の家持の人生も左右

されて行くことになる。
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