菅原の里 喜光寺(きこうじ) 別名菅原寺

(おほ)き海の 水底(みなそこ)深く 思ひつつ 裳引(もび)きならしし 菅原の里 

                                      石川郎女  巻20‐4491 

大海の水底のように深くあなたのことを思いながら、裳裾を引いて道が平らになるほど

この菅原の里に通い続けましたのに、あの頃がなつかしい。


夫の愛が薄らぎ離別された妻が、悲しみ恨みながら幸せだった日々を追憶する。

「菅原の里」と呼ばれていた今の菅原町、平城宮にも近く、奈良時代は貴族達が邸宅を構え

都心の華やぎと自然の美しさが共存する高級住宅地であった。東に春日山、西に生駒山を

望み、南に薬師寺、北には西大寺の華麗な伽藍も眺められてことであろう。

作者石川郎女の人物像は分かっていない。夫は藤原不比等の子、宇合の第2子宿奈麻呂

恵美押勝亡きあとの内大臣で、剛穀多才の人物であったらしい。奈良時代終わりの歌と思わ

れる。こんにちの婚姻と違い、男女関係の不安定だった万葉時代のこと、華やかな衣装をま

とった貴婦人の、心の襞に隠されたやり場のない哀しみと孤独の影が痛々しい。菅原はもと

もと土器製作に従事した土師(
はじ)氏の居住地で、平安時代に学問の家系として、栄えた菅原

氏発祥の地でもある。今、菅原寺に隣接して鎮座する菅原神社は菅原道真の生誕地ともいわ

れ、祭神として土師氏の祖神 天穂日命(あめのほひのみこと)と供に道真を祀っている。


菅原天満宮略記より

菅原の地  現在の菅原は、奈良市の一町名にすぎないが、平城遷都以前から存在していた

古代地名である。その範囲はかなりの広域に及んでいた。「日本書紀」によれば、推古天皇

15年に菅原に池を作るとあるが、この大池は西方の蟇股池と考えられる。また垂仁天皇の

御陵が「菅原伏見東陵」と定められ、安康天皇の御陵は「菅原伏見陵」と記されている。

元明天皇は平城遷都前に和銅元年9月14日に藤原京から「菅原」の地に行幸せられ、21日

までこの地に御滞在になり平城予定地を御視察になっている。その後11月7日に菅原の地に

民家90軒を移転し、布穀を給わっている。おそらく平城遷都前は、佐紀の地に接するところ

まで菅原が延びていて、その辺りの民家が移されたものと考えられる。こうしたことから考えると、

往昔の菅原は春日、佐保、率川、添などとともに重要な土地柄であったことがわかる

菅原寺(喜光寺)当社南西すぐ

霊亀元年(715年)行基菩薩の創建にて菅原家の代寺であり、聖武天皇行幸されし時、阿弥

陀仏光を放ったとされそれ以来喜光寺の号を賜ったと伝えられ、今の金堂は大仏殿の雛型と

いわれ同寺の東南院にて行基菩薩入寂された。

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菅原神社 菅原道真生誕地