うつせみと 思ひし時に 取り待ちて 我がふたりみ見し 走出はしりでの 

つつみに立てる 槻つきの木の こちごちの枝の 春の葉の 茂きがごとく 

思へりし 妹いもにはあれど 頼めりし 子らにはあれど 世間よのなかを 背

きしえねば かぎろひの 燃ゆる荒野あらのに 白栲しろたえの 天領巾隠あま

ひれがく
り 鳥じもの 朝立あさだちいまして 入日いりひなす 隠りにしかば 我

妹子わがもこが 形見に置ける みどり子の 乞ひ泣くごとに 取り与ふる 

物しなければ 男じもの 脇ばさみ持ち 我妹子と ふたり我が寝し 枕付

まくらづく 妻屋つまやのうちに 昼はも うらさび暮らし 夜はも 息づき明か

し嘆けども 為むすべ知らに 恋ふれども 逢ふよしをなみ 大鳥おほとり

の羽がひの山に 我が恋ふる 妹はいますと 人の言へば 岩根いはね

さくみて なづみ来し よけくもぞなき うつせみと 思ひし妹が 玉かぎる 

ほのかにだにも 見えなく思へば、

妻がこの世にあった頃、二人で手に取って見た堤に立つ槻の木の、多くの

枝の春の葉が繁るように 繁く思いを寄せた妻だったが、頼みにした妻だ

ったが、世の中の無情の定めに背せむくことはできないので、陽炎かげろう

の燃える荒野あらのに白布に隠れ、鳥でもないのに朝立って夕日のように

隠れてしまったので、我が妻が形見に遺のこした幼子おさなごが、何か欲

しがって泣く度に与えるものもなく、男なのに子を脇に抱え、我が妻と、

二人寝た寝室の中で、昼は心寂しく暮らし、夜はため息をつき明かし、嘆

いてもどうしたら良いか分からず、恋い慕っても逢う方法がなく、羽がいの

山に恋しい妻がいると人が言うので岩を踏み分けて苦労してやってきた

が、よいことは何もない.この世の人だと思っていた妻がほのかにさえ見え

ないので.


軽の偲び妻悲歌(巻2−207)とこの遺された者の悲しみのとの連作と

見られる挽歌.妻の生前の回想から詠い起こし、葬送、遺児のさま、耐えか

ねて一人妻を求めて山に分け入り、空しく悄然と戻るさま詠う.

「取り待ちて 我がふたりみ見し 走出はしりでの 堤つつみに立てる 槻つき

の木の こちごちの枝の 春の葉の 茂きがごとく思へりし 妹いもにはあれ

ど」池の堤の槻の木の繁った枝を手にとって二人で見たのは、春の国見

(歌垣)の行事であった.二人はそこで結ばれたのであろう.青い「春の葉」

は二人の生の象徴である.晩秋の散る「黄葉」208.209が妻の死の象徴

であったのと、それは対象的である.―――しかし.青葉が黄葉となるよう

に、世間の人.誰しも死を免れることは出来ない.「世間よのなかを 背きし

えねば」……… 軽の偲び妻悲歌(巻2−207)では妻の死は使いの口か

ら聞いたのであったが、ここでは妻の野辺の送りを「かぎろひの 燃ゆる

荒野あらのに白栲しろたえの 天領巾隠あまひれがくり 鳥じもの 朝立あさだ

いまして入日いりひなす隠りにしかば」とわが目に見るさまに直接的に表現

する.そして妻を送り出した家の中の嘆きが「 妹子わがもこが 形見に置け

る みどり子の乞ひ泣く」時と「我妹子と ふたり我が寝し 枕付まくらづ

妻屋つまやのうちに」とに託して表現される.

「昼はも うらさび暮らし 夜はも 息づき明かし 嘆けども 為むすべ知ら

に 恋ふれども 逢ふよしをなみ」というのは殯もがり(埋葬や火葬までのとぶら

の期間の悲嘆表現の類型である.そしてついに人は羽易の山に葬られ

たと人が言うので、山路を来たが妹の姿は影もみあたらない.――妻の姿

を求めて山路を来た空しさをこう歌って長歌は結ばれる.

春の若葉が生い茂る輝かしい生から一転、無造作に死が訪れる.かぎろ

ひの立つ荒野に白いきれが舞う葬送の描写は美しい.母の死もわからぬ

いたいけな幼子.不器用に描く父、妻はもう大鳥の羽に抱かれるような深い

山の壊にいて、迎えに行っても幻影さえ見えない.生者と死者の間を刻々と

時が隔てていく.

                1年後の秋の別れ

去年見こぞみてし 秋の月夜は 照らせども 相見し妹は いや年離としさか

衾道ふすまじを 引手の山に 妹を置きて 山道を行けば 生れるともなし

     参考   「万葉集物語」美と抒情の原郷をたどる 伊藤博 橋本達雄編より

            「軽の路」から「大鳥の羽易の山」へ

藤原京の西南隅 軽の地から北方を眺めると、左から右へ畝傍山、耳成山

香具山が見える(この大和三山の中央部に藤原の宮がある)香具山の彼方

「大鳥の羽易の山」が見える.三輪山を中心に、右(東)方に巻向、泊瀬

山、左(北)方に引手(竜王)の山が稜線を交え、ちょうど天飛ぶ大鳥が着陸

して翼をおさめ(重ね交え)ようとするかのような、美しい姿である.


                  巻1〜5     トップページ