彼岸花 明日香村 西口の里
    道の辺の いちしの花の いちしろく 人皆知りぬ 我(あ)が恋妻は

                               作者不詳  巻11‐2480

                         「みんなの万葉集」奈良大学教授 上野誠著より

道ばたにある、彼岸花のような、ひじょうに目立つ花 あ、あそこに花があるよと人が

指さすように……… そのようにみんなに知られてしまった。我が恋妻は。


この歌を初めて読んだ時、ああ、たとえがうまいなあと思った。自分が隠していた恋人

とか妻のことがみんなに露見してしまった、知れ渡ってしまえば、何々子ちゃんは、実

は誰だれさんの隠し妻ですよ……というふうに、はやしたてられてしまう。辺は、あたり

の意味。すなわち、川の辺の近くならば川の辺、川辺、山のあたりは山の辺、山辺。

有名な山辺の道も、山のあたりを通る道、というもともとは普通名詞だったのである

とすれば「道の辺」は、道の近く、道のあたり、道ばたのということになるる。「いちし 

壱師の花」には、さまざまの説があるが、有名な説では彼岸花とされる。彼岸花は人

の眼をひく花である真紅の花が野焼きの炎のように群生する花である。ひじょうに目

立つ花なのである。「いちしろく」は顕著に、特別に、著しくという意味。この歌にはひと

つの替え歌がある。(或本の歌に曰く「いちしろく、人知りにけり、継ぎてし思へば」)ず

っと思い続けるものだから、はっきりと人に知れてしまって、もうそれを押さえることが

できない。だから頻繁に会ってしまったり、一夜を共にした後、同じ戸から一緒に出て

しまったりとかで、ああ、あの人たちは付き合っているらしいよ、恋人同士らしいよ、

いや、隠し妻かもしれないというふうに噂が立ったのであろう。「万葉集」には、ひとの

目、さらには人の噂というようなものを気にする恋歌が多い。近代の人間は恋を個人

的なものにして捉えようとする。もちろん万葉の時代も個人的なものではあったが、同

時に社会的なものでもあった。だから、集団見合いのごとき歌垣という習俗が社会的

に機能していたのである。当然、人には家族がいる。家族を取り囲む親類がいる。さ

らには、属している氏があり、さらには、地域社会がある。そして、村もある。そうする

と、そういうところでは、きちっした手続きを踏んで結婚してゆくことが求められるので

ある。つまり、プロセスが大切である。ところが、恋というものはそう手続き通りに進ん

でゆくものではない。ついついこうゆうように人の噂になるということもあるのである。こ

の歌を読むと、恋愛事情というものは今も昔も変わらないものだなあ、と思ってしまう。

隠しておきたいという時には、ばれてしまう。多くの人に知って欲しいときには、みんな

は振り向いてくれない。そういうところが、なぜか恋愛にはあるようである。

読売新聞 「四季」より 曼珠沙華 2004.09.23 朝刊

仏典に記される曼珠沙華
(まんじゅしゃげ)は一目みれば悪行を離れられる霊験あらたか

な天の花。その名をもらった彼岸花はつんつん伸びる真っ赤な蘂
(しべ)が美しい花の

冠を形作る。 草田男(くさたお)の句 曼珠沙華 落暉(らつき)も蘂(しべ)を ひろげけり

落暉とは夕日のこと。夕空に巨大な曼珠沙華が蘂を広げている。
巻11‐15  トッブページ