万葉の里  早春 明日香風 稲淵
   采女(うねめ)の 袖吹きかへす 明日香風 都を遠み いたずらに吹く

                       万葉集 巻1‐51 志貴皇子(しきのみこ)

采女の袖をあでやかに吹きかえす明日香風も、都が遠のき、采女もいなくなって

今はむなしく吹いているばかりだ。

持統8(694)年12月飛鳥浄御原宮から藤原宮に遷都、その後ほどなくこの1首が

詠まれたであろう。それほど日がたってないとすると、、風は春の明日香風である。

都が移ると建物は屋根瓦や柱など、古いものをまた使うから、荒廃の感は急速に訪れ

たことであろう。すべてをとり払われてしまった宮跡に立って、皇子は嘆く。あの美しい

采女の袖を吹いていた風は、今や都が遠ざかってしまったので、むなしく吹きぬける

ばかりだと。――――――――― 


            帝塚山短期大学名誉教授 猪股静彌先生の『万葉集恋のうた 花のうた』より 

この歌の作者の志貴皇子は、万葉時代を代表する歌人です。父は天智天皇、母

は「越道君伊羅都売」 こしのみちのきみのいらつめ です。「越道君」こしのみちのきみと言う

のは、今の石川県加賀市大聖寺川付近を支配していた地方豪族です。

その越道君の娘が都に出仕し、都では「いらつめ」と呼ばれ、若き日に中大兄(な

かのおおえ)
。天智天皇に愛されて、文雅の志貴皇子の誕生となったのです。

北陸出身の母は、どんな女性であったのでしょう。古代、日本海は大陸、朝鮮半島

と交通する表通りです。能登半島から越前、若狭、出雲、石見は半島文化渡来地、

玄関であったのです。欽明天皇の31年の4月。高句麗の大使が、今の加賀市大聖

寺川に到着したことが日本書紀に誌されています。米どころの大聖寺川付近を支配

していた越道君は、外来文化を受容した文化人であったのです。中大兄のもとに出

仕した「いらつめ」は文化的センスのあふれた才女であったと思います。中大兄は多

くの宮人のうち、志貴皇子の母をもっとも愛していたに違いありません。少年時代の

志貴皇子のめぐりには、地方から出仕した采女が、さまざまな服装をして、いろいろ

な仕事についていたのです。母が越の國の出身であった志貴皇子は、宮中奉仕の

女性の中で、とりわけ、地方出身の采女に心を寄せていたのです。志貴皇子に采女

を詠んだ歌があります。

    采女の 袖ふきかへす 明日香風 都を遠み いたずらに吹く

都が飛鳥 浄御原宮(きょみはらのみや)から藤原宮に遷都(694年)した後、志貴皇子

は古京に出で立ち、昨日までの采女たちを偲んで詠んだのです。采女たちへの眷愛

(けんあい)、思暮の情が見事に歌われています。愛の心です。恋い思いです。愛と恋は

どう違うのでしょうか。愛は広く恋いは個。愛はやさしく恋は激しく。いろいろな違いが

考えられようが、わたしは、この志貴皇子の歌には、広く采女たちを愛する、深くはげし

い恋の情感が流露していると思えてなりません。    写真は「恋のうた、花のうた」に採用

                    志貴皇子の懽(よろこび)の御歌一首    巻8‐1418                 

石走(いはばしる 垂水(たるみ)の上の さわらびの 萌(も)え出(い)づる春に なりにけるかも
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