楽浪(ささなみ)の 志賀の唐崎(からさき)(さき)くあれど 大宮人の船待ちかねつ

近江の志賀の唐崎は、昔のままにあるが、ここでいくら待っても、大宮人の船にはもう出逢

えなくなってしまった。


 楽浪(ささなみ)の 志賀(しが)の大わだ 淀(よど)むとも 昔の人に またも会はめやも

近江の志賀の大わだ、この大わだが昔のままにいくら淀んでも、ここで昔の大宮人にふた

たびめぐり逢えようか。逢えはしない。

                    〔朝鮮出兵と近江遷都〕

斉明天皇661年春正月、百済救済のため西征の途についた。14日に伊予の熱田津の石湯

(道後温泉)の離宮に泊まられたという。その熱田津を出立した日は伝えられないが、出航に

先立って航海安全、武運長久を祈願する海上の神事に向かう時の歌とみられるのが額田王

の格調高い熱田津の歌がある。


 
熱田津(にきたつ)に 舟乗りせむと 月待てば 潮もかなひぬ 今は漕ぎ出(い)でな  巻1‐8

 
熱田津で、舟に乗り航海しょうと、月待ちをしていると、月も出、潮流のかげんも丁度舟出に

 都合よくなった。さあ、みなの者、今こそ漕ぎ出よう。

天皇は、5月に那大津(博多)に遷られたが、7月、崩御。皇太子中大兄皇子が称制したが
                 

                      (称制)しょうせい 天皇になる資格のある人が即位をのばして政務を執ること


実に6年半もの間、即位なされなかった。663年8月には日本の水軍百済救援軍が唐、新羅

連合軍のために白村江(韓国)で大敗を喫してしまった。敗残の兵が帰り、百済の避難民が

やって来る。人心は動揺し、中大兄の執政に対する不満の声が高まったに違いない。

667年3月。都を飛鳥から近江に遷した。「この時に、天下の百姓
(おほみたから) 都を還すこと

を願はずして諷
(そ)へ(あざむく)者多し。童謡(わざうた)また多し。日々夜々(ひるよる)失火

(みづながれ)
の処多し」と伝えられる。

そして翌年春正月、即位なさったのであった。天智天皇である。この近江遷都は、飛鳥の旧勢

力を避けて人心を一新しょうとしたばかりでなく、水陸交通の便や対新羅防衛策など、さまざま

な理由が考えられるが、中大兄即位のために奪われた命があったことを想い起こさずにいられ

ない。すなわち異母兄の古人大兄皇子と従兄弟の有間皇子である。あるいは叔父の孝徳天皇

の崩御も数えあげるべきかも知れない。飛鳥には、こうした人々の怨霊がひそんでいるという

不安がつきまとい、悲劇に対して同情を寄せる者の厳しい眼もあったに違いない。こうしたいわば

〈飛鳥の呪縛〉から脱出することによって安じて即位することが出来たのではなかろうか。

                 
額田王の近江國に下りし時、作る歌  巻1‐18 

 
三輪山を しかも隠(かく)すか 雲だにも 情(なさけ)あらなむ 隠さふべしや  額田王 巻1‐18

と詠って、大和の國つ神である三輪山の神に奉ったのは、三輪の神の怒りをなだめようとしたから

であろう。飛鳥を出て、山辺の道のあたりを北上して、大和の北の端、山城との境に近い奈良坂の

上あるいは歌姫の坂の上あたりまで来たのである。この丘陵を下ると山城國で、もう大和の山は

見えなくなる。昨日まで飛鳥の里にあって、朝晩仰ぎ見ていた三輪山、大和の國第一の力ある

神霊大物主
(おおものぬし)の神の宿っている山が、はるか南にぽおっと霞んでいる。その別れが

たい山に訣別の呼びかけをしている歌で、額田王の想いはまた一行の中大兄皇子とを始めとする

皆の気持ちを、代表して歌ったといえよう。

時代は下がるが、のちの柿本人麻呂が近江の旧都の荒廃を嘆いた歌の中で、この遷都について

「いかさまにおもほしめせか
(いったい皇子はどんなお考えか)」と詠って( 巻1‐29)批判的であるのも、

貴族、官人の気持ちを反映したものであろう。近江朝は、天智6年3月19日か壬申の乱の終結

までおよそ5年半ほどの朝廷であった。しかしその短い近江朝は、大陸的な文事の整った時代で

あった。それには百済から亡命した沙宅紹明
(さたくしょうめい)をはじめとる高度な学問、技術を身に

つけた帰化人の力があずかっていた。
             現代語訳 万葉集(中)桜井 満 旺文社より


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