近江の荒れたる都を過ぐる時、柿本人朝臣麻呂の作る歌 1−29

玉たすき 畝傍
(うねび)の山の 橿原(かしはら)の ひじりの御代(みよ)ゆ 生;れましし 神のこと

ごと 樛
(つが)の木の いやつぎつぎに 天(あめ)の下 知らしめししを 天(そら)にみつ 大和を

おきて あをによし 奈良山を越え いかさまに 思ほしめせか 天離
(あまざか)かる 鄙にはあれ

ど 石走る 近江の國の ささなみの 大津の宮に 天の下 知らしめしけむ天皇
(すめろき)の 神

の尊
(みこと)の 大宮は ここと聞けども 大殿は ここと言へども 春草の茂く生ひたる 霞立つ

春日の霧れる ももしきの 大宮所
(おほみやどころ) 見れば悲しも


 
反歌
 
 ささなみの 志賀の唐崎(からさき)(さき)くあれど 大宮人の 船待ちかねつ
                                                      柿本人麻呂  巻1‐30

 ささなみの 志賀の大わだ 淀むとも 昔の人に またも会はめやも  
柿本人麻呂 巻1‐31
 
      


近江の海 夕波千鳥 汝が鳴けば こころもしのに いにしえへ思ほゆ 柿本人麻呂 巻3‐266

                        
参考書 現在語訳対照「万葉集 上」 桜井 満 注釈 旺文社文庫

畝傍山麓の橿原の宮に御即位になった神武天皇の御代からお生まになった御歴代の天皇

の全てが、次々に大和で天下を治めになったのに、その大和をさしおいて、奈良山を越えて

どのようにお考えになったからか、遠い田舎ではあるが、この近江の國の大津の宮に移って

天下をお治めになったという天智天皇の皇居は、ここだと聞くが、御殿はここだというが、

今は春草が生い茂り、春の日が霞んでいるでいる。この大宮の跡どころを見ると悲しいことだ

人麻呂の近江荒都歌。近江大津宮は、人々の反対をおして中大兄皇子が明日香から遷都し

て御即位したところである。比良連峰、比叡山、そして伊吹山などに囲まれて美しい琵琶湖西

南岸に営まれ、大陸的な文物の整った時代であったが、天智天皇即位してわずか4年で崩

御した後皇位をめぐる壬申の乱によって廃墟と化したのであった。まず長歌は神武天皇以来

帝都にして来た大和をあとにして、なぜ近江に遷都なさったのかと嘆き、その大宮所の荒廃

を悲しんでいる枕詞を豊富に使いながら流動的に叙事詩ふうに歌いあげ、結びの「ももしきの

大宮所見れば悲しも」に叙情的主題が集中している。そして反歌では、「大宮人」「昔の人」に

再び会うことは出来ないと悲嘆するのであるが、その大宮人や昔の人は、人麻呂個人にゆか

りある人ではない。近江大津宮が盛んな時代の人々であり、それは壬申の乱によって散って

行った人々である。今、作者人麻呂は、持統天皇を中心とする宮廷歌人として奉仕している

のであろう。天皇は、大海人皇子の妃として壬申の乱の前から大海人皇子と行動を共にして

いた。皇子即位して立后し、崩御の後、即位したのであるが、また天智天皇の皇女であり、大

友皇子の異母姉であった。苦しい戦いに勝ちはしたが、父帝が築いた近江大津宮は廃墟と

化したのである。今、夫のあとを受けて即位した持統女帝は、父天智天皇とこの近江大津宮

に奉仕して散った大友皇子以下の人々の霊を慰め、魂を鎮めることを思い人麻呂をして歌わ

せた近江鎮魂歌というべきもののようである。人麻呂個人の沈痛な叫びではなく、持統女帝

を中心とした藤原宮の人々の思いが人麻呂の歌になって、表現されたものとみたい。そこに

長歌が多分に儀礼的、形式的である理由があり、人麻呂個人の嘆きが表面に出ない理由が

あるのではなかろうか。


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正面 畝傍山と山裾 橿原市 後方二上山