吉野への路 竜在峠
み吉野 耳我(みみが)の嶺(みね)に 時なくそ 雪は降りける 間なくそ 雨は降りける

その雪の 時なきがごと その雨の 間なきがごとく  隅
(くま)もおちず 思ひつつぞ

(こ)し その山道を                          天武天皇  巻1‐25

吉野の耳我の嶺に、時となく雪は降るという。絶え間なく雨は降るという。その雪

が時となく降るように、その雨の絶え間がないように、長い道中ずっと思いつつ

やって来た。その山道を。



                         
「飛鳥と奈良」 壬申の乱より 観音寺潮五郎

中大兄は斉明の崩御とともに称制し、その6年(667)に都を近江の志賀に遷し、

その翌年即位した。天智である。

天智8年(669)10月、中臣鎌足の病が重くなった。天皇はみずから鎌足を見

舞い、また、大海人皇子を遣わして、大織冠(たいしょくかん 後の正一位)の位と藤原

の姓を賜って、多年の功労に報いたが、その翌日に没した。56歳であった。

鎌足が死んで1年ほどの、天智10年(671)の正月、天皇は、いまでいう内閣改

造を断行した。それによると、大海人皇子のつくべきはずの大政大臣には、大友

皇子が据えられ、太皇弟という称号に変化はないというものの、大海人皇子は

完全に政治面からは除外されてしまったのであった。大化の改新という、古代日

本の歴史の上に、大きな足跡を残した天智天皇においてもなお、子に対する愛に

は勝てなかったともいえるが、この改造は大きな問題を内蔵していたのである。

そしてその表面化は、意外と早く訪れたのであった。また、天智と大海人の間には

1人の女性をめぐっての恋愛闘争があった。額田王を争ったのだ。

この年8月、天皇は病にたおれ、9月になっても快方に向かわなかった。病気が長

引くにつれ、日ましに天皇の心を重くするのは、やはり皇位継承問題と、八分どお

りの完成をみたとはいうものの、いまだに確固としない中央集権の新政体への不

安であった。意を決した天皇は、腹蔵なく大海人皇子と語り合おうと考えて、大海

人皇子と親交のあつい曽我安麻呂を使者に立てた。安麻呂は、大海人皇子に天

皇の趣旨をつたえたあとで「くれぐれも、お言葉に気をつけられますように」とつけ

加えるのを忘れなかった。

はたして病床に伺候した大海人に対して、天皇は、病の重いことを理由に、皇位

をゆずろうといい出した。しかし、大海人皇子は、それを固辞し、「皇位は倭姫皇

后にお譲りあり、政治向きのことは、大友皇子におまかせあれ、わたくしは、出家

が唯一の道と考えますのでそうします」と答えて退出してしまった。青年期から、天

皇を補佐して国政に参加してきた大海人皇子にすれば、兄天皇の手段は知りつく

していた。ここでうかつに皇位継承を受諾すれば、たちどころに野心ありと見なさ

れて、攻めほろぼされるのは明白であった。大海人皇子はその足で宮中の仏殿

で剃髪し、自家の兵器類いっさい差し出して二心のないことをみせ、19日に早くも

僅かの従者を連れて吉野に向かったのである。吉野に向かう速度こそ早かった

が、大海人の脳中には、かっての古人大兄皇子が、やはり僧となって吉野にかく

れたが、結局は当時の中大兄皇子の追捕をさけ切れずに亡んだことが、ありあり

と思い浮かんだに違いない。大海人は、数少ない従者をさらに半滅し、ひたすら

吉野に向かった。一方天智天皇は、いまや最大の敵と考えていた大海人皇子が

あっさりと世をすてて、電光石光の早さで大津を去ったことに対し、その英智を知

るだけに、なにか釈然とせぬものを感じでいたが、病んで壮気も失ったのか、追

手を向けることもないままに、ひたすら後事に心をのこしつつ、12月3日、厳冬の

近江の大津の宮で天智は46歳の生涯を閉じ、永い眠りについた。

み吉野 耳我(みみが)の嶺(みね)に 時なくそ 雪は降りける 間なくそ 雨は降りける

その雪の 時なきがごと その雨の 間なきがごとく  隅
(くま)もおちず 思ひつつぞ

(こ)し その山道を        

山々の頂きには雪が降り、谷間にはつめたい雨が降っていたのだ。その凍雨に

ぬれながら、大海人は、なんの思案にふけりながら、つづらおりな山路を来たので

であろうか。その胸中にはげしく渦巻いている怒りと悲しみの雲と、その雲間から

おりおりおそろしい決心が閃々としてきらめき走るのが見える思いがするではない

か。


清原和義著 「万葉の歌」 より 
明日香村でもっとも高く、もっとも奥にある標高750mの竜在峠を越えると吉野で

ある。明日香から吉野越えの路は、芋峠越えとも、竜在峠越えともいわれ定まる

ところがないが、木洩れ日さえ射さない竜在峠への道は大海人皇子の心を思うに

はふさわしい道である。  
     


犬養孝先生の「万葉の大和路」より ( 「耳我の嶺」は、吉野山中のどこかであろうか、

わからない。ただ、飛鳥方面から竜門山脈を吉野へと何度も山越えをしてみると、

耳我の嶺は、竜門山につづくこの山なみのどこかではないかと思われる。)

          
盛夏の折、この度の更新は厳冬の万葉歌を紹介しました。
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