実り深い秋の当麻の里より 寄り添っているような二上山を望む
うつそみの 人にあるわれや 明日よりは 二上山を 弟世(いろせ)とわが見む   

                                大伯
(おおく)皇女  巻2‐165

  
この世の人である私……。明日からはもはや、二上山を弟と思って眺めるほか    

  なくなってしまった。


                          NHK
人間大学 「万葉の女性歌人たち」杉本苑子より

大伯(おおく)皇女 哀しく、うつくしいしらぺ 

大伯(おおく)皇女をとりあげるにあたっては、まず、彼女の歌2首を、何の先入観も

なしに味わってください。

わが背子を 大和へ遣ると さ夜更けて 暁露(あかときつゆ)に わが立ち濡れし
                                             2-105

大和へもどっていくあなたを見送って、いつまでもいつまでも物思いにふけりながら佇

んでいるうちに夜はふけて、いつのまにか暁近くになり草露にびっしょり濡れてしまった。


二人行けど 行き過ぎ難き 秋山を いかにか君が 独り越ゆらむ   2-106

手をとり会いながら行ってさえ、淋しくて容易に越えがたい秋の夜の山路を、いまごろ

あなたは、ひとりぼっちで、どのように越えていることだろうか。

何とも切々として哀しい、そして美しいしらべでしょう。いとしい者との別れがたい思い。

行路への気遣い……彼女が相手を、どれだけ愛していたかが痛いほどよく分かる相聞歌

の傑作です。独立した歌として味わっても素晴らしいこの二首ですが、題訶には、さらに興

味をかきたてられずにはいられません。「大津皇子、竊
(ひそ)かに伊勢の神宮に下りて上

り来ましし時の
大伯(おおく)皇女の御作歌二首」歌の背景は何やら切迫したドラマに展開

しているらしいことが読み取れます。実は、万葉集に収められた
大伯皇女の歌6首の全て

大津皇子のことを詠んだものであり、その背後には今日「大津皇子事件」と呼ばれる皇

位継承をめぐる悲劇がありました。この事件の真相を知るとき、そして
大津皇子の哀しい

運命を知るとき、いよいよその輝きと悲しみを増してくる………。大伯皇女
の歌はそんな歌

でもあるのです。

大伯皇女は、大津皇子の死後、斎宮の任を解かれ、その年11月に飛鳥に帰京します。

その時につくった挽歌「大津皇子薨
(かむあが)りましし後、大来皇女伊勢の斎宮より京に

上がる時の御作歌二首を見ましょう。

神風の 伊勢の国にも あらましを なにしに来けむ 君もあらなくに 
巻2‐163

伊勢の国にいればよかったものを、なぜ、大和になどもどってきてしまったのだろう。

逢いたいと思う弟は、もはやこの世にはいないのに……… 

見まく欲(ほ)り わがする君も あらなくに なにしか来けむ 馬疲るるに 巻2‐164

逢いたい、見たいと思う弟は、もはやこの世の人ではないのに、どうして大和になどに

もどってきてしまったのか。馬がいたずらに疲れるだけなのに………

痛切な苦悩、取り返しのつかないことへのくやしさ、どうすることも出来ない無力感。ここ

には
ほんとうの「嘆き」があります。「君もあらなくに」の句を、おそらく大伯皇女は、旅の

途中で、何千回、何万回
も、くり返し呟(つぶや)いていたことでしょう。

大伯皇女がこの世に最後に残した絶唱 「大津皇子の屍(かばね)を葛城の二上山に移し

(はぷ)る時、大来皇女の哀しび傷む御作歌二首
を味わっていただきましょう。


うつそみの 人にあるわれや 明日よらは 二上山を 弟世(いろせ)とわが見む

磯のうへに 生ふる馬酔木を 手折らめど 見すべき君が ありと言はなくに


これ以後、大伯皇女が、どこでどのようにして生きたのか、だれかと結婚したのか、それ

とも独身であったのか、それを語る資料は何一つ残っていません。「続日本書記
大宝

元年(701)
12月27日の条に「大伯内親王屍。天武天皇之皇女也」の記事があるだけ

です。、享年41歳。
大津皇子の死から15年を生きたことになります。

                           
NHK人間大学 「万葉の女性歌人たち」杉本苑子より
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