悲しみよこんにちわ〜大人への出発

 それは私が6歳の春、もうすぐ小学校に上がろうとする頃だった。
 幼稚園の卒園式まで何日もないという3月中旬のある1日、先生の発案で教室のカーテンを引いて室内を真っ暗にし、数本のロウソクに火をともして机の上に置いて、 炎がゆらゆら揺れる幻想的な雰囲気の中、幼稚園で今まで過ごした思い出を語るという企画が行われたのである。

   最初のうちはみんな普通にいろいろな思い出をあれこれ語り、他のみんなも静かに聞いて、時には笑っていた。だが、思い出語りが進むにつれて何人かの園児は感極まったのか、 他の人の語りを聞きながら鼻をすすり上げて泣き始めた。そして−私もそんな”泣き組”の中のひとりだった。
”何でこんなに涙が出るのだろう。”
”こんなにぐしゃぐしゃに泣いてる中私は何を話したらいいんだろうか”
・・・・・当時6歳の私が自分をここまで客観的に見れたはずはないが、今思えば泣きながら私はそれに近いことを考えていたような気がする。

 ところでその”何を話したらいいのかわからない”だが、心配は無用だった。私以外にも泣いていた園児は何人かおり、その内のひとりの女の子が私の前の順番だったからである。
”私はこの子の言ったことに少しアレンジを加えて話せばいいな”
やはり6歳でそこまで冷静に考えられたはずはないが、今考えれば私はちょっぴりズルく、そんなことを思っていた。

 やがて私の前の女の子の順番がやってきた。

 彼女は涙でべたべたにした顔で立ち上がり、幼稚園での思い出を語り始めた。
「私はこの幼稚園でいっぱい友達ができ、先生もとてもやさしくて、毎日をとても楽しく過ごすことができました。」
それを聞きながら私は”うんうん、私も同じだよ”と内心うなずき、また、他の園児や先生も彼女の言葉に共感してるようだった。
彼女はさらに続けた。
「だけど、もうすぐ小学校に上がってみなさんとお別れです。それが私には・・・・・・・」
話しているうちに感極まったのか、また涙声になってきた彼女。だが、その後の言葉が出てこなかった。

感情が高ぶって言葉にならないというのではない。
この感情をなんと表現するのかがわからないのである。

そして、それは私も同じだった。
”この気持ち、言葉で表現すると何ていうんだろう?・・・・・”
そう思ったその時、先生がやさしく引き取って
「つらい?」
と尋ねた。その時私は
”そうか。世の中ではこの感情のことをつらいっていうんだ。”
 それはまるで1つだけぽっかりあいたジグソーパズルの一片がぴしりとはまる様に、私の心の中にはっきりと刻み込まれた。
 そして、それは彼女も同じ思いだったらしく、彼女は我が意を得たりというように
「つらかったです。」
と続け、彼女の語りは無事に締めくくられた。
 その次は私の語りの番だったが、何を話したかはまったく覚えていない。ただ、
”この世には「つらい」という言葉が存在するんだなあ”
それを学んだのがこの時であり、はっきりと印象に残っている。その意味でこの日は忘れられない日となった。


 ずっと後になって、母と雑談してた時に何かのきっかけでこの話が出て、
「いや〜幼稚園のときに、つらいって言葉が出てこなくて困ってさ。」
と私が言ったら母に
「何あんた幼稚園児がつらいなんて言ってんのよ。その年頃の子供なんていったら毎日が楽しくてしょうがなくて、何にも不安なんかないでしょ。」
と言われてしまった。
 いや、まあ、確かにそれはその通りなんだけどさ、でも、幼稚園児にだって「つらい」時はあるよ。
 つうか、何らかのできごとがあって「つらい」という気持ちを胸に抱き、その気持ちを人に伝えたいと思ったのは確かにこの時が初めてで、それ以前には一度もなかったような 気がする(”××ちゃんがオモチャとった〜ウワーン”みたいな、次元の低い悲しみは別)。
 してみると、世の大人と同レベルの「悲しい」「つらい」といったネガティブな感情を抱いたのは、この時が生まれて初めてだったということか。

 この世に「つらい」という言葉が存在するのを知った時。
それは私が大人への第一歩を踏み出したときなのかも知れなかった。


 それから約20数年、私はさまざまな「つらい」思いを経験してきた。
だけど、その都度そのつらさを乗り越えて、その度にひと回りもふた回りも大きく成長してきた。
これからも、つらいことがあっても明るさを失わず前向きに乗り越えて行きたい。











































という風には締めたくないわね。

 だっていかにも明るくて前向きでカッコよすぎるじゃん。あたしは人間てのはほんとはそんな明るく前向きな生き物ではなく、むしろ苦悩する生き物だと思っていますんでね。 そういうネガティブな感情や、それによって負った心の傷ってのは、乗り越えるものではなくてずっと付き合っていくものだとも思うし。だからかえって
”キッパリ!5分で自分を変える法”
とかが流行るのかなあ?
・・・・・失礼。話を戻します。そうだなあ。書くんだったらこうかな?
「つらさにはもちろん、傷口にはったかさぶたがはがれる様に難なく乗り越えられて何の傷跡も残らないようなものもあるけれど、時にはつらさは心に傷跡を残し、時には傷ついた あと血をふき出したまま止まらないことだってある。みんな、心の傷痕といろいろな付き合い方をしながらそれでも何とか必死で生きている。」
 こんな感じかな?。
 そんなわけで最近のあたしは、心から血を流し、その血が止まることもないまま床を転げまわってのたうち回って落ち込んでさんざん体力を消耗し、その後よれよれしながら何とか 起きあがるみたいな感じで日々を生きています。


































・・・・いったいどうしちゃったんでしょうねあたし?
つうか、なんか、こっちの方が”ええかっこしい”だわね。