知人からの寄稿、英国列車の旅 (2006,12,26〜2007、1、5) 出発 今回の旅行は、経費をできるだけ少なくすると言うことで、泊まるところがバックパ カー専用の宿になると言う。 移動はすべて列車。切符はブリットレイルと言って英国内の鉄道がすべてフリーパスで、 価格が24,500円。この切符は英国内では買えないもので、日本で購入して持って行った。。 で、できるだけ荷物を少なくする。荷物はバックパック、リュックサックと言うことで ある。今までと勝手が違って必要最小限の荷物にするのが大変だった。着替えなど1セッ トだけである。パソコンなど持ってはいけない。 同行者の海外旅行に行きたいという気持ちは、死の淵を覗いたと思われる時から高じて きた。好きなことができるのは生きている内よ、だって。 私はどうも乗り気のしない旅であった。だってお正月ぐらいのんびりと日本で過ごしたい からである。 航空券は初めてEーチケットを使った。このEーチケットとは、代理店にメールで注文し て、メールで航空券が送られてくる。郵送ではないので航空券引換券が送られてくる物で はない。空港の航空会社窓口に本人が行けば、航空券が発行されるものである。航空券を なくす心配もなく、引換券を発行する手間もいらず安くできるらしい。 ![]() ソウル・仁川空港よりロンドンに向けて飛び立った この繁忙期にロンドン往復、72.700円は魅力であるが、Eーチケットは今までと違うの で一抹の不安はあった。 成田空港のカウンターにいったら、簡単にロンドンまでの航空券が発行された。帰りも ロンドンのヒースロー空港のカウンターで航空券が発行された。一回これを経験すれ ば、何の心配もないことが解った。 ソウル・仁川空港 仁川空港は、ソウルの西にできた大きな空港であった。離陸用の滑走路と着陸用の滑走 路が別々なのが、空港施設内から外を見ているとよくわかる。 仁川から飛び立ったアシアナ航空OZ-521便は、乗客が約4割かな。ボーイング777の座 席は、333の配列。窓側3席を2人で占めることができた。真ん中の列の乗客には1人の所も あり、その人は3席独占して寝ていた人もいる。うらやましい限り。 でも我々隣の1席があいていると言うことは、実に楽なことであった。 この飛行機の表示を見ていると、説明がハングル、英語、中国語の3種類である。中国 語も大陸の簡略字ではなく台湾を意識した文字であるので、台湾からのお客を想定して居 ると解る。 ![]() アシアナ航空のランチ 葉に巻いて食べる 座席の前にそれぞれ液晶のディスプレイが設置され好きなビデオや音楽、ゲームなのが 楽しめる。飛行の状態も地図上で表示されるが、竹島がどうどうとdokoになっている。 ![]() ロンドンの地下鉄 まさしくチューブである ロンドン 仁川を飛び立った777機は北朝鮮上空を迂回するように西に飛び、天津上空から大円航 路に入った。機内で出される食事内容は、なかなか美味しい。 ロンドン・ヒースロー空港到着。26日は時差の関係で、1日が、24時間+9時間=33時間 となる。 帰りはその逆、24時間ー9時間=15時間。 ヒースロー空港の入国審査はなかなか厳しい。係官の窓口が5つぐらいあり、男性係官 の前に立たされた、 日本人と思われる母知人は根掘り葉掘り聞かれていた。だんだん母親の顔色が変わって 行き、娘知人さんがカウンターまで背を伸ばして心配そうにしていたのが印象的であった。 手荷物をがさがさしてなにやら取り出して入国を許された。 われわれがその係官だったら嫌だな、なんて思っていたら、その係官に当たってしまっ た。あれわれは知人が送ってきた文書(affidavit)を見せたらすぐに入国許可となった。 拍子抜けするほど呆気なかった。 出口に知人が迎えてくれていた。地下鉄でロンドンブリッジ駅に行く。宿を探す。なか なか見つからない。やっと受付を見つけ、そこで手続きを済ませ、少し離れた宿「セント クリストファービレッジ」に到着。30畳ぐらいの部屋にスチールの2段ベットが5台ほど置 かれている。とりあえずビールで乾杯。33時間の1日が終わった。 ![]() ロンドンからエジンバラまで乗った列車 エジンバラへ向かう ![]() キングクロス駅の 9 3/4のプラットフォーム 27日、地下鉄でキングクロス駅へと行く。乗った列車が「FLYING SCOTSMAN]と後で知 った。4人席を3人で占めて座った。なかなか快適な列車であったが、1時間ほどして停車 する駅ごとに乗客が増えてきた。我々の席は予約席であったらしく、どかされて3人ちり ぢりになってしまった。 ![]() ヨークあたりの原子力(火力?)発電所 こんなのが5カ所ぐらいあった 後でわかったことだが、これは火力発電所と言うことである。大きな煙突は今まで見た 原子力発電所と同じであった。 ![]() ヨークあたりの駅 ヨークの到着前で30分ほど停車。なんでも到着する駅のホームにほかの列車が駐まって いたらしい。日本じゃ信じられないことが起こっている。途中車窓から見えた見えた風景 は北海道の富良野がずっと続いていると行った感じで、その上に羊が点在して居る。真冬 なのに草が青々と茂っている。ヨークをすぎたあたりから原子力発電所が数カ所見えた。 英国のエネルギー事情をかいま見る思いであった。 ![]() 車窓は 草原と羊だらけ 駅ではない所に停車することが数回あり、エジンバラ到着は2時間ほど遅れた。 エジンバラは寒いと覚悟していったのだが、全く寒さは感じない。駅を出ると、大きな 谷の向こうに岩山がありその上にエジンバラ城がそびえている。 ![]() 有名だと後で知った「フライングスコッツマン」 これに乗ってエジンバラまで来た ![]() エディンバラ 駅前 エジンバラ エジンバラでの宿泊宿は、「カレドニアン・バックパッカーズ」、どうも昔の貴族の館 を使っているようである。受付の女性はノースリーブであった。 ベッドルームは30畳ぐらいはやはりスチール製の2段ベットが6台。長期滞在者が多い のか、食堂も30畳ぐらい。自炊できるようになっている。テレビルームが20畳ぐらい、イ ンターネットは1時間1ポンド。これはいこれから経験するインターネット使用料金の中で 3分の一の値段であった。バーは約100畳ぐらい、玉突き台が2台、ここは遅くまで営業し ていた。 同じ部屋の人は、カナダ、オーストラリアだった。あとは忘れた。 夕方、市内を散策。エジンバラ城がライトアップされていて幻想的である。片手で城を バックに自分の写真を撮っていた女性に、「撮りましょうか」と声をかけたら、手を振っ て否と答えたが、そのあと「ダンケ」と言った。ドイツ人のようである。 食べ物を買って帰って、宿の食堂。ビール「STELLA」で乾杯。うまかったー。 ![]() エディンバラ エジンバラ城 次の日、早朝起き出し、インターネット。窓の外を見ると街はもう動き出している。 朝食は宿のバーで食べる。パンとバター、ジャム、飲み物だけだが、これで9ンドだから 安いものだ。 市内散策。宿から歩いて10分ぐらいの城に行く。同行者は熱心に見学している。 スコットランドからイングランドに持って行かれた石、「ストーンオブデステニー」を 見た。扉が銀行の金庫のようであった。この石はロンドンのウエストミンスター寺院にお かれ、王の戴冠式などに使われていたとか。どこにでも転がっているようなブロックみた いな石であった。鰯の頭も信心から、こんな石一つで大きな問題になるのだから人間の頭 って単純だ。 英国はイギリスと呼ばれ一つの国であると思っていたが実際は、イングランド、スコッ トランド、ウエールズ、北アイルランドの連合国家だと言うことである。 ベネルクス3国が一つの国になったようなものだと思った。 ![]() エジンバラ城 午後1時の号砲 実際、スコットランドの紙幣とイングランドの紙幣の肖像画が違う。 エジンバラで手にした紙幣をイングランドで使ったら、レジの若い女性は、奥の事務所 まで紙幣を持って行って、了解を得ていたのには驚かされてしまった。 エジンバラ城は各国の観光客で一杯であった。城には岩山が露出して、まさしく天然の 山をそのまま利用しているのが解る。 ![]() エディンバラ バグパイプ ![]() エディンバラ市内 ![]() エディンバラ城入り口 メアリースチュアート 夕方、といっても午後3時頃だが、英国は2時をすぎると、もう1日の終わりの日暮れの 光景になる。いろいろ見学して、ホリールードハウスに行く。ここは実際に今でも宮殿と して使用されているらしい。入館料が高いので躊躇したが入った。作りはフランスのベル サイユ宮殿を思い出させるものであった。中にメアリーの使用していた部屋があった。 どこかで聞きかじった名前である。メアリー・スチュアート、小説や舞台にもなって いる人物。日本のテレビ「おしん」を思わせる人生? この人がウインチェスターにも立 ち寄っている。最後はエリザベス1世に処刑された悲劇の王女である。もう少し調べてみ たい人物でもある。 ホリールードハウスの見学が終わって、エジンバラ駅で2人と別れる。同行者は知人を 案内役にして市内が見下ろせる丘に向かう。方向音痴の二人が行動するのだから大変心配 である。案の定、道に迷ったと後で知った。 同行者は、旅行ガイドブックに書いてある場所は全て訪れないと気が済まない。有る 意味病的な位である。私はどうもその点はどこを見ても、西洋だな、で終わってしまう。 母知人と別れて、電気店で変換アダプタを購入。レコードやさんでスコットランド音楽 のCDを購入。 ![]() エディンバラ城 3人いると3人とも趣味・興味が違う。一緒にいるとその違いが大きくなってくる。有る 程度、別行動が必要と思った。宿に先にかえって休んでいると、2人がお米を買って帰っ てきた。夕食はご飯であった。お米はジャポニカではなかったが、野菜炒めなどもあり美 味であった。 ![]() バージントレイン エジンバラからチェスターに向かう チェスター 次に日、エジンバラからバージントレインでチェスターに向かった。このれ列車は内装 が素晴らしく快適である。英国の西側を列車は南下した。窓外の光景はロンドンからエジ ンバラへ北上したときとほとんど同じである。 ![]() バージントレインの車内 知人はウィンチェスターの家に帰ることになり、リバプールの次の駅、CREWで乗り換え、 我々2人だけで行動することになった。私はエジンバラで自信をつけていたので、案内役 の知人がいなくても心配はなくなっていた。それを知ってか知人も安心して別れてのだろ う。 無事にCREW駅で乗り変えてチェスター駅に到着。昔ながらの重厚な建物の駅である。宿 は人に聞いてすぐにわかった。みんな親切である。 ![]() チェスター ローマ時代の城壁 宿は、「チェスターバックパッカーズ」。英国旅行で泊まったロンドン、エジンバラ、 チェスター、カーディフのバース、の5カ所の宿の中で一番おすすめの宿である。しかし 料金が14ポンドと少し高い。1ポンド235円として、3.290円。朝食なし。 こじんまりとして家庭的な雰囲気。一般家庭に泊まらせて貰っている気安さがある。部 屋は20畳ぐらいの部屋に2段ベットが4台。アイルランドに里帰りするという2人の二人が 居た。この母親がよくしゃべる人で、まくし立てるがよくわからないが英語の勉強にはな る。ニュージーランドからロンドンまでシンガポール経由で26時間かかったとのことであ った。 チェスターは何で宿泊場所に選んだかというと、日本のツアーの巡回ルートとなってい るからだとか。今回の旅行の巡回ルートは同行者が決めて、知人がその手配をしたのであ る。 一休みして早速、市内向かった。川沿いを市内向かっていると、ローマンウオールなる ものが前に立ちはだかった。ローマ時代の城壁であった。城壁の上に人が見える。その中 に子供がいたので手を振ったら、大人達が手を振り始めた、おじいさんがあまり大げさに 手を振るので気恥ずかしくなってしまった。手を振られたのが嬉しくてたまらないみたい に笑顔であった。 ![]() チェスター市内 チューダ様式の建物 城壁に上った。上が歩けるようになっている。その城壁の歩道を北上した。しばらくた って歩道は道路の上をアーチ型に渡る橋になった。その橋の上から市内を見下ろして驚い た。どこからわいたのか驚くような人の波であった。我々もその人の波に混じる。ここは ローマ時代のウェールズ攻略の拠点の街だとか。城壁と黒い木枠のチューダ様式の建物群 が美しい。 宿に帰って買ってきたインド料理を食べる。炊事場で男性が一生懸命料理を作っていた。 イングランドの東部から家族できているとか、ドイツ語、フランス語ができるという。食 堂に柔道をやっていてと言うオーストラリアの男が奥さんと現れて、しばし柔道談義。 ![]() チェスター2日目 次の日、昨晩の残り物で朝食を済ませる。市内にと向かう。宿から歩いて500メートル ぐらいの距離である。知人のいなくなった同行者は、何の気兼ねもなく観光ガイドブック の通に回り始める。もう勝手に一人で回ったらと言いたいところをぐっとこらえる。 市内に日本の物品を売っている店があった。中に入ったらレジに中国語らしく「いらし ゃいませ」と声をかけられた。日本の模造刀、こけし、書き物がおいてある。日本のポテ トチップスが貴重品みたいにおいてある。 レジの女性に、「日本語はできますか」と聞いたら、はじけるように笑って「日本人で す」と答えた。4ヶ月前にご主人の故郷に来たとか。クリスマスプレゼントとして日本の こけしがよく売れたと言っていた。近くに日本人学校があり、子供達が日本のお菓子を買 いに来ると言うことであった。 こんな小さな街なのに、と、意外に感じた。 さーて次は城壁を一周するという。難色を示したら「京都の御所の周りを一周したのが いい思い出でしょう」だって。城壁を歩き始めた。ジョギングしている人などがいた。城 壁の横の競馬場に現れた。英国で初めて競馬が行われたところとの解説があった。 馬場には自由に入れるが、誰もいない。広大な緑が広がっているだけである。老夫婦が 居た。男性に「馬が好きか」と聞いたら「奥さんが競馬狂い」と笑っていた。奥さんに 「これから馬場を走るのか」と言ったら走るまねをした。みんな大笑い。楽しいひととき であった。 城壁の石と石のつなぎ目に鉛を使っているのがわかり、これはローマ人の技術と知って いたので感動した。運河にはナローボートが何隻も浮かんでいた。城壁は意外と簡単に一 週できた。郵便局を探してはがきを投函した後、宿に向かう。 ![]() チェスター ローマ時代の城壁 つなぎが鉛 ![]() ウェールズ・カーディフ 部屋に置いておいた荷物を背負ってチェスターの駅に向かう。 チェスター駅で、身なりのきちっとした黒人と話した。モルディブの大使館員だという。 今度来なさいとパンフレットを貰った。 うまい具合にカーディフへ直行する列車に飛び乗れた。これからウェールズに向かうの である。ウェールズはイールズと発音しないと通じない。駅名はウェールズ語で書かれて いて、その下に英語の表記がある。イングランドとは別の国と主張している。 ![]() 列車は山がちな場所を走り、カーディフに到着。さぞ山の中のひなびた都市だと想像し ていたら違った。駅の上にはウェールズの国旗がはためいている。 インフォーメーションセンターを探して宿の位置を知る。さすが小さい街ではないので 宿は遠い。荷物もあるのでタクシーを使う。YHAカーディフに到着。煉瓦造りのしゃれた 建物である。 英語のできる知人と別れてしまい。英語はわからないからよろしく、と挨拶。 そのころから2人とも腹の調子がおかしくなっていたので、ここに2泊の希望を述べる。 ところが31日は相当混むらしく1泊だけになる。仕方がない明日は早くでてオックスフ ォードに向かうことにする。 ![]() 列車、1両編成 ![]() カーディフの宿 ユースホステル 私は宿で正露丸を飲む。同行者は抗生剤を飲む。結果的にはたいしたことはなかった が、旅先の体の変調は気分的に萎えさせるものがある。知人に連絡したらウィンチェス ターに来いと言う。そこで明日はオックスフォードに行くのを止めてウィンチェスターに 行くことにする。 さあそれからが大変、列車の路線が全く頭に入っていないのですから、心配してばかり 居ても仕方がない、4時頃起きてテレビルームで英国の鉄道路線を研究。ノートに路線を 書いている内に、あっという間に線と線がつながった。 ![]() カーディフ駅 駅の看板、上がウェールズ語 ウィンチェスターへ 次の朝は結構豪華な内容であった。朝食の後公園を散策。タクシーを呼んで駅まで行く。 カーディフの市内観光をしてないもんだから、途中、運転手に頼んで市内観光もして貰う。 競技場で「ここでマラドーナが歌ったんだ」「サッカー選手がね」とんちんかんな内容に 同行者が気づいて、マラドーナではなくマドンナと判明。大笑い。 駅で31日はセントラルトレインは運休の表示。電光掲示板に列車の発着の表示がない。 英国では列車がどこのプラットホームに着くかわからないことが多いのか、人々は電光掲 示板で確かめるのが常になっている。その電光掲示板が点灯していない。構内にいた頭の 良さそうな青年グループに聞いてみた。「私はドイツから来たのでわからない」と言いな がら皆で親切に考えてくれた。日独伊防共協定が生きているのだ。 結局窓口で、日英同盟のよしみから、私の乗りたい列車は運行していることが確認でき、 胸をなで下ろす。 ![]() カーディフ城 復元中 カーディフで2両連結の列車に乗る。ソールスベリーの駅で、デジカメのレンズが引っ 込まなくなってしまった。駅に着くごとに駅名を写していたのだが、寿命か、1年4ヶ月の 命だった。その後は同行者のデジカメを使う。でも同行者は充電器を持ってきていな い。充電器の意味がわからないのかと怒っても仕方がない。 サウスサンプトンで乗り換えて無事ウィンチェスターに到着。タクシーで知人の家に行 く。 家主が歓待してくれた。居間の壁に掲げられた「木火土金水」の文字が、「木火土全水」 になっている。東洋的な趣味もある人らしい。 あいている部屋を一室提供してくれた。町中で夕食と思って外に出たが、前もって予約 がないと断られた。大晦日はそんなことをして過ごすらしい。で家に帰り、夕食は買って きたステーキを食べた。夜中花火が五月蝿かったと言うことだが、私は気がつかなかった。 元旦 次の日、元旦である。同行者が持ってきたお餅を雑煮にして食べた。まったく外国行 ってまで雑煮を食べるとはね。私は極力荷物を少なくしたのに、同行者は膨大である。 結局、かなりの同行者の荷物を私が持つ羽目になってしまったのだ。 私は汚れた下着をゴミ箱に放り投げるようにして極力身軽になることを心がけたのにね。 ![]() バースで泊まった宿 1階がバー バース 3人でバースに向かった。バースでは街のど真ん中に宿があった。「セント・クリスト ファー・イン」である。1階のバーが受付になっている。お客はサッカーに夢中になって いる。そこを大きなバックパックを背負って中に入ったのだが、本当にここが宿屋かよ、 って疑ってしまった。 部屋は30畳ぐらい。2段ベットが6台。2人のカナダから来たという若い知人さんが居た。 |