大連・旅順・瀋陽

2002年08月24日〜27日




中国国際航空・ボーイング777





旅順・ロシア軍要塞の跡・此処は兵舎





203高地から見た旅順港





大連空港から瀋陽へ・MD82に後部より乗り込んだ





コンセント事情





瀋陽故宮





旧満州鉄道





旧満鉄の運転手だった86才の人は窓の外を見続けていた





大連中山広場の夜





大連中山広場の朝





大連の海





大連旅日記
旅行期日 2002.8/24〜27日
旅行会社 近畿ツーリスト クラブツーリズム
前日
夫婦2人そろって留守にする訳にはいかないような事情がおき、私一 人ツアーに参加することを前日まで検討していたが、なんとか夫婦で 出かけられることになった。それから大慌てで荷物の準備。 24日: 成田空港15時集合のため家を13時30分に出る。ツアー の総勢は70数名。旅行社の人の説明後あとは並んで出国検査。 団体査証の手続きは、パスポート本体は必要なく、パスポートのコ ピーを旅行社に送るだけでよい。簡便になったものだ。 そして、出入国は決められて番号順に並んで審査を受けるのである。
機は中国国際航空ボーイング777。昼ご飯を食べた来なかったた め出発前に何か食べようとしたが、機内食が出るのがわかり食べな いで乗り込む。
18時50分大連到着。観光バスで中華麺定食を食べに行く。ホテ ルは大連駅近くの30階建てぐらいの建物。部屋はその27階。 少し休んで駅前を散策。大連駅前は大改装中であった。

25日 日露戦争の激戦地、東鶏冠山(ひがしけいかんざん)を見学。
観光客はひっきりなしである。そのほとんどが中国人であった。 ロシア軍の要塞は想像していたものより頑丈に出来ていた。その要 塞の前に何千人もの日本兵が倒れている光景を思い浮かべた。 凄惨な殺戮があった場所も、時間が経つと観光地なる。感慨深いも のがあった。

203高地:山の麓には20組ぐらい篭屋が待機している。高齢者 には便利だろう。麓から頂上までは徒歩10分ぐらい。観光客のほ とんどが中国人。203高地頂上から遙か彼方に旅順港が見える。 閉塞作戦が実施された旅順港口はなるほど狭い。行く前までは20 3高地は函館山みたいで、その山からは旅順港が眼下に見下ろせる かと思っていた。日露戦争では此処の頂上に観測所を設けて山越に 旅順港に停泊しているロシアの戦艦に砲弾を撃ち込んだのである。 203高地の頂上にいると、頭の上を砲弾が飛んでいくようであっ た。

水師営:これは後から観光のために復元した物である。ナツメの木 は後から植えられたが根付かなかったらしい。
その近くの食堂で昼食。
その近くで幼い子がバナナを売っていた。ツアーのメンバーが 買っていた。
バナナを数本欲しい人が日本語で交渉していた。通じないので私が 変わって交渉。取りあえず通じた。 そう言うと偉そうに聞こえるかも知れないが、なんて言うことはない、 元を「クワイ」と発音しただけであった。


大連から旅順に向かう道路の横では、郊外に向けて路面電車の線路
を敷設している。それがかなり遠くまで延々と続いているのが印象
的だった。

水師営を後にして次は大連に戻り、絹製品の店へ行く。
ツアーの人は誰も買わなかったようだ。なんでも経営は日本人とか、
日本で売れないから大連で売っているのだろうか、とツアー客の声。

大連空港に行く途中、旧満鉄の社員の邸宅の前を通る。現在はほと
んど壊されて、新しい家に変わっている。日本円にして3000万
円ぐらいで売り出されるので、高すぎて買う人が居ない、なんてガ
イドが言っていた。
大連空港の滑走路の向こう側にはしゃれた住宅がびっしりと連なっ
ている。
機はMD82。歩いて機に乗り込む。飛行機の横にタラップが下り
ているが、機のお尻の部分にもタラップが下りている。珍しいので
わざわざそこから乗り込む。

40分ぐらいで瀋陽着。飛行場は昨年の10月に開港したばかりで
あった。ツアー客が、こんな空港作ったって誰が利用するのだ、な
んて笑っていた。余計なお世話な気がした。ツアー客の中にはバス
のなかから、昼間何することもなく街にたむろしている中国人を見
ては、何しているか、と大きな声で笑っている。

ここで思ったが、中国人はあまり笑わないようだ。日本人は他人の
ことを、どーでもいいことを、あーだこーだと言って笑うことがあ
るみたい。日本人は世間の目は厳しい、と育てられているからね。
だから眼を張って生きるのかな。頑張るは眼張るだなんて。

どうも中国人は他人のことなどかまわないようだ。どーでもいいこ
とは、どーでもいい、そんな感じ。
ホテルに着いてからの朝と晩に散歩をしたが、高価なデジカメを携
えていても、危険な感じはない。すぐに中国人にとけ込める気配が
した。中国人民、特に旧満州人は穏やかなんでしょうか、だからロ
シアにやられ日本にやられ、共産主義にもやられたのかな、なーん
て。




空港から瀋陽市内へと高速道路を走る。回りはトウモロコシ畑のよ
うだ。
レストランで餃子を食べる。

夜、カミさんが、ツアーで出された餃子が足りなかった、あと餃子
を3つ食べたい、と言うので夫婦で街を散策する。何処の店も中国
人ばかりで勝手が分からずただ歩き回るだけ。カミさんは私が中国
語が解ると思っているから始末が悪い。時間ばかりが経っていく。
そのうちに夕食時に飲んだビールが膀胱ではち切れそうになってき
た。ええいままよ、と大きなレストランに駆け込む。

ボーイに、私は日本人、妻は餃子、私はビールが欲しい、告げる。
そこまでは順調だったが、その店日本人客は珍しいらしく、丁寧に
餃子の種類や大きさや焼き方?などを聞いてきた。全くチンプンカ
ンプン。回りの店員も集まってきた。さらには店の経営者まで出て
きてあーだこーだ。まいってしまった。なんとか注文を終えてトイ
レに駆け込む。ほっとした。

ビールとおつまみが出てきた。餃子は山盛り出てきた。餃子を食べ
る段になってボーイが食べ方を身振り手振りで説明してくれた。い
やービールも餃子も旨かった。全て平らげてしまった。本当に旨か
った。

支払いは、ぼられても100元もあれば足りるだろう思ってレジに
行ったら、なんと驚くことに19元。
なんで驚くかというと、ツアーで出される食事の時にビールを頼む
と、1本15元なのです。だからその店でビール2本のんだので3
0元、餃子が山盛りで20元だろうと踏んでいたからである。
気分のいい店だった。



高級と思われるレストランで食事して、19元。日本円で285円。
大金持ちになった気分で広場に行く。あちらこちらで社交ダンスをやっている。
みんな勝手に楽しんでいる。身なりは芳しくないが、まあ人のことだからいいや。
だんだん私も中国人になってきたかな。

26日
早朝、散歩に出る。昨夜行った広場に行く。ローラーブレードをやっていた。
朝の体操に繰り出した人はもう帰ったらしい。露店が店じまいを始めていた。

珍しくロバが走っていた。けつを叩かれたロバは痛いので逃れるために走るわなー。
走ってもけつを叩く人はそのロバに引かれている荷台に乗っている。
人生を感じてしまった。誰の?

中国のコンセントは日本から見れば複雑だが、アダプターがバッチリでデジカメの
バッテリーの充電は苦もなかった。


バスで瀋陽故宮へ行く。北京の故宮まではいかないが、素晴らしいものであった。
此処は清朝発祥の地と聞いて驚いた。ヌルハチの名前も出てきた。
清朝3代目から北京に都を移したのだとか。その知識は皆無だった私は驚いたのでした。

どうも、日本も中国も西洋列強に侵略を受け、おなじ経験をしているのにたった40年で
西洋列強に並んだ日本に対して尊敬の念すら持っていたらしい。
日清戦争は中国としては、清が負けたので漢民族は関係ないなんて思う人も居たらしい。
第一次世界大戦では日本は山東省からドイツ、西洋列強を追っ払った。これに対して、
西洋列強に抑圧されていた中国は拍手喝采で歓迎した。
ところが日本は歓迎している中国に対して対華21カ条を突きつけて中国を突き放した。
それでも中国人は日本に学べと留学生が多数来たのである。孫文の日本に居たとか。

旅順の戦跡が観光地となり、中国人の観光客が大挙押し掛けているのは、
憎きロシアを駆逐してくれた日本に喝采しているのではなかろうか。
あの旅順の要塞を作るために多数の中国人が徴用され、最高の軍事機密を
保持するために皆殺されたと言うことであった。
それが万単位とも聞いている。
政府は日本の侵略を許さない宣伝を怠りないが、
中国人民衆の日本に対する思いは複雑のようである。

ガイドは、大連外国語大学出身。30才ぐらいの知的な美人。
面白い人で、ショッピングに連れて行かれるときに、買っていただけると
私のボーナスに跳ね返る、だの、買ったら買ったで、大連の発展のための
ご協力、市長に成り代わりお礼申し上げます。だって。

ガイドが、瀋陽故宮を世界遺産に申請している。申請が通りますかね。
なんて遠慮がちにつぶやいた。
あの皮肉なツアー客が、通ります、通ります、だって。
まあすごいところです。


中国では「湯」はスープを意味する言葉である。中国人が日本に来て銭湯の
「男湯」「女湯」の表示には最初はとまどうと言うことである。

これから旧満鉄に向かいます。






25日午後
昼食後、瀋陽の名産を売っている店に連れて行かれる。
女店員が、琥珀を買え買えとうるさいので、石炭なら買う、と言ったら、
琥珀の混じった石炭を持ってきて、2万円、だという。
仕方ないので小さいのを、2000円で買う、と言ってしまった。
支払う段になって気が変わって100元で手を打った。1500円。
いま本棚にコロがしてありますが、結構いい記念品になってます。
瀋陽の発展のために1500円使ったのでした。

瀋陽北駅から旧満鉄の列車に乗る。
列車は天井が高く、座席はゆったりしている。日本のグリーン車にあたる
そうである。


旧満州鉄道:瀋陽北駅発13:40 遼陽通過16:30頃。

遼陽城頭夜はたけて 
有明月の影すごく
霧立ちこむるコーリョウの
中なる塹壕声絶えて
目醒めがちちなる敵兵の
きも驚かす秋の風

私が口ずさむとカミさんが、声が大きい、とのたまう。
何いってんだい、やっと此処まで私は来たのだ、興奮するのがあたありまえだい。

私は窓の外を見続ける。地平線までトウモロコシ畑が続くところを通る。
鞍山生まれの人が、鞍山駅手前からそわそわし出す。
旧満鉄の機関車の運転手だった86才の人は座席から突っ立ったまま窓の外を
見続けている。

それぞれに旧満州を引きずっているらしい。私も義父と満州の話をしたことが
ある。再度旧満州に行きたいと言っていて願いかなわずうちに他界した。
カミさんは何時も、病気でも無理して行かせればよかった、と言っている。
ウチのカミさん、旅をするのも身体が動くうちよ、も口癖である。

日露戦争の戦記で聞いた様な名前の駅をいくつも通過。

大連駅着18:00 4時間20分の列車の旅であった。
駅は改修中。日本では考えられないことだが、乗客は工事現場を
通っることのなるのである。
そこで、一緒に合わせた、平壌からの帰りという一人旅の日本人が、
「中国は大事なことを押さえたら、後はどうでも良いことはどうでも良い国柄
なんです」なんて言っていた。
なるほど、この工事現場も乗客を降ろすということが出来れば、あとはどうでも
いいのであるな。

これは随所に感じる。ユニクロは最初、なぜ衣類の縫い目が真っ直ぐでないと
いけないか理解させるのが大変だったとか。中国では衣類は着れれば本来の目的は
達成ということなのでしょう。

レストランで夕食後、中山広場に行く。旧ヤマトホテルのロビーで説明を受ける。
中山広場は賑やかであった。
1日目に泊まったホテルに舞い戻る。夜外出するつもりが寝込んでしまった。

27日
早朝外出。中山広場を目指すも道を間違える。日本語が話せるふんだ高齢者に
道を聞く。中国語が返ってきた。200Mとか右とかの単語が聞き取れたので
帰りに迷わないようにデジカメで要所要所記録しながら歩く。やっと広場到着。

広場では太極拳やらジャズダンスやら剣舞やらバトミントンやらいろいろ
やっている。ただ単に後ろ向きに歩いているだけの人もいる。
一つの体操の集団の後ろにくっついて我々も体操に参加。
ウチのカミさんは駅前のアスレッチクに通っているが、中国の人はタダで楽
しんでいるな。
でも中国の衛生状態はよくないので、体操しても効果が薄いかな。可愛そう。
朝市を冷やかしホテルに戻る。

バスに乗り土産物屋に連れて行かれる。中国製バイアグラが安い。
でも買わない。(ミヤゲバナシニ カエバヨカッタ ホントニミヤゲバナシニデスヨー)
絵はがきが1000円。欲しかったけど買わない。
その外の露店では50元だったので購入。それでも750円とは高かったー。
円と元をごちゃ混ぜにされると判断が狂ってしまう。

外では、ロープウエイが入り江を横断させて懸かっている。
乗客の乗る篭は5つぐらいまとまっていて、入り江の中央で
上下に大きく揺れるような仕掛けになっている。

老虎灘公園:中国人の子供の帽子に電話番号が印刷されていたので
読んでいたら、親が来て会話。
日本人? 今日返る、船?、飛行機、此処はどう?、幸せな公園、
なんて会話。

そう言えば最初は怖い顔していたが、あとでニコニコしていたな。
訂正、中国人も笑う。(冷笑は日本人の方が多いかな)

大連空港に向かうバスの中で、現地のガイドが帰りの航空券を集める。
1人だけ無い人が居た。行きに飛行機に乗るときに、航空券の綴りから
帰りの航空券まで全部切り取られてしまったらしい。
こんな事ってあるのかい。

団体VISAのため全員が足止め。結局その航空券を無くした人が
実費を払って航空券を購入したみたい。
出発ギリギリで飛行機に搭乗。
おかげで余った元を使う暇がなかった。カミさんは免税店で香水を
買うつもりだったのでがっくりしていた。

16時定刻に成田到着。京成電車を待つ間、空気が重たいのを感じた。
湿度が高いのだろう。大連は爽快な気候だった。





払込代金     1人    2人
成田空港使用料  2,040   4,080
団体査証実費   2、500   5、000
査証取得手数料  4、200   8、400
海外旅行傷害保険 5、000   5、000 私はかけない。
旅費      65、800 131、600
合計      
       154、080

大連旅行装備一覧 1992,8,24〜27
旅券 旅のしおり 荷札 荷物シール ワッペン 
太田胃酸 正露丸 メンタム、救急絆創膏 ガーゼ 消毒薬 化膿止め はさみ 刺抜き テーピング 目薬 
手帳、ボールペン、鉛筆、マーカー 電卓、ノート 糊  地球の歩き方 中国語辞典  流暢 
デジカメ、バッテリー、充電器
タオル、歯ブラシ ひげそり ティッシュペーパー、
財布(現金) キャシュカード 鍵 時計 眼鏡2 名刺 
ズボン下 パンツ1 ランニング1 Tシャツ2 靴下2 短パン 長袖1
簡易工具セット 双眼鏡 懐中電灯 扇子 ライター スーパーの袋、ゴムバンド、十徳ナイフ 傘 
入れ物 旅行鞄 バッグ 
出で立ち パンツ ズボン ズボン下 ランニング 半袖シャツ 靴下 運動靴 


おまけ
 中国は民族の姿としては、56の民族を持つ多民族国家 漢民族が65パーセント。地理的な分布状態を見るとその居住地域は、沿岸地域、黄河、長江、珠江、の三大流域、及び松花江、遼河の平原に集中している。共通語は漢語。標準語は北京語及び華北、東北地方の方言を基礎として形成されている。また漢語においても、北京、上海、広東発音では日本の方言以上に大きな違いがあり、まったく異なる言語として理解する必要もあるといわれている。実際に北京の人が上海に行ったとき、上海の人々は日本語を話していると思った人もいたらしい。
 中国人にとって何よりも大切なものは、メンツであるといわれている。貧乏な家庭でも大事な客をもてなすときは大げさなほど派手にするがそれもみな面子を大切にするからである。財産所有権の不明朗さと法律制度の不完全さもあり、赤字を解消できない国営企業の経営者が平気で政府の役人などを豪華な宴会に招待して大げさに接待することも面子であるという。日本人も面子を大切にする国民であるが、中国人と比べると格段の差がある。中国人と付き合うには相手の面子を傷つけることをしてはいけないと知った。
 中国は基本的に日本の法治国家と違って人治国家であると言われている。そして未だ法律が完備していないので人がすべてを決めることになる。そのために人脈とか間柄を重視することになるのである。たとえば学校の卒業に関しても、卒業規定がありそれをクリアすれば卒業ではなく実力者がそれを決めるということになる。それがあまりにも政府や企業を始め、あらゆる分野で浸透しているために賄賂など不正なやり方が一般的にみられることになる。だからといって大ぴらに贈り物を贈ることは相手の面子を守る上で絶対にまずいのである。1986年中国はとっか、日本の企業との契約の中止・破棄ををした。これは日本にとっては大変な痛手で企業家に重大な負担を強いた。中国は全ての責任を日本に押しつけようとする傾向が伺えた。る出来事であった。イデオロギーよりも利益。権威主義的な共産主義のリーダーが弊害であろうそれも法治国家と人治国家の違いを表している。相手の面子を考えない面が伺える。
 また白猫でも黒猫でもネズミを捕る猫がよい猫であるというプラグマチズムがたやすく受け入れられる素地がある。中国は食うためには日本と仲良くしなければならないが、心の奥には日本に対する恨みがあるともいわれている。中国人の心は津局屈折している。
 1995年に私はハルビンの家庭に3日間のホームステイをしたことがある。初日に日本からの贈り物を渡そうとしたら冷たく拒絶された。帰るときにその贈り物を捨てようとしたら、とんでもない欲しいものであると言われた。なるほど中国人に贈り物をするのは難しいのが解る。そうは言っても欧米人と同じようにドライな面が見られるから判断困ることが多いと言われる。日本人の人情などの習慣を中国に持ち込むのは間違いなのである。 日本人の和を持って尊しとなすというような集団主義志向は中国では通用しない。中国人は個人主義志向なのであり、自我中心の民族である。一人の中国人は一匹の竜でも、3人寄れば虫一匹よりも劣ると形容される。学校現場や職場では集団主義の教育と宣伝が絶えないが、依然個人主義の傾向は根強く存在しているのである。
 中国人の日本人観はかなり屈折していると思われる面について。日清戦争では一般的な中国人は日本に負けたのは清であって漢民族ではないと思われているとか。日露戦争における旅順では、日本の第3軍は14000にもの死者を出した。しかしその旅順で中国人は36000人もの人間が殺されているのである。ロシアにに対する恨みは日露戦争の戦跡が大切の保存されているとからも伺えた。第一次世界大戦では日本は山東省からドイツ、西洋列強を追っ払った。これに対して、西洋列強に抑圧されていた中国は拍手喝采で歓迎した。ところが日本は歓迎している中国に対して対華21カ条を突きつけて中国を突き放した。その後1932年 満州事変 上海事変と 侵略がつづき日中戦争となった。日本の侵略により生じた中国人の被害の広さと深さを全て列記することは不可能である。この悲劇を直接経験した旧世代が未だ有している痛恨の念はとても深いものがある。 裸にした死体の山積み、切り落とされた首、手足を切り離された女性、無実の中国人を細菌兵器の実験に使う。生きた標本、木にしばられた捕虜の手足の切断。切り刻む。穴を掘らせて生き埋め。針付きの箱に人間を押し込める。爪はがし、焼き印、腹裂き、電気研磨アジア諸国より慰安婦10万人の徴発。強制労働。三光政策、焼き尽くす(焼光)、殺し尽くす(殺光)、奪い尽くす(略光)これなどは無人地帯を作れと言う日本軍のすさまじい虐殺の命令を語っている。1998年私は廬溝橋を訪れたが、その近くにある中国人民抗日戦争記念館の展示は、それら否定できない事実を物語っている。
メディアは態度形成を独占するモノではない。親や家族の影響、仲間のプレッシャー、個人的経験などが個人や集団の認識や反応に影響する。が、プラスにせよマイナスにせよえん罪的効果を有するステレオタイプとなりうる事実が残る。政府も日本の否定的なイメージをマスコミで宣伝。戦争時の苦難と残虐行為の直接的な経験のない世代にも、日本に対して否定的なイメージを抱かせる政策をしている。しかし世界では広島の原爆ばかり戦争の悲惨さを伝えている。野蛮な南京大虐殺を含め日本軍の行為は残虐さに満ちているが、日本では無視されるか軽視されている。1945年日本は中華民国を含む連合軍に降伏をした。その後国民党は台湾に追いやられたが、中華人民共和国の存在は無視続けたのである。1894年から1972年の田中首相による国交正常化までは中国は日本に無視・あるいは軽視され続けていたのである。中国人は特に東北地方はロシアにやられ日本にやられさらには共産主義にやられている。本来は穏健で争いを好まぬ人々であると思っていたが歴史的には満州族は女真族とも呼ばれ、古来勇猛を誇った民族である。、満州族は秀吉がやろうとして失敗した事を数年後に見事にやった誇り高い民族で、特に八旗と呼ばれる近衛軍団は無敵で無人の荒野を行くがごとくに華中平野を駆け巡って明の大軍を壊滅させてしまった。征服して後も珍しく治世は繁栄を続け乾隆帝までは西洋の侵略を許さずに頑張っていたが、19世紀に入ると急にガタガタになってしまったのは宦官が政治に口を挟むようになったからと言われている。中国人の心の奥底には、日本も中国も西洋列強に侵略を受け、おなじ経験をしているのに短い期間に西洋列強に並んだ日本に対して尊敬の念すら持ってるようである。数々の歴史的な不幸が続いたが、現代の若い中国人は日本社会に対してのイメージは良好なモノがあることは救いである。
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