’95年ハルビン旅日記


#3406/3413 新潟
★タイトル (RVJ19430)  95/ 8/25  14:35  ( 20)
中国旅日記>幸福のMAIL       @ふらっと@
★内容
 旅行を数日後に控えたある日、インターネット経由で訳の解らない
MAILが到着しました。
 このMAILを受け取ってからある期限内に10人にだかに同じ内
容のMAILを送れとか言うものでした。この忙しいときに非常に不
愉快で無視はしましたが、これからの旅行の前途を思い、多少心配し
たのは事実です。

 旅行から帰って発信人に抗議をしようかとも考えていましたが、H
DDのクラッシュでMAILも消えてしまいました。送った人間は、
言われたようにしなかったからHDDが壊れたとでも宣伝したいだろ
うな。

 やっとマイトークとイリオットで通信できるようになりました。
整形ツールがまだ動きませんので、お見苦しい点はご容赦下さい。

 私のまいとーくはVER2でバージョンアップをしなかったので、
ほとんどのものがHDDに格納してあったので、フロッピーにしまっ
てあったなかで、それに見合うイリオットを探すのが大変でした。
 またVAN+のアクセスポイントも分からず苦労しました。



中国旅日記>いざ出発        @ふらっと@
 中国残留孤児とはいかなるものか、中国人の物の考え方とはどんなものか、4
月からの私の仕事に関係することであるが、その行動様式がよく解らない。中国
人の考え方を知るためにもと思い、NHKテレビの中国語講座を聞くことにした。
 その講座本の後ろのページに、中国での社会人研修の広告があった。早速、三
社の資料を取り寄せた。その中でI社の、

 「C先生と行くハルビン中国語研修12日間」、
  全日程添乗員同行、募集人数20名、最小催行人数10名

 が目を引いた。10名以上の人が先生や添乗員に引き連れられていけば不安も
ないだろう、行き先も中国残留孤児を多数生んだ黒竜江省でありちょうど良い、
日程も私の夏休みの取り易い時期でもある。

 I社は事務所が神田にあったので、中国語の辞書を買いに行ったついでに寄っ
てみた。商売気のなさそうで、大学院に居るような知性の有りそうな女性が応対
にでた。

 「全く中国語を話せないが、参加しても大丈夫か」の私の問に、
 応対にでた女性は一瞬顔を曇らせたが、気を取り直したのか明るく私の質問に
答えた。

 「私は3日間、日本食を食べないと参ってしまう」
 「北京には日本料理屋もあり、ハルビンの食事は美味しいですよ」
 「中国語がダメなので、ホームステイ先が心配である」
 「1家庭に2人づつ行くから心配ないですよ」
 話しの内容からどうも応対にでた女性が添乗員になるのかな、と感じた。
 「これから勉強しますから」、と私はまだまだ中国語会話を甘くみて、全く観
光気分でいたのであった。

 7月の半ば頃、I社から電話があった。
 「応募者が5人しか集まらなかった。添乗員は同行しないがそれでも行きます
か」
 私は、一瞬躊躇したが、添乗員は行かなくても中国人のC先生が添乗員の代わ
りをして、連れて行ってくれるという。それならと私は参加を同意した。

 参加の意思表示をしてから恐ろしい夢を見た。場所は中国なんでしょう「帰り
たい。帰りたい。」と私が訴えても、回りの人は私の言葉が解らず、私も回りの
人が何を言っているのか解らないという激しくもどかしい夢だった。戦後50周
年ということもあり、潜在的に中国人の反日感情を恐れていたから、そんな夢を
見たのかもしれない。

 7月の終わりに、「北京で待ってます」とC先生から電話があった。あれー、
成田から一緒に連れてってくれるのじゃなかったんだ。「ホームステイ先に、日
本語の出来る人がいますか」の私の問を遮るように、「全部中国語の方が上達し
ますよ」と答えられた。なんだか、恐ろしいことになってしまったなー。

 仕方がない、と出発までのわずかな期間を利用して、日中学院の発音講座を受
講したり、NHKテレビだけでなく、ラジオの講座を聞いたり、仕事に向かう車
の中では中国語のテープを繰り返し聞いて猛勉強。しかし、しょせんは付け刃で
ありました。いくら中国語での挨拶などを覚えたって、会話はものの三分ももた
ないのだった。

 荷物の厳選は、いつものとうりあれやこれやと迷う。寒さが厳しいと困ると思
い、セーターと薄手のジャンバーを入れる。(セーターは1回だけ夜中寒さを感
じた時に着用し役に立った。)
 出発前日、神田の書店でコンパクトな日中辞書を購入。これもはかなり役に立
った。中国語の辞書などは5冊も持って行った。

 そうこうしているうちに、12日となる。私は12日間の中国旅行、母子は8
日間の沖縄旅行に旅立つ日です。そうなんです母子三人は私が居ないのをこれ幸
いと沖縄に遊びに行くというのです。沖縄の蒼い海を思い浮かべて羨ましくも思
った。

 いざ出発の時間が来たとき、家族みんなと手を取り合ってしばしの別れの挨拶。
 ガラガラとスーツケースを引きずりながら、わたしも海外旅行をするという浮
き立つような気分が湧いてきた。京成電車に乗って成田に向かったのでした。

 京成電車を降りたところで、荷物検査。パスポートと搭乗券はI社に預けて有
るので、日程表を貼りつけてあるノートを提示する。

 ところで、私の資料整理法を紹介します。私は大学ノートと携帯用の糊をバッ
クに一番出し易いところに入れておきます。そして受け取った資料やレシートな
どは散逸する前に、その場でペタペタ貼り付けてしまうのである。そして余白に
メモをします。今回の旅行でもビールのラベルなどを貼りつけていたため他の人
に珍しいがられたのでした。

 成田空港第2旅客ビルは始めて来たが、約100m×400mの長方形で実に
分かりやすい作りである。しかしターミナル内は冷房が効きすぎ。長袖にしてよ
かったと思う。

 時間どうりI社の係員が来た。北京での研修のツアーとハルビンでの研修のツ
アとは北京までは一緒に行くのだそうである。北京までは単独だと思っていたた
めホッした。
 北京での研修者の中にどこかで見た人を見つけた。「ヒデさん」と私が声を掛
けたら、向こうが目を丸くした。かって一緒の職場にいた人であった。よく中国
には行くそうであった。ヒデさんは成田で梅干しを買っていた。わずかな期間な
のに、と私はそれがちょっとおかしかった。後から考えると、食べなくても日本
食は持って行った方が精神的に良いとわかった。北京まではその人と話しが弾ん
だのでした。

 北京で研修する人たちは、若い女性もいて華やかな雰囲気を漂わせている。ハ
ルビン組は13回も中国を訪問した人がいたり、なんとなく「通」の人たちの雰
囲気であった。

 待合い室では、ディズニーの帽子をかぶった中国の子ども達の声がうるさく響
いた。これからずっとこうやってうるさいのかと暗たんたる気分にさせられた。
しかし、それはいらぬ心配であった。
 今の中国で海外旅行が出来人たちは、きっとなにか特権のある人達かも知れな
い。私の見た中国の一般大衆は静かなものであったのである。

..

中国旅日記>揚子江  @ふらっと@
 成田から中国国際航空機に登乗。窓際の席が空いていたのを見つけ、すかさず
スチワーデスに断ってそこを占領。
 成田を飛び立った機は九十九里にでて、太平洋上で左に旋回。房総半島と東京
湾をつっきて行った。その後しばらくして瀬戸内海に出たらしい。モニター画面
が提示されないからちょっと不満。松山空港らしきもののあとに佐田岬半島を確
認。九州を横断して洋上に出る。

 遠く望めるのは沖縄の島じまかしら、と思っている内に大陸上空に。ついに達
したという感激が。縦横に運河が掘られ水田らしきものが見える。どこもかしこ
も人間の手が入れられている大地のようである。
 大きな川が目にはいった。2つの川と思われたものはまとまって1つの川にな
った、さらに分かれたり、かなり大きな川である。これは揚子江だと直感した。
スチュワーデスは時計を見て上海上空だと告げた。

 次は黄河だと目を凝らして下界を見おろしていたが、ぼーっと大地がつづくの
みで、機は2つの雲の層を突き抜けて高度を下げ行った。夕暮れの大きな通りを
自転車が2台走っているのが見えた。やっと中国の動く物を見た。
 中国特有の家を上から観察。学校らしき建物にプールや体育館らしきものがあ
るか目を凝らして見ている内に、着陸。

 北京空港、窓ガラスがゆがんでいる。ガラスをまったくの平面に作るのは大変
なことなんだな、と日本のガラスメーカーの優秀さに感心。

 空港の銀行で円を元に換金。北京組の女性が札束を仕舞ながら、中国の年収だ
と驚く。私も4万円ほど換金。この換金した元を12日間でこれを使うことは大
変なことであった。おみやげなど考えなければ1万円の換金でも充分であったと
思う。それでもタクシーなどけちる必要はないのだから。どうなっているのであ
ろうか。別に私が特別の労働をしたのではない、国が富むとはありがたいことで
ある。

 C先生が迎えに来ていた。C先生はハルビン出身で、日本では最近までNH
Kの中国語講座の講師や、テレビで中国料理の紹介などをしていた有名人らしい
のですが、私は知りませんでした。C先生はやはりテレビ受けするような芸能人
ぽい雰囲気と気安さを兼ね備えた人でした。

 北京組の人たちとは空港で別れて、C先生とホテルに向かう。車の中から北京
の夕暮れの中で夕涼みをする人たちを観察。生活が道路にはみ出しているのであ
ろう、皆1つの家族みたいに団らんしている風でもあった。普段着の気安さを感
じる町だと感じた。
 歩道でじっとしている人をよく見たら、自転車のパンク直し屋であった。この
パンク直し屋はよく見かけた。色々な商売があることが面白く感じられた。

 天安門の近くのホテルに宿泊。

 夕食は飛行機の中で済ませていたのだが、みんなで近くのレストランに行く。
なすの炒め物、漬物、ピーナツの漬物、焼き豚、牛肉料理、その他5品ぐらいで
ビールを飲む。たらふく食べて飲んで料金は割り勘となり、1人あたり20元。
日本円で220円。狐につままれたような気分。日本なら1人当たり60 00
円ってところかなと思う。
 ピーナツの漬物は始めて食べたけどなかなかの逸品だった。

 夜ホテルで壊れたバックの替わりに新しいのを購入。180元。
 外国に着たという充実感の中で静かに眠りに付く。

..


中国旅日記>ハルビンの車  @ふらっと@
 次の日、大阪から北京に着いた女性が合流して、ハルビン行きは5名となる。
 その5名を紹介すると、

 Sさん、32才男。中国は13回目。中国語の通訳を目指している。
 Nさん、58才男。中国は3・4回目。外資系会社重役。会話は出来る。
 Iさん、50代女。中国は数回。会話はかなり出来る。C先生のファン。
 Mさん、50代女。大学で1年間基礎を習っている。
 私   40代男。テレビ・ラジオで2ヶ月間勉強。

 女性2人は、お孫さんもいる女性である。若い者が居ない、ちょっとばかり華
やかさに欠ける集団である。

 北京からはC先生に連れられて、飛行機で1時間半くらいでハルビンに到着。
乗っているとき「中国の飛行機のサービスも良くなった」と他の人がしきりに言
う。私はとりたてて感じたことはないが、これが改革解放政策の成果なのだろう
か。

 ハルビンが近くなり、機からとうもろこし畑が一面に広がっているのが分かる。
滑走路を移動中の機内からそれを眺め、終戦時、あのとうもろこし畑の中を避難
民は逃げ回ったのだな、と感慨深いものがあった。

 ハルビン空港から市内まで、広い道をかなりの高速でマイクロバスは走る。途
中オート三輪や馬車など珍しい乗り物に目を奪われる。行き交う自動車など日本
ならとっくに廃車になっているような代物ばかりであるのには驚いた。

 東京の目で北京の乗り物を見るとかなり古ぼけた印象がある。しかしハルビン
になれた目で北京の乗り物を見ると、北京の乗り物などはまぶしく見えます。北
京から1000Kmも離れたハルビンはそれだけ田舎である。

 ハルビンの車は常に警笛を鳴らしながら走る。交差点にはほとんど信号がない
ので、みな警笛を鳴らし合い、テクニックを駆使しながら行き交うのです。とて
も私はここでは運転する勇気と技術はないでしょう。

 歩行者は道路を横断するときは、決して走ったりせず、車の動きをよくみて道
路の真ん中で何回か立ち止まりながら進みます。あわてて後ずさりしたり走った
りするとかえって危険なのです。私は最初道路を横断することが恐怖であったが、
すぐに行き交う車をにらみながら、あわてずにゆっくり渡れるようになりました。

..


中国旅日記>ハルビン工業大学  @ふらっと@
 車はハルビン工業大学の敷地には入り、崩れ掛けた建物の裏手に止まった。こ
の崩れ掛けた建物とは外国人専用のゲストハウスでした。この建物は日本では当
然改築の対象になる代物ですが、中国ではそんな建物はどこにでもあるのであっ
た。

 部屋に案内された。各階の階段の横には2畳ほどの服務員の部屋があり、そこ
には2段ベットが置かれている。夜中でも服務員は詰めている。部屋の鍵は自動
ロックであり、開けるときは、自分で開けるのでなく全て服務員が開ける。
 早速、服務員に日本からのおみやげをあげようとしたら、簡単に拒否された。
なかなか威厳のある女性達ばかりでした。

 部屋は3、2m×5、5m 約10畳。ベットが3つ。机が1つ。その机の上
にはテレビとポットが載っている。私は大学のゲストハウスというから、ホテル
みたいに綺麗で、自習できるように各人に机があるのを想像していた。現状はと
ても自習できる環境ではなかった。そこにNさんと2人で入る。扇風機が1台置
いて有る。この扇風機を使ったのは初日1日だけ。あとは扇風機もいらなくらい
しのぎやすい天候だった。これがせめてもの救いであった。

 寮の食堂で昼食。相変わらず豪華。これが横浜の中華街だったらいくら取られ
るか、いらぬ心配をしてしまう。クズみたいな白い食べ物に胡麻だれをかけたの
は逸品であった。中国に来るとこうも旨い物が食べられるのか、と嬉しくなって
手当たり次第食べる。これからすぐにこのしっぺがいしを食らうとは、その時は
夢にも思わなかった。
 ビールも旨い。ハルビンのビールは青島より由緒正しいなどの高説を納得。ビ
ールの値段は日本円にして1本20円ぐらいだと聞いた。

 服務員の弁当を覗いてみたが、アルミの弁当箱にご飯が4分の3、残りに中華
料理の1つが添えられている感じのものでした。ふだん食べるのだからそんなも
のでいいのです。しかし豪華な食事ばかりしている目には、粗末に感じられたの
でした。

 食事に行く前、部屋の中で洗濯物を速く乾かそうと扇風機をつけていたのだが、
帰ってみると、これ見よがしにコンセントが抜かれていた。なんだか監視されて
いるな、と感じた。
 壁を見ると「昼間は電気を消せ。人が居ないときは電気を消せ」と中国文が張
ってあった。エネルギーを無駄に出来ない社会なのです。そういえばボイラーも
石炭のようであった。

 午後、昼寝をして、そのあと、Nさんと散歩。地図を頼りに歩き回る。この元
気が続くのも後わずかであった。

 夜、歓迎会。中国人の講師、大学関係者などが揃い、日本人5人、中国人6人
で近くのレストランで宴会。日本人は皆中国語で自己紹介。私は「流暢」と日本
語でごまかすが、前途に大きな不安を感じる。
 料理はここも豪華。C先生は「日本では中華料理は食べない」と言っていた。
日本では高くつくのでばかばかしいらしい。もっともである、私はここでも喜ん
で珍しい中華料理を食べる。


..

中国旅日記>お湯がでない  @ふらっと@
 寮では8時から10時までお湯がでることになっている。たった二時間とは、
ゲストハウスなのにけちけちしているな、と思いながらシャワーを浴びれる時間
がくるのを待っていた。

 そのシャワーであるが、先端の金具はとうの昔に無くなったようで、古ぼけて
ひん曲がったパイプが下を向いているだけである。シャワー室は外国と同じよう
にトイレと一緒になっている。

 8時30分になり、お湯の栓をひねったらお湯がでない。さらに次に水の栓を
ひねったら、水もでない。10時過ぎまで待っても何もでない。日本人女性も困
って、夜中に服務員に、どうしてなのか、と訴えても、服務員は「知らない」と
言うのみ。お湯がでないどころの騒ぎではない、歯も磨けなければ、顔も洗えな
いのは我慢できるとして、水洗トイレが使えないのは困る。

 運悪く私のお腹は中華料理の油がたたったのかゆるくなっていた。大便がした
くてたまらないのである。便器は3人が共用している。最初からこれでは先が思
いやられる。用がたせないなど、こんな生活は想像したこともない。
 ハルビンくんだりまで来るのでは無かった、と情けなくなる。私にはかなりの
ショックであった。外で用をたそうとしても言葉が分からない身ではどうしょう
もない。明日でもC先生に言って市内のホテルに換えて貰おうと真剣に考えた。
しかし市内のホテルに移ったとて中国語のできない私は孤独になるだけだ、と気
がついた。

 他の4人の日本人は、中国とはこんなところだよ、と達観しているふうでもあ
った。私は観光気分が若干あったので、旅行にきて垂れ流しとは、なるようにし
かならないとは言葉では分かるが、始めての経験なので激しく驚いた。お金を払
ってでも旅行者としての生活がしたかった。
 そして、午前7時30分、待望の水がでた。これだけでも文明的である。一ぺ
んに気分が明るくなった。

8月13日(日)
 今日は市内観光である。車で松花江にかかる橋を渡り太陽島に行く。松花江は
市内の北を流れる幅1Km位の川で、水は茶色くにごっている。対岸にある島は
市民の憩いの場所らしく、日本と同じように朝早くから行楽客が詰めかけていた。
日本と同じようなプールでは子どもたちが歓声をあげていた。

 太陽島で雑草を観察したが、日本とほとんど同じなのにはビックリした。虫も
探したが、ほとんど居なかった。何故だろうか。C先生にカミキリ虫などの話し
を聞いたが、分からないようであった。
 我々はボート遊びをして、大学の施設で休憩。その後船で松花江を渡り市内に
戻る。

 昼食は水餃子、これはC先生が自慢するだけあって実に旨かった。

 その後お寺を2カ所回った。宇治の万福寺を思いだした。
 次に、ロシア人が築いた中央大街で買い物。デパートに入った。2つのエスカ
レーターの真ん中に水が流れるしゃれた作り。帽子を購入。C先生はわざと買い
物は手伝わずに自分にさせてくれた。まず品物を決め、伝票をもらい、その伝票
を持って支払所で料金を払いスタンプを押して貰い、販売所に持参。晴れて品物
が手にはいる仕組みであった。
 ホームステイでは、私は中国語が解らない、と、これを全部むこうの人がやっ
てしまったのだった。出来ないからと先回りされるのは不愉快なことである。

 夕食は、寮の食堂で日本人どうしで食べる。メニューに書かれている料理が解
らず、中国語に堪能な3人があーだこーだと決めていく。
 食堂の女性はめんどくさそうな顔をしながら気長に待っている。この女性達は
皆若く、美人ではないが育ちのよさそうな子ばかり。数日顔を見合わせていると
心も通じるようで、最後の食事の時は寂しさを感じた。

..

中国旅日記>緊張   @ふらっと@
 夜寝るときにグロンサン内服液を貰った。それを飲んで寝たら、なかなか寝ら
れない。以前、そのような物を飲んで寝られなかったことを思いだした。私はカ
フェインに敏感なようである。グロンサンの瓶を見たら、はたしてカフェインが
かなり含まれていた。

 寝られないでいるうちに、変な緊張感が襲ってきた。それはまるで飛行機の離
陸や着陸するときに経験する緊張感と同じようなものであった。しかもその緊張
感が長い時間持続するのである。

 コアラがストレスで死ぬとはこんなことかな、と弱気になった。しかし私はあ
る方から抗生物質だのすばらしい薬を送っていただいていた。それがあるから死
ぬことはないな、その薬品類が本当に心強く思えた。

 その夜、満州から逃げ帰る人の気持ち、外国から日本に来る人の気持ち、漱石
が英国でノイローゼになった気持ちなどを想像され、「今日も暮れゆく、異国丘
にー」の気持ちが分かるような気がした。
 私は1人でも帰れるほどのお金は持って行った。まだ中国語の授業も始まって
いないのに、すぐにでも帰りたい気分に襲われた。情けないことであったが、そ
の感情は、帰国子女を考える面で貴重な体験だったと今になって思う。

..


中国旅日記>講習開始   @ふらっと@8月14日(月)
 お腹の具合は悪いが、薬に頼るのは最後の手段、とまだまだと耐える。
 朝食は、饅頭2つにおかずと粥。粥は食べる物でなく飲む物。美味しく飲んだ。

 2人の女性はこれから数日、朝食には姿を見せなかった。後から聞いたら、み
んなお腹をやられていたようであった。中華料理は油が多すぎる。これに気づい
たのがちょっとばかり遅かったようだ。日本人の中で帰るまでに下痢をしなかっ
たのは、中国旅行13回の男だけであった。大量の油を消化する能力は普通の日
本人には無いようである。

 午前の講習開始。講師が部屋に来た。どこで授業しますか、と我々に聞いた。
募集人数の20人なら教室が使えたようであるが、5人では部屋を使うしかない
らしい。上級者1人、中級者2人、初級者・入門者2人に、それぞれ講師一人と
なった。2人生徒に1人の先生では、日本ではどれだけ取られるであろうか。

 部屋の中の椅子や机などを使って、8:30から11:30の講習が始まった。
 先生は66才で、歴史が専門の大学教授であった。ちょっとばかり癖のある日
本語も使って丁寧に授業をしてくれた。ちなみに中上級者の先生は全く日本語が
解らず、授業は全て中国語であったという。

 中国文には日本のローマ字みたいにピンインと言うのがあって、初心者の文に
は普通、漢字にそのピンインが振りがながみたいにふってある。我々はそのピン
インが付いた文で学習するのかと思っていた。確かにピンインの付いた文もあっ
たが、教科書のほとんどが予想に反して中国文に英語の解説がついているだけで
あった。しまった英語の辞書を持ってくるのであった、と嘆く。

 のっけから驚いたが、それでもなんとか先生の言うことを聞きのがすまいと必
死に着いて行った。私はお腹の調子が悪くて下腹をゆるめないように気を使って
もいたので非常に疲れたのでした。午前の授業が終わるとヘナヘナとベットに倒
れこむほどの疲れであった。
 でも数日そんな授業を続けている内、なんとなく先生の使う中国語が解ってく
るから不思議であった。

 2:30から5:00は午後の講習。

 夕食、私はお腹の調子が悪く、中華料理を食べたいとも思わなくなっていた。
Mさんから貰った塩昆布でご飯を食べる。ススーと喉をご飯がすんなり通過する。
涙がでるほど旨かった。成田空港で梅干しを買うヒデさんを笑うものではなかっ
た。反省。今度旅行するときは色々な日本の食べ物を持って来よう。

..



中国旅日記>ダンスホール   @ふらっと@
 夜、C先生が来て、皆をダンスホールに誘った。フルーツが主体だが沢山の料
理が並べられる。ほとんど食べる気がしない。今考えるもったいない話しだ。
 中国の食べ方で面白いのは、卵の殻やフルーツの食べかすなどはテーブルの上
に平気で散乱させるのである。日本人は片付け易いように、皿などににまとめる
癖があるが。中国ではそんなことはしないのである。

 お客は100人ほど居たであろうか、大きなホールであった。そしてなかなか
見応えのあるショウがあった。そこでC先生の親類を紹介される。我々も色々な
人に紹介されたりした。

 軍人2人が入り口近くのテーブルをぶんどっていた。寮の部屋で見るハルビン
のテレビでは、繰り返し繰り返し日本軍の残虐行為のフィルムを流し、被害者を
登場させ体験談を語らせていた。話している内容は画面の下に漢字で表示される
のでおおよそはわかる。15日に向けて大々的に反日運動をしているよう不気味
であった。そんなことがあったので、その軍人に、なにか威圧的なものを感じ、
こころから気楽にはなれなかった。

 まあそれでも中国の美しい女性とダンスをしたり、それなりに楽しみはした。
他の日本人は中国語で歌を唄ったりしていた。
 中国人はダンスが好きなようである。その後も公園などで朝の運動とばかり大
極拳や気功まじって男女がダンスに興じる光景を目にしている。

..


中国旅日記>731部隊罪証陳列館   @ふらっと@8月15日(火)
 腹の具合が悪いので、ついに薬を服用。中国人が中国では中国の薬のが効くよ、
なんてことを言っていた。

 朝食も昼食も少な目。それでも食べられないわけではない。

 午後は授業がなく「侵華日軍731部隊罪証陳列館」に行くという。さあ、お
いでなすった。わたしはこれがいやだったのである。今年は戦後50年である。
細菌実験や生体実験を行ったあの石井部隊の跡地に行くという。しかも市内観光
の日に行かずに、よりによって15日に行くという。テレビでも繰り返し日本軍
の残虐行為を見せつけている。陳列館で中国人に卵をぶつけられる程度ですめば
よいが、とひとりビクビクしていた。

 1時間ほどで陳列館に着いた。この15日に新館がオープンしたものであった。
私は車からでるのも躊躇したい気持ち。他の日本人は記念撮影などしている。
 入り口で既に「日本人」と声がする。こわごわと陳列館に入った。しかし、中
には入って、回りの中国人は我々が日本人だと解っても別に変わったことが起こ
らない。むしろ我々を歓迎している風でもあった。「わざわざよく来た」、と言
ったところであろうか、ほっとした。

 私は中国に出かける前に、中国人の反日感情が解らなかった。昔満州で虐げら
れた中国人の反感を恐れた。50年目の節目に爆発するのではないかと危惧した。
テレビでもそれを放映している。しかし実際は違った。「日本人」ということで
一目置かれているような印象を持ったことさえある。

 中国人の心の奥底は解らないが、日本人が非常識な行動を取らない限りなんで
もないことのようである。日本の広島でアメリカ人が、「原爆は結果的に終戦を
早めた」なんて言ったらいやがられるだろう。嫌がられるのは国民としてではな
く人間性の問題なのかも知れない。

 この頃から食事の内容は、日本で知られている中華料理を注文するようになっ
ていった。夕食のマーボドーフは旨かった。

 夜、次に日の講義のため予習をする。

..

中国旅日記>公安・授業・ロシア料理 @ふらっと@8月16日(水)
 やっと中国人に反日感情がなく安心できるのが分かったので気分的に楽になる。
 私はハルビンについては、日露戦争の時のロシアが日本軍を待ちかまえて場所
とか、太平洋戦争中の731部隊が残虐行為を行った場所、などしか知識が無か
ったのである。731部隊については出かける前に下調べなどをしたのである。
 中国人はそんなに日本人を恨んでいないのが分かり、今日、始めて5時30分
から、一人で早朝の散歩に出かける気になった。
 もう外では車のクラクションが断続的に聞こえ、1日の活動が始まっている。
それに混じって汽車の汽笛も聞こえてくる。

 大学構内の警察署の前に止めてあったサイドカー付きのバイクを写真に撮る。
その後100メートルほど行ったところでそのバイクが追いかけてきた。

「何故写真に撮った」みたいなことを、公安は早口でまくしたてた。「私は日本
人である。このバイクはでかくて素晴らしい」と答えたら、「日本人ねー。素晴
らしいねー」なんてことを言いながら引き上げて行った。

 大学の広場で気功をやっていた。その一員に紛れ込み私も体験。

 午前中の授業が終わった。どうも四角い部屋で寝起きして、又その部屋で授業
を受けるのが苦痛になってきた。午後は先生に頼んで公園かどこかで授業をして
くれるように頼む。先生も了解してくれた。

 午後出かけるときに先生に交通費として100元を預けた。タクシーで着いた
ところはロシア人が居る前から中国人が住んでいた地区であった。先生がときど
き立ち止まってノートに書いていろいろ説明してくれた。

 そこの地区はかなり貧しい人たちが多いように感じた。ほんのひとにぎりの食
べ物を売っていたり、4つぐらいの品物を並べて商売していていたりする。体重
を計ってあげる商売。血圧を計る商売。なにしろわずかな金銭を得ようと大変な
ことである。
 スイカを山積みにしてじっとお客が来るのを待っていたりする、布団が置いて
ある。売り切れるまで夜もそこに泊まるのだそうである。

 座って先生の話しを聞く場所がない。結局、松花江の畔をかなり歩いたのであ
った。先生は共産党に関係しているらしく、裕福な部類のようである。知識が恐
ろしくある先生で我々の講師にはもったいないくらいであった。

 夕食はロシア料理。その建物はロシア人が作った物でかなり立派なものであっ
た。調度品も洗練されている。ボルシチなど代表的なロシア料理などを堪能する。
中華料理を食べ飽きた口からすると、素晴らしく美味しい物でした。他の人はパ
ンをおみやげに持って帰った。
 ロシアを日本が追っぱらわなかったら、ここは未だにロシア領だったかな。

 その後、夜店をひやかす。バックを50元で購入。

..


中国旅日記>セーター・餃子・雨 @ふらっと@
  8月17日
 下痢が直ったと思ったら、風邪を引いたのか喉が痛い。4時頃寒気がしてセー
ターを着込んで眠る。体調が悪くなると気分が落ち込んでくるが、朝方にはなん
とか持ち直した。

 I社からもらった「オリエンテーションメモ」を見る。いろいろ困ったときの
ことを書いてある。それを読んで、風邪くらいで落ち込んではいけないと、早朝、
一人で気功に参加しに行く。今日も相変わらず沢山の中国人が集まって思い思い
のことをしている。

 午前の講義が終わり午後は休講。講義は8時30分に始まって、1時間に1回、
休憩が入る。授業中は緊張の連続なので、先生が「休止」と言うと、ホッとする。
寮の部屋の中での授業なので、気分転換に廊下にでて階段を降りたりした。服務
員が怪訝そうにこっちを見ていたりする。
 授業中は本当に必死についていく、という感じで受けている。

 昼飯は、餃子を食べに行く。始めてバスに乗って行った。バスは2両連結で運
賃は日本円で2円くらいである。その餃子屋さんは、夜はカラオケ屋になる店ら
しく、音響設備が立派であった。

 雨が降ってきた。始めて傘が役に立つ。この頃から一気に秋の気配が濃厚にな
ってきた。海外向けの放送、ラジオ日本では日本は猛暑のさなかだと言う。

 その後私は他の一人と先にタクシーで帰還。帰り道、別れて一人で買い物。カ
セットやTシャツなど購入。
 朝の散歩で抜け道を見つけたり、服務員ともちょとした会話をしたり、寮にい
る他の外人と話したり、だいぶここの生活にもなれてきた。

 ところが、C先生が来たとき、お湯がでずシャワーが使えない、と他の人が訴
えたら、ホームステイを1日繰り上げて3泊する事になってしまった。2泊なら
中1日で我慢もできるが3泊とは、最後の寮での1泊をエンジョイするつもりだ
ったのに、残念。1人だけ残りますか、と言われたが、中国では1人ではまだ生
きていく力がない。他に身を任すしかないのである。

..



中国旅日記>寮よ再見・ホームステイ @ふらっと@
  8月18日
 朝食、たくさん食べた。最後の寮での食事だったので、一抹の寂しさを感じた。

 授業、先生の話すことを書き取っていく練習であった。冷や汗をかきかきの授
業なのではあるが、結構聞き取れるようになった自分にちょっと満足。授業の途
中で記念写真などを撮った
 「これで全て終了」と先生が言って終わりになる。
 記念にブックバインダーとストップウォッチをあげる。

 12時、服務員ともお別れなので記念写真を撮る。

 バスが迎えにきて、日本人は乗り込む。まずいちばん先に下ろされたMさんの
心細さそうな目。その次が私であった。

 私のホームステイ先は、ロシアの洋館を中国人が広い部屋を間仕切して使って
居るようなところであった。私に割り当てられた部屋は、5、6m×5、6 m、
高さ4mの大きな部屋であった。そこのWベットが私の寝台である。当然私一人
切りになれる部屋では無く、家族の荷物や、観葉植物などが置かれている。

 家族は奥さん、お爺さん、子供、お手伝いさんであった。旦那さんはついに見
ることはなかった。

 会話を弾ませようと色々な種類のおみやげを持って行ったのだが、日本製のハ
ンカチしか受け取らなかった。これにはおどろいてしまった。子どもにゲームを
あげたら、つっかえされた。気位が高いのか、難しい。

 昼食は例によって大量の料理。中華料理は食傷気味であった。そのあと昼寝。

 ここは市の中心らしくデパートも近い。昼寝の後に買い物に行く。痩せる石鹸
を20個ほど購入。この石鹸は日本で大人気らしく、北京では売り切れたとか。
薬事法とかで24個以上買ってきた人が成田で没収されているらしい。ハルビン
ではまだまだ大量にあった。ここまでは日本人は買い付けに来ないみたいである。

 今回の旅行、私は全ての食事を写真に撮ってきた。しかし途中1本のフィルム
が空回りいていて、抜けてしまったのは残念である。ここの家庭でも料理を写真
に撮った。それが家族が珍しいらしく写真に撮られるのを楽しみにしているふう
でもあった。それが毎回の豪勢な料理につながったかも知れない。

 家族との会話は、お爺さんは分かりやすい表現を使ってくれる。奥さんは分か
りにくく、子供にいたっては、全く理解が出来なかった。もっぱらお爺さんと片
言の会話らしきものが成り立つが、それとて辞書を引きながら話すので激しく疲
れることであった。気楽に日本語が話したいと願った。

 夜、奥さんに連れられて、近くの電信会社で国際電話。中国にきて始めて家族
の声を聞く。沖縄旅行が無事に終わったことを喜び、思わず涙がにじんでしまっ
た。自分の旅行も心配だが家族も心配である。

 ホームステイしている現在は、ほとんどのことが私の自由にならない、人様の
好意の上に乗って生きて行くしかない、と悲壮な気分になる。話しが通じない世
界に投げ込まれたときの気持ちが痛いほど分かる気がした。私はその気持ちを体
験したくて来たのであるが、相手に悪意や蔑みの心があったら、それは恐ろしい
ことだと痛感した。

 もし対応する回りの人間に蔑みの心があった時、人は生きて行くためどのよう
な行動にでるのだろうか、自暴自棄になって攻撃的になることも考えられる。そ
れは後先がない絶望的な行動でもあるだろが、止むに止まれぬ行動なのかもしれ
ないな。
 空港で、店員の言葉が聞き取れず、笑って無視されたことを思いだした。自分
は客なのに、と怒るに怒れず、私の会話のレベルを指摘されたようで恥ずかしく
もあった。
 ホームステイ先では、私の中国語を好意的に一生懸命聞いてくれる。感謝すべ
きことである。

 その夜も、短波放送を聞く。日本語の放送は心がなごんで、たいへん貴重であ
りがたい。ホームステイ先では授業はないので、昼間、日本短波を探してみた。
朝早い内は受信できることが分かった。ハルビンは上海北京と回ってくるから遠
いが、北朝鮮を通っての直線距離では案外日本から近いのがわかる。

..


中国旅日記>トイレ・シャワー  @ふらっと@
 19畳位の広い部屋の天井に蛍光灯が一つ。かなり暗い。その明かりも、奥さ
んがまめに消すので、気が引けて、ベットの横に懐中電灯を置きその明かりで本
を読む。懐中電灯を2つ持ってきたのがそんなところで役にたった。

 夜中はトイレに行くな。小便は小さな壷の中にしろと指示された。アホらしい
と思ってはいたが、私の部屋からトイレに行くには3つも鍵がかかっている。な
るほどと納得し、そのように用をたした。
 しかし大きい方はそうもいかず、早朝皆が寝ている部屋を通過して内側から鍵
をあけてトイレに到着。用を済ませて備え付きの紙を見れば鼻をかんだ紙を乾か
したものであった。さすが合理的と郷にいては郷に従った。
 近くの瓶の中から水を洗面器に汲み、便器の中を流した。これは最初はうまく
行かなかったが、馴れるにしたがって一気に流せるようになった。

 ホームステイすれば温水シャワーが浴びられると思ったのは大きな誤解であっ
た。中国人には入浴等の習慣は無いのである。わたしはもう驚くことはなかった。
ホームステイ先は上流家庭らしいが、まず水が無いのである。いや、あるにはあ
るのだが、時間を決めて給水されるらしいのである。べつにその家庭のせいでは
ない。
 大学の寮は不便であったが、それなりに高い水準だったのだなの納得する。バ
シャバシャと水を当てて顔を洗いたい。そういう世界が夢のような世界にうつる。

..

中国旅日記>公園・新潟・油  @ふらっと@
 8月19日
 5:00起床 お爺さんと散歩。1円払って公園の中に入る。沢山の人が集ま
ってきている。入園料を1円も払える人たちだからかなり裕福な人たちだと思え
る、がみんなどうもほこりっぽい感じである。大極拳、気功、少林寺拳法、棒術、
社交ダンス、色々なことをやっている。中国人は朝を有効に使うようだ。

 朝食、食欲がなく、「食べろ食べろ」と言われながら、パン1枚食べる。日本
人の朝食は少ない。それ以上食べると消化不良をおこす。私は今健康である。不
健康になりたくない、と説明して納得して貰う。
 何しろ料理の数が毎回多くて、この頃はもう閉口してしてしまっているのであ
る。もったいないが、食べ過ぎて下痢はしたくないので、しかたがない。

 私の希望で太陽島の「日本庭園」に行く。この庭園は新潟市とハルビン市が共
同で作ったという。久しぶりに日本の空気に触れられるようで楽しみであった。

 「日本庭園」に着いた。なんだか元気が湧いてきて、回りの人にも聞こえるよ
うな大きな声で「新潟」の正式な読み方を教えてあげる。自分の国に帰ってきた
ような気分であった。
 どこかで日本の衣装を貸し出しているらしく、男も女も平安時代のような着物
を着て、写真を撮り楽しんでんでいた。帯には後ろに結び目はなくマジックテー
プみたいな物で男も女も留めている。ここは入園が3元も取る場所なので、入園
する人はそれなりに金持ちのようであった。

 中国人の写真の撮り方は、ポーズなどに結構時間がかかる。有名な建物をバッ
クに写真を撮るのも、他の通行人を邪魔とばかりに、どいてもらったりしている。
 青い芝生の上で女性がしなを作ってポーズしていたりする。ホームステイ先の
おばさんもカメラを向けると半身になり、独特の顔をするのである。

 刀の持ち方がおかしな人に正式な持ち方・構え方を教えて上げる。
 万代橋と書かれた橋のたもとで小休止。
 なんでハルビンが新潟市と姉妹都市なのであろうか。

 日本庭園をでたところでは木陰で中国人が沢山休んでいた。そこで我々も休ん
で、持参した西瓜を食べた。喉が乾いていたので美味しかった。
 ハルビンの人は全体的に果物が好きなようである。食べ終わってからが変であ
った。食べかすもお尻の下に敷いた新聞も片づけないのである。何故なのだろう
か。一節には人の仕事を残しておくということであるがなんか不合理な気がする。

 埃っぽい道を花嫁衣装をした女性が通った。これは驚くべきことではなく、女
の子は皆ドレスを着ているのである。1人子政策の結果であろうか女の子は大事
に育てられるようである。

 市内に戻ってレストランで昼食。私は余り食べられないと、言ってあるのに脂
っこい物を大量に注文する。ちょうど紙があったので油をそれに吸い込ませて食
べる。自分でも驚くほど中華料理は油を使っているのが分かった。お爺さんは油
は大豆から取れて体に良い、と言っていたが私は消化できない、と勘弁して貰う。

 帰って昼寝。その後、散歩にでようと外にでたら、お爺さんが追いかけてきた。
一人では外に出させないらしい。お前さんは人の話しを聞いても分からないから
と言われてしまった。大学の寮が懐かしい。これでは軟禁である。

 夕食も大量の料理であった。どうもお手伝いさんと一緒に料理を作るのが楽し
みなようである。ビール2本とお酒を飲む。

..


中国旅日記>動物園・駅・京劇 @ふらっと@
  8月20日
 早朝、トイレに行く。隣の部屋ではソファーに寝ている。本来なら私の使って
いるベットでゆったりと寝られるのに、私をもてなすために一生懸命なんだな、
と申し訳なく思う。

 私のいる部屋には中国式のポットが置かれている。携帯用ドリップ式のコーヒ
ーを入れて飲む。ゆったりとしてくるいい香りだ。

 その後、散歩にでたら、おばさんがついてきた。いつのまにか、おばさんが私
を朝市に連れていく形になる。魚を買った。昨日行った公園に行く。おばさんは
自分はダンスの教師であると、100人ぐらいの人々が社交ダンスを楽しんでい
る所で私に話した。
 輪投げのところで、この人は日本人よ、自慢するように告げた。店の者も歓迎
しているようであった。そこで私は輪投げを楽しんだ。

 朝食は、やっと私の好みが分かったらしく固めのお粥であった。持参した味付
け海苔で食べる。実に美味しかった。
 この頃から深い咳がでる。それほどひどくはないが、おばさんは心配して薬を
くれた。悪いので半分だけ飲んでみた。

 今日は取り立てて予定はない。私は部屋にいてもつまらないので、「動物園に
連れてって欲しい」と頼んだ。そして「バスで行くのは嫌である。お金を出すか
らタクシーにして欲しい」とお札を渡した。そうしたら「私の家が貧乏と思って
いるのか」と言われてしまった。
 そうではない、といろいろ説明して納得して貰った。

 動物園では、中でサーカスの興業をしていた。顔は大人で体が幼児の人が居た。
おばさんは「?人」と私に言った。そういうような小さな人間を作る、とどこか
で聞いたことがある。

 次ぎにハルビン駅に向かう。相変わらずタクシーはクラクションを鳴らしなが
ら曲芸みたいな運転をして駅に着いた。

 ハルビン駅は天井が高く立派な作りであった。おおぜいの人が列車を待ってい
た。駅舎から線路の列車を撮ろうとしたら、日本人と分かったらしく、さっと近
くの人がどいてくれた。そのどいた座席にのっかり写真を撮った。心優しい人た
ちだな。

 駅から家に帰る地下街で地図などを購入。本屋はほとんど見かけない。たいて
い屋台みたいな店で買うしかないのである。

 昼、米の飯。

 昼寝の後、部屋にいてもつまらないので、中国のおきあがりこぼしが欲しいと、
デパートに買い物。
 結局無かった。日本製のおもちゃがかなりある。ここの子どもも日本のセイト
センヤの人形を作って楽しんでいた。

 夜も米の飯。ありがたい。

 夜、京劇を見に行く。劇場には、それぞれのホームステイ先の人に連れられた
日本人が集まってきた。他の日本人に「水がでない」のを嘆いたら、ほかも同じ
だと言っていた。しかしホームステイ先によって待遇は微妙に違うみたいである。

 京劇は舞台からほこりが舞い上がる、どこか田舎っぽい感じであったが、なか
なか迫力があり目が離せなかった。終了後、日本人は舞台に招かれて1人がスピ
ーチをさせられた。
 ハルビン市の市長がきているらしく、格式は高いものであったらしい。
 舞台で俳優達と握手したり記念写真を撮ったり、中国人も我々が中国語の勉強
にきているのを歓迎しているらしく、日中友好使節の役割をになってしまったよ
うである。

 夜、痰がでて体調が悪く、2ヶ月ぐらいの準備での研修は無謀であったと反省
したりする。言葉が不自由な人をしょいこんだホームステイ先の人の方が大変な
のかも知れない。
 日本から持参した薬を飲んで寝る。


..

中国旅日記>再見。又来ます。  @ふらっと@
 8月21日
 起床したら、体調は良くなっていた。薬が効いたらしい。私は体調と気分が連
動しているようである。気分はよくなっていた。

 朝食、ご飯。相変わらず「食べろ、食べろ」とうるさい。もう私は白けて私を
病気にしたいのか、みたいなことを遠回しに言った。お爺さんは分かったようで
ある。

 今日は北京に行く日である。9時に集合場所に行くまで、李白の詩を題材に話
しが弾む。中国人と話すには漢詩の知識が不可欠のようである。私はほとんど知
識はないが、高校で習った有名なものは覚えていたので、それを中国語発音でテ
ープレコーダーに吹き込んで貰った。

 タクシーで集合場所に行く時間となる。やっと私の贈り物を受け取った。なー
んだ遠慮していたのか。中国人月収は400元位らしい。私のポケットにはまだ
3000元位残っている。日本人の贈り物がひどく高価なものに映るのかも知れ
ない。

 集合場所の中国人の家で最後の宴会となる。20種類以上の料理がでる。もう
食べ飽きてあまり食が進まないが。かなり美味しかった。
 日本人一人一人スピーチをする事になった。私の番になって「中国語の勉強に
きて、沢山の人に世話になり。いろんなことが勉強になった。これからもさらに
勉強をして、又来たい」てな内容を中国語で話し、感謝の意を表した。おきな拍
手が起こったのでした。私のことを心配していたSさんに、「随分話せるように
なったじゃないですか」と誉められた。

 そろそろ空港に向かう時間となる。名残惜しそうに記念撮影などをする
 その後マイクロバスで1時間ぐらいで空港に着いた。

 空港のカウンターの前で、C先生
「皆さんチケットはお持ちですね」と言う。
「いや持ってない」、
「おかしい、添乗員が付かない変わりに、C先生にお願いしてあると聞いてます
が」
「エッ」、
 蒼くなって先生、電話に走る。その後
「心配は入りませんからね」と私に言いに来る。ということは「心配」なんだな
と判断する。
 先生、切符を家のバックの中に忘れたらしい。他の人がタクシで届けるらし
い。C先生は添乗員みたいな仕事は始めてなんでしょう。やはり添乗員に引き連
れられるはずの先生なのである。寸での所で日本に帰れないところであった。

 現在時刻13時15分。
 チケットが届くのが、1時間後の予定。
 離陸時間 14時30分。

 14:10 C先生達が熱心に頼んで、荷物だけ積み込んで貰う。
 14:20 首を長くして待ったチケットが届く。
 14:25 パスポート提出して登場手続き。
 14:30 空港使用料支払。
 14:35 手を振り「ツアイジェン」と大声で叫んで叫んで別れる。
 14:45 離陸

 とうもろこし畑が遠くなっていった。ハルビンにもう1泊するのを覚悟してい
たので、あっけない分かれとなったのでした。

 北京到着。ハルビンになじんだ目からは、北京に車や行き交う人々がまぶしい
くらいにきらびやかに見えた。全てがアカ抜けている。
 天安門の前を通る。次回はここをしっかり見学するぞ、と思う。

 夕食は男性2人は現地の知人と出かけたので、残った3人で、外人の多い中国
建築のレストランで食べる。注文した品数は少しだったが、油が少なく、みんな
美味しい美味しいと食べる。

 ホテルで久しぶりに長々と寝そべって10日ぶりのお風呂を楽しむ。風邪気味
だなんて、考える暇もないくらいお風呂に入りたかったのであった。

 次ぎの日、北京空港で残った元を全部使う。なかなか欲しいなく、随分と時間
がかかった。
 初日に4万円を元に換金してそのうちハルビンで1、5万円。北京で2、5万
円使ったことになる。けちけちすれば1万円のかからなかったろうと思う。もう
少し中国語が上達したら、また来たい国である。

中国のお金
 中国人の給料は、北京のエリートサラリーマンで、500元から1000元だ
という。日本円にすると、6000円から12000円くらいになる。聞いた話
しでは、一般的には3000円ぐらいだという。

 ハルビンで得た感触では、100元札(1200円)は日本の3〜5万円ぐら
いに相当する感じである。一般の労働者の賃金は100元札が3枚。どうりで中
国語の講師やホームステイ先のおばさんに、タクシー代として100元札を差し
だし、大いに驚かれたものである。日本の円の現地での価値は30〜40倍と言
ったところが生活実感かもしれない。全く異次元に迷い込んだ感じすらする。

 レストランなど20元(240円)も出せば大変なご馳走が食べられるのであ
った。これは中国の安い賃金の上に成り立っている料金なので、我々が税金も払
わずに、低料金を享受するのはなんだか気が引ける思いがする。

 中国のお札の中には信じられないくらいボロボロなものがまじっている。だい
たいほとんどのお札でさえ、日本の常識から言えば、ヨレヨレと言った感じなの
に、中には鼻紙みたいに破れ、裏面を糊と紙で補強した物も見受けられる。私は
余りにもひどいお札をガムテープで補強なんぞをしたくらいである。

 ボロボロのお札は中国人も長く手元に置きたくないらしく、使うときは一番先
に使う。貰った人も同じように一番先に使うので流通が速くなり、どんどんボロ
ボロになるという寸法である。ある中国人はタクシーのおつりに出された汚いお
札の受取を拒否していた。当局はお札なんどの美醜にかまってはいられないのか
も知れないが、あれでは政府を信じられなくなるのではないかと、要らぬ心配を
してしまう。



販売員の態度
 北京空港で気に入ったナイフを見つけた。店員に値段を聞いたが、早口で聞き
取れなかった。もう一回聞いたらニコニコしながら奥のテーブルの所に引っ込ん
だ。電卓か紙で表示してくれるのだろう、とじっと待っていたのだが余り遅いの
で、よく見ると違う作業をしていた。私は無視されたのである。店員には物を売
るサービスをしているという意識は無いようである。

 ハルビン空港で、汚いお札ばかりかき集めて、4元のコーラを注文した。店員
は驚いたことにコーラの缶をショウケースのガラスの上に投げて寄越した。コー
ラには炭酸が入っているので手荒に扱うのは府に落ちない。私はそこでコーラを
開けて中身をぶちあけたくなった。私が汚いお金ばかりで払ったのが気に入らな
いのだろうか。後で他の人に聞いたら「みんなそうだよ、それでも昔よりかはよ
くなった」と言われた。

 北京空港で、石の値段を聞いたら、店員は、他の店員と饅頭を食べるのに熱中
していて、ろくに答もしなかった。

 I社のメモには、「日本とは習慣もものの考え方もちがう」とあったが、随分
と違うものだ。そのメモにはさらに「店員が編み物などをしているときは声を掛
けない」、「店員どうし話しをしているときは、声を掛けない」なども列記して
あった。中国では、物をわけてもらう、買わせていただくといういう態度が正し
いようである。

 このI社のメモは、言葉が通じない世界に迷い込んだ感じがして気分が落ち込
んだときに読み、励まされたのであった。 気分転換を図るこつなどを何回も読
み、消極的にならぬよう心がけたのである。
 その中に「よく睡眠を取れ」と書いてあった。なるほどいちばん元気なSさん
はよく昼寝をする。私も学習の成果が充分でなくても、気にしないで昼寝をする
ように心がけた。



中国の話>トイレットペーパー、会話、気圧、日本人 @ふらっと@
 大学のにはトイレットペーパーが備え付けられていない。下の売店で買って置
いておいた。修理のため業者がシャワー室に来た。服務員はトイレットペーパー
を大事そうに部屋まで持ってきた。盗まれてはいけないと思ったようであった。
その紙は中国にしてみればかなり高級な紙質であるのを後で知った。普通は黒っ
ぽい厚手の紙をよくもんで使うらしい。



中国語会話で大事なこと
 生活をする上で重要なことは、必要な物資を買ったり、ホテルの予約をしたり
することであろう。その中で相手が言った金額を即座に理解する能力が必要だと
思う。
 中国語初心者は、相手が好意を持って聞いてくれないと会話が成り立たない。
面倒くさがれたり、馬鹿にされては物も買えない。金銭が使えない、あるいは相
手が言葉がわからない者をだます気があれば、必要な物資が手にはいらず、生き
てはいけないでしょう。

 中国から引き上げてきた子弟は、ある一定の期間日本語の勉強をする。そして
やっと日本語がたどたどしくも話せるようになって、日本人と会話すると「ちゃ
んと話せ」と馬鹿にされたりするそうである。
 そう言った行為は、やっと話せるようになった人間にとって辛いことで、その
言語自身も嫌いになり。その民族自体も嫌悪するようになるでしょう。
 たとたどしく中国語もどきを話して中国の家庭で生活してきた身からは、その
ことが痛いほど分かる気がする。



気圧抜き
 風邪ぎみだったからであろうか、ハルビンからの飛行機の中で耳が痛くなった。
いくら唾を飲み込んでも、耳が外の気圧に対応しない。だんだん高度を下げてく
る飛行機の中で、着陸したら耳がどうしょうもなくなるだろうと心配した。潜水
の時にやるという、気圧抜きを試してみた。鼻をつまみ力んでみた。キュルキュ
ルキュルと音がして、耳が正常になった。海での磯遊びの時はできなかったが、
今できた。嬉しくなってしまった。



日本人
 これで私の海外旅行は5回目となった。それまでの4回は旅先で沢山の日本人
と会った。ところが今回はほとんど中国語研修で行った人、C先生に招かれたと
思われる某大学の教授以外、会うことはなかった。ハルビンは観光する場所が貧
弱なのかも知れない。731部隊を見に来る日本人はまれでしょう。

 太陽島で8人ぐらいのアメリカ人の女性の一行に遭遇した。中国人の男性が案
内していた。その中国人はアメリカの生活が長いのだろうか髪はピチっと分けて、
半ズボンでカラフルであった。しかし回りを見る目が汚い物でも見るような目付
きだと感じた。
 そのアメリカ人の一行は、くすんだ感じの服装をしている中国人の集団の中で、
まぶしいくらい華やかな雰囲気を醸し出していた。


ハルビンの車両
タクシー
 バックミラーが割れている。
 窓の開閉が出来ない。
 運転席の座席が後ろに倒れてしますのであろうか、車体の真ん中に棒を渡して
つっかえ棒にしている。
 夜なのにライトをつけない。これは節約の為もあるかも知れないが、全くつか
ないと思われるのも走っていた。
 悪いことばかり列記したが、当然綺麗な車も走っている。

バイク
 ホンダ、スズキなどでも日本では見ない形があった。スティード、フュージョ
ン、たぶんNSRだろう、などが走っているのを見かけた。
 カーキ色の塗装のサイドカー付きのバイクは750CC。エンジンは水平対抗
であった。これは公安が使用しているのとほとんど同じ。

 そんななかで庶民が注目しているのは、エンジン付き自転車らしい。これはち
ょっと頑丈そうな自転車の後部横に、小さなエンジンを積んだ形の物であった。

自転車
 自転車は確かに多いが、北京ほどではないようである。ライト付きの自転車に
はお目にかからなかった。中にはどう見てもブレーキがない物があった。どうや
って停止するのか。衝突する場面を見ないのだから、何か工夫があるのかも知れ
ない。

オート三輪
 私の子供の頃、微かに記憶があるような乗り物である。前の座席の下に石油発
動気みたいなエンジンが置かれ、後ろに荷台が付けられている。荷台には、野菜
や果物などを満載している。農家の乗り物は皆これらしい。
 人力のオート三輪みたいな乗り物のほうが数は多い。

自動車
 北京で日本の車両によくにた車を見た。シャレード、スバルの軽かもしれない。
ハルビンで走っていた車は、昔の日本車によく似ていた。
 日本でみるところの外車も見かけたが、上海で作っているらしい。
 パジェロ、など最新式の日本の車両もときたま見かけた。



中国の話>露天、風景、ゴミ、短波  @ふらっと@
 ありとあらゆる所で露天がひしめいている。デパートの入り口だって通行の邪
魔になるくらい店を広げている。さすがデパートの中までは店を広げないが、そ
のくらいの勢いである。
 売っている品物は、ほんのわずかな枝豆だったり、4本ほどの印鑑の材料だっ
たりする。じっと売れるのを待っている者、大声で客を引き寄せている者、いろ
いろである。
 ある女性が三輪の上で声を張り上げて物を売っている。どすんと後ろから男の
乗った三輪がぶつかった。男はそこは俺の縄張りだとかなんとか言っているよう
であろう。女も負けずに言い返して叫んではいるが弱々しい。露天も遊びで声を
張り上げているのではない、生きて行くため精いっぱいなのだろう。生活の厳し
さを垣間みた。
 観光者でござーい、なんてちゃらちゃら歩ける雰囲気ではない。




風景に目がなれる
 ハルビンにきて数日たったある日、外の光景を見るのが嫌になった。余りにも
日本の光景、欧米の光景とかけ離れていて、交通に秩序がなく、人々がうじゃう
じゃといる。目眩がするようであった。精神が拒否反応を示したのかも知れない。
 それからしばらくたって目が馴れ、珍しく感じなくなってしまった。でも太陽
島の日本庭園で「新潟」の文字を見たときは、実に気持よく感じたものであった。
 池や海があって山がある、やはり日本人には日本の光景がしっくりいくようで
ある。ということは中国人には中国の光景がしっくりいくことでもあろう。
 この光景を素晴らしいと感じろ、と強制はできないな。



ゴミ収拾
 ハルビン市の大通りにはところどころ2m×1、5m位の大きな鉄製のごみ箱
が置かれている。
 トラックがきて、その鉄製の箱をつかんでトラックの荷台の上方で持ってくる、
つぎに箱の下が開いて、ゴミがトラックの荷台に納まる。
 ゴミの内容は、野菜くず、紙屑、ビニール類、などのようである。圧縮して収
納しないので運搬効率は悪いな。


ラジオ
 大学の寮でも私は海外向けNHKラジオ日本を聞いていた。懐かしい音楽をや
るので同室の人も、ラジオから流れる歌を口ずさんだり、結構楽しんでいたよう
である。
 2人の女性が日本の情報を知りたいので聞かせてくれと言ってきた。仲良くみ
んなでラジオを囲んで耳をすませることもありました。
 同じ所にじっとしている単調な生活では日本の放送には勇気づけられるような
ものがある。中国でなく中近東に派遣された日本人などが楽しみにしているのが
よく分かります。



旅行装備一覧  
  医薬品
 胃薬(食べ過ぎ・胃のもたれ) ペニシリン 痛み止め(歯痛)
 抗生剤(嫌気性菌用) 抗生物質入り軟膏 カナマイシン 下痢止め
 抗生剤(嫌気性以外・広域) 風邪薬 解熱鎮痛坐薬
 メンタム、救急絆創膏  ガーゼ 消毒薬 化膿止め 抗生物質
  はさみ、刺抜き テーピング 太田胃散、目薬、アリナミン
  トローチ 浣腸 ノーシン 体温計 防虫剤 殺虫剤 ムヒ 皮膚薬

手帳、ボールペン、鉛筆、マーカー、電卓、ノート 糊 マイクロテレコ
  「流暢」

カメラ(om−4・コンパクト)、バッテリー マイクロ三脚、
フィルム(34本、使ったのは14本)

タオル2、歯ブラシ 髭剃り、ティッシュペーパー、

旅券、財布(現金)、鍵、時計、眼鏡2、QSLカード、名刺 運転免許証

 着替え
 ポケット着きズボン下 パンツ2、シャツ2、靴下2、セーター、短パン兼用
海水パンツ、防風ズボン、防風上着 薄手のジャンバーズボン トレーニングウ
エア

書籍類
 地球の歩き方 中国語辞典 中国の本 中国語図解辞典 NHK講座の本 
趣味の本 精選日中・中日辞典 日用語新辞典

箸 水筒 濡れティシュー 布テープ、簡易工具セット、短波ラジオ、双眼鏡、
多目的用ロープ、懐中電灯2 マジック ボンド、扇子 おかず海苔、コヒー
ライター、マッチ、スーパーの袋、透明袋 ゴムバンド、十徳ナイフ 傘 スリ
ッパ 洗濯バサミ タイマー、コップ、コッフェル、

スーツケース 肩掛けバック 腹巻き貴重品入れ

電池 単4 8 単3 10

おみやげ ハンカチ ゲーム 時計 レンズ

出で立ち パンツ ズボン ポケット着きズボン下 Tシャツ Yシャツ 靴下
運動靴 帽子


役にたった物
 糊、濡れティッシュ(体を拭いた) 工具セット 短波ラジオ 懐中電灯 お
かず海苔 コーヒー 透明袋(ゴミ入れとして) スリッパ

持って行った方がいいと思った物
 小さなバック、マンガ

いらない物
 ジャンバー、ポケット着きズボン下(ステテコにポケットを付けた)殺虫剤、
腹巻き貴重品入れ、水筒、







メニューへ戻ります