目次

事務局便り12月号(2001年  盲伝主事阿佐光也(アサミツヤ)

事務局便り 1月号(2002年)            同上          
●事務局便り 2月号(2002年)            同上
●事務局便り 3月号(2002年)
            同上 
●事務局便り 4月号(2002年)            同上
●事務局便り 5月号(2002年)            同上
●事務局便り 6月号(2002年)            同上
●事務局便り 7月号(2002年)            同上

●事務局便り 8月号(2002年)            同上

●事務局便り 9月号(2002年)            同上
●事務局便り10月号(2002年)            同上

●信仰10月号より(2002年)   盲伝議長 黒多健(クロダタケシ)

●事務局便り11月号(2002年 盲伝主事 阿佐光也(アサミツヤ)
●事務局便り12月号(2002年)            同上
●事務局便り 1月号(2003年)            同上
●事務局便り 2月号(2003年)            同上
●事務局便り 3月号(2003年)            同上
●事務局便り 4月号(2003年)            同上
●事務局便り 5月号(2003年)            同上
●事務局便り 6月号(2003年)            同上
●事務局便り 7月号(2003年)            同上

事務局便り 8月号(2003年)            同上
●事務局便り 9月号(2003年)            同上

●事務局便り10月号(2003年)            同上
●事務局便り11月号(2003年)            同上
●事務局便り12月号(2003年)            同上

●事務局便り 1月号(2004年)            同上

●事務局便り 2月号(2004年)            同上
●事務局便り 3月号(2004年)            同上

●事務局便り 4月号(2004年)            同上
●事務局便り 5月号(2004年)            同上
●事務局便り 6月号(2004年)            同上
●事務局便り 7月号(2004年)            同上

●事務局便り 8月号(2004年)            同上
●事務局便り 9月号(2004年)            同上

●事務局便り10月号(2004年)            同上
●事務局便り11月号(2004年)            同上
●事務局便り12月号(2004年)            同上
●事務局便り 1月号(2005年)            同上
●事務局便り 2月号(2005年)            同上
●事務局便り 3月号(2005年)            同上
●事務局便り 4月号(2005年)            同上
●事務局便り 5月号(2005年)                    同上
●事務局便り 6月号(2005年)            同上
●事務局便り 7月号(2005年)            同上

事務局便り12月号(2001年)
          阿佐光也
 今年も最後の月となりました。盲伝の創立50周年記念の年として、ちょっとわくわくしながら迎えた21世紀の最初の年もいよいよクリスマスを迎えます。振り返ると、今年もやはり駈け足の一年だった、いや、例年以上に慌ただしい一年だったとしみじみ感じます。そのために、盲伝に寄せられたいろいろなリクエストに十分応えられなかったり、仕事が遅れてしまったりして、多くの方をがっかりさせてしまったことを感じています。できるだけこうした綻びを繕っていきたいと思いますので、どうぞお赦し下さい。そして、新しい年も、元気に共に歩んで下さいますようにお願い致します。
 50周年記念の事業は、数年前から計画を立てて準備をしてきました。しかし、実際の仕事の始まりは、新年を迎えてからの、この事業推進のための募金活動でありました。そして夏、50周年記念の総会と全国修養会を夏に豊橋市で開催。そこにバングラデシュから2名のゲストをお招きいたしました。その間、50周年記念誌をまとめるための資料の収集や整理を行いましたが、これはあまりはかどらず、これからの課題です。できるだけ速く発行したいと今燃えているところです。もう一つの大きな催しとして、秋も深まった11月26日に、記念感謝会が東京で行われました。ここには、予想を上回って100名を越える方々が集って下さり本当に嬉しかったです。また、欠席の返事を下さった多くの方々からは心のこもったお便りをいただき、大いに励まされました。
 この記念感謝会のプログラムを作りながら、私は盲伝主事として過ごしてきた18年近い歳月を思い起こしていたのですが、それは実に不思議な日々であったと言えます。惜しみなく盲伝のために尽くして下さる方々に囲まれて、仕事をさせていただいた私は、この地上にあって神の国を味わうことができたようです。そこは、祈りと捧げものの世界で、私はこれを盲伝ワールドとでも呼びたい気持ちでいます。そこで私は、何とかこの私の感謝の気持ちをあらわしたいと思い、少々でしゃばりとなりますが、感謝会のプログラムの中に主事の「感謝の言葉」を入れさせていただきました。勿論、短い時間ですべての方への感謝を語ることはできませんでしたが、私の気持ちは分かっていただけたのではないでしょうか。
 今から2000年前、明るい星を見つけてイエス様誕生の予告を受けた東の国の博士たちは、迷うことなくヘロデ王の宮殿に向かいました。しかし、そこにはイエス様はおられませんでした。宮殿を後にした時、彼らはイエス様を照らす星の光を発見したのであります。盲伝はこの星の光に照らされて、そこに集う一人ひとりの心に、いつもイエス様が誕生して下さるるところでありたいと願いつつ、更にこれからの歩みを続けてゆきたいと願っております。





事務局便り1月号(2002年)          阿佐光也
 新年おめでとうございます。このように、新年の挨拶を交わして新しい年を迎えましたが、なかなか心の底から「おめでたい」という気分にはなれない、それが今年のお正月の正直な気持ちではないでしょうか。それは、ご承知の通り、日本の経済状況の行き詰まりや、頻発する凶悪事件、また、世界ではテロや戦争で多くの人々が苦しんでいることが、私たちの心を暗くしているからであります。人々の平和を願う気持ちとは裏腹に、どの問題も複雑な歴史と利害関係が絡み合って、簡単にはほどけそうにありません。そうした状況の年末年始、我が家では更に五十肩という変な嵐が吹き荒れたのであります。
 私と妻の道子とは特別に仲の良い夫婦とは言えず、どちらかと言うと、お互いに我が道を行くというタイプなのですが、どういう訳か、昨年のアドベントを迎える頃から、仲よく一緒に五十肩に悩まされています。私のは左肩で比較的軽傷ですが、道子は右肩から腕にかけてかなりの痛みがあり、整形外科のリハビリも鍼治療もあまり効き目が無く、クリスマスの頃には右腕が全く上がらなくなってしまいました。そして年末にはとうとう痛みで夜眠れないという状況に至ったのであります。横になったときの手の位置というのは微妙なもののようです。こうして、我が家では年末年始の家事労働の多くが妻から夫と娘へプレゼントされたのであります。そこで私の正月休みは、12月30日に教会から帰って来るや、買い出しに出かけ、大晦日にお節料理を造り、元旦に大掃除をし、2日に自分の部屋の片付けをして、3日から年始の挨拶に出掛けて終わったのであります。
 では、私のお節料理を紹介しましょう。自分で作ったものは、本人の大好物の「なます」のみ。大根一本と人参少々を刻み、ぶつ切りにした茹で蛸を加えて三倍酢に付けて出来上がり、鍋一杯になりました。次はこれも私が大好きな数の子、塩を抜いて、皮を取って出し汁に付けました。後は、買ってきた、伊達巻き、かまぼこ、錦卵、ハムなどを切り、これも買ってきた、黒豆、ごまめ、佃煮、栗金団たちと適当に大皿に並べます。お煮染めは面倒なので、スーパーの1000円の折詰ですませ、こはだや冷凍まぐろの刺身も用意して、迎えた元日のお雑煮は娘が作り、我が家のお節料理は完成したのであります。「私の料理」などと自慢できるものではありませんが、これで何とか形が整いました。それにしても、家事労働とは何と際限がなく、疲れるものなのでしょうか。
 ルカ福音書にイエスの言葉に聞き入るマリアとイエスを持て成そうと奮闘するマルタの姉妹が登場します。イエスの足元に座り込んで動かないむマリアを少し注意して下さいと主に頼んだマルタが、逆に諭されるという物語です。私は今回の経験で、マルタの気持ちがちょっと分かりました。本当に大変なのです。そこで今年はできるだけ家事の手伝いをしようと、今は思っているところです。

 



事務局便り2月号(2002年)          阿佐光也
 1月の中旬、ちょっと遅い新年会を兼ねて、昔の仕事仲間、つまり私のサラリーマン時代の会社の同僚数人と夕食を共にしました。私が突然神学校に入ったり、また牧師となった後も、年に何度か声をかけてくれて、集まっては励ましてくれる連中です。そこ
での話題は、昔話やお互いの近況、時事問題に人生哲学、また時にキリスト教への質問や意見もあって、いつも楽しみにして出掛けていきます。一緒に机を並べて働いていたのは20年程前になるのですが、会ってしゃべり始めると、その場はすぐに当時と同じ雰囲気になるから不思議です。
 私の勤めていた会社は社員100名ほどの商事会社で、私は機械や工場プラント、また雑貨などの輸出の仕事をしていました。この会社は私が退職した後、10年ほど経って、経営の失敗から、残念なことに倒産してしまいました。ですから、そこで働いていた仲間たちは、今はそれぞれに別の場所で別の仕事をしています。ある者は再就職をし、ある者は独立をし、ある者は契約社員のような形で働いています。この不況の時代、それぞれに苦労しながら仕事をしているのですが、今回一人の仲間が、取引銀行が倒産したために、自分の商売ができなくなり、大変窮地に立たされているという話が深刻でした。
 彼はアジアからある食品の輸入を手掛けていて、その道ではかなりのエキスパートですが、それだけでは商売はできません。海外から品物を輸入するためには、代金支払いのために、自分の取引き銀行から「信用状」という書類を相手の取引き銀行に対して発行してもらわなければなりません。これは、海外の取引き先が商品を船か飛行機に積み込んだら、銀行経由でお金を払うことを約束する一種の契約書です。そこで輸出業者は、自分の商品を手放したら直ぐに、この信用状で自分の銀行から代金を受け取ることができるのです。これは輸入業者からすれば、品物が到着するまで、銀行からお金を借りるということになります。そこで、取引き銀行との関係が重要になるのでありますが、今回その銀行が倒産してしまい、商売ができなくなったというのです。付き合いのない銀行ではおいそれと中小企業の「信用状」など発行はしてくれません。何とも無情な話であります。
 私は盲伝の主事として18年、その間お金の苦労は全然していないことを改めて思いました。旧友の苦境を聞いて、自分はいかにも楽をしているようで申し訳なく感じました。これは盲伝を支えて下さる方々のお陰です。私の仕事は尊い献金を有効に有意義に用い、皆に喜んでいただくことです。しかし、不況の波は盲伝にも押し寄せて来たようで、今年は「盲人伝道愛の献金」が激しく落ち込み、若干危機的状況となっています。神様は「皆が苦労しているのだ、あなたも少し苦労しなさい」と私にお命じのようです。もっと多くの方に盲伝の働きを知ってもらい、協力をいただけるよう努力しなければと、今心を新たにしています。





事務局便り3月号(2002年)          阿佐光也
 我が家の一人娘はこの3月で中学を卒業します。高校は自分の行きたいところに何とか合格できて喜んでいます。今後の成り行きが見ものです。
 ところで、この娘の中三の英語の教科書に愛知県のアジア保健研修所の川原啓美先生の働きを紹介する文章が載っていました。私はそれを見てうれしくなり、勉強中の娘に、川原先生ご夫妻が盲伝の会員になって下さっていることを話したことがありました。幾分自慢げだったかも知れません。娘はそれを聞いて、ちょっと驚いた表情で「感動しちゃう」と言っていました。私はこの文章をいつかこの欄でご紹介したいと思っていましたが、今月で娘の中学校生活も終わりますので、以下のような日本語にしてみました。
 『1976年の秋、川原医師は海外医療協力会からネパールに派遣され、病院でただひとりの外科医として働いていました。ある日、首に大きな腫瘍のある男性が診察を受けにきました。幸い手術は成功しました。
 その男性が病院を去るとき、川原医師は看護婦に、「二週間後にまた来るように伝えてくれますか。もう一度傷を診なければなりません」と言いました。彼女は「それは無理です、先生」と応えました。「彼は家に帰るだけで1週間以上歩かなければならないのです。」 川原医師はその時、ネパールでは、病気の人が医者にかかるのはとても難しいことを知りました。彼らが病院に着いたときには、しばしば手遅れになっているのです。川原医師は3ヶ月の滞在で360回以上の手術を行いました。彼は疲れましたが、本当に楽しんで仕事をしました。そして、この仕事はこの国とそこに住む人々を知る良い機会になりました。
 彼は日本に帰って来たとき、自問自答しました。「彼らのために自分に何ができるだろうか。私は戻って、更にたくさんの手術をすることはできる。しかし、彼らのためにそれが最善のことなのだろうか。多分、私は彼らに、いかにして自分自身を助けるかを教えるべきなのだ。」
 川原医師は研修のためにヘルス・ワーカー(医療・看護従事者)をネパールから日本に招くことにしました。彼はその人たちのための研修施設を作ることを望んだのです。しかし、彼はどこから始めればよいか分かりませんでした。十分なお金もありません。しかし、彼は決してその望みをあきらめませんでした。彼にはこの夢を共に分ち合う大勢の友人がいました。1979年、彼の友人の一人が名古屋近郊の土地を彼に寄付しました
。川原医師は必要なお金を集めました。そして、その翌年、彼はついに夢を実現したのです。彼は「アジア保健研修所(AHI)」という名前の施設を創設したのです。
 現在「AHI」は約8000人の会員に支えられています。それぞれの会員は自分たちの誕生日に寄付をします。そのお金で施設は毎年約200人のヘルス・ワーカーに研修を行っています。健康は誰にとっても基本的人権です。それは時間とお金のある人たちだけの祝福ではないのです。誰でもが医療を受けられなければなりません。最初、川原医師はネパールで病気の人々を助けました。今は、自らを助けるアジアの人々を援助しています。「自立のための分ち合い(Sharing for self-help)」がAHIの全ての会員のモットーなのであります。』
 以上が私の拙い訳です。この文章(英文)を娘と一緒に暗記しようと思いましたが、私の方は挫折しました。教科書にはAHIの資料、研修所で教えている先生やネパールの子どもたちの写真などが沢山載っています。それによりますと1994年までに各国から来られた1699人の方が研修を受けておられます。
 盲伝の国際交流部も少しづつ動き出しています。決して夢を捨てず、一歩一歩進んで行けば、神様はきっと祝福して下さることでしょう。





事務局便り4月号(2002年)          阿佐光也
 元NHKのニュースキャスターで、現在はフリージャーナリストとして活動している木村太郎氏の名前をご存じの方は多いと思います。この木村氏が毎週土曜日の東京新聞夕刊に「太郎の国際通信」という連載記事を書いています。ちょっと変わった視点で世界情勢を伝えてくれるので、私は毎週読んでいるのですが、4月6日のこの欄の文章にはちょっとがっかりさせられました。
 それは「中東問題と必携の書」と題した一文です。この「必携の書」というのは聖書のことで、木村氏は次のように書き出しています。「私のデスクの上には、辞書や辞典
類と並んで聖書が置いてある。と言っても私はキリスト教徒ではない。中東問題を考えるときには、聖書を頼りにすることが多いからだ。」
 記事の内容は、3月27日にイスラエル・ネタニヤのホテルで起こった自爆テロ事件に関してで、死者21人、負傷者は100人を超えたこの惨事がユダヤ教の過ぎ越しの祭の日に起こったことに注目しているものです。ここで、木村氏は「出エジプト記」をひもといて、過ぎ越しの祭の由来を説明します。そして、「これは単なるテロではなくて、イスラエルの存続に対する挑戦である」とイスラエル人が受け止めたことを指摘します。また、世界最強のイスラエルのメルカバ戦車部隊を、昔のペリシテ人戦士ゴリアテに喩え、自爆テロで応戦するパレスチナの若者たちを、投石でゴリアテを倒した少年ダビデに重ね合わせて、立場が逆転しているのは歴史の皮肉だと語っています。これはかなり乱暴な見方です。
 しかし、問題なのはそのあとに続く文章であります。木村氏は次のように記しています。「そのダビデは、やがてイスラエル帝国を築くが、繁栄はその子のソロモンの代までで、その後イスラエル国家は分裂を繰り返した後に、アッシリアに滅ぼされ、イスラエルの民は捕虜としてバビロンに幽囚される。これについても、旧約聖書は詳細に記録している。」 これは誤りであります。イスラエルはソロモンの死後、北イスラエル王国と南ユダ王国に分裂します。そして北はアッシリアに、その130年程後に南が新バビロニアに滅ぼされ、ユダの主だった人々はバビロンに捕囚の民として連行されたのであります。せっかくデスクに聖書が置いてあるのだから、正確に記して欲しいと思った次第です。
 ところで、戦後のイスラエルの建国から現在にいたる中東紛争の問題を論ずるとき、このように聖書の記述がよく引用されます。しかし、聖書に紛争の原因を捜しても、何の意味もないと私は思います。それは3000年近い昔の話であり、問題は現代の利害関係なのです。お互いが幸せに暮らせるように、未来に向かって現実的合理的解決の道を探るべきです。イエス様は、「祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのを思い出したなら、まず行って仲直りをし、それから帰ってきて、供え物を献げなさい」と語っているのです。





事務局便り5月号(2002年)          阿佐光也
 「あっ、しまった、お弁当がない」。私は思わず心の中で呻いてしまいました。5月
1日の朝、事務所に向かう通勤電車の中でのことです。本を読もうと鞄を開けて気がつきました。その朝も思考をこらした作品にして、鞄に入れたつもりだったのに、見当らないのです。お昼の楽しみが一瞬にして消えた瞬間でした。出掛けに、その日読みたい本に気を取られて、本は鞄に入れたのに、お弁当は居間テーブルの上に置き去りにしてしまったのです。忘れた私は勿論大いにがっかりですが、忘れられたお弁当もひどくみじめな思いをしたことでしょう。お弁当はお昼までの命なのに、置いてきぼりをくって、もう私と会えないのです。
 一人娘が高校に通いだして、我が家の生活が少し変わりました。妻が朝早く起きて、娘のためにお弁当作りを始めたからです。私は、私の分の御飯も炊いて下さい、おかずも少し余分に作ってくださいと彼女に頼みました。そして、毎朝のお弁当作り、正確にはお弁当詰めが私の新しい日課となりました。生野菜をぎゅうぎゅう押し込んだり、好きな佃煮をまぶしたり、私なりにいろいろ工夫をして、娘のものとは一味違う大人の料理に仕立てるのです。これはなかなかの快感で、しかも昼食に何を食べようかと考える煩わしさから開放される、まさに一石二鳥という訳です。その大事なお弁当を忘れてきた口惜しさは、ご理解いただけると確信致します。
 ところで、職場での昼食をお弁当にして、改めて気がついたことがあります。まず、おいしいということです。これは決して客観的な味ではありません。私の詰めた弁当など、他の人にとってはとても食べられたものではないでしょう。でも、私にとってはこれほどうまいものはないのです。更に不思議なことに飽きないのです。毎日ほとんど代り映えのしない内容ですが、飽きがこない。盲伝事務所の界隈は実においしい食堂や食べ物屋が沢山あります。しかし、どんなにおいしい料理でも、二日続けてその店に行きたいとは思いませんし、何回か通うと暫くお休みしてしまいます。ところが、自分の作ったお弁当は日々新たにおいしいのです。自分が好きなものを詰めているのだから、当たり前だと言われれば、それ迄ですが、それとは違う別の力が働いているように感じられます。そこで、牧師としての探求心を働かせると、主の祈りの中の『日毎の糧』とは、ひょっとしてこの弁当のような食べ物かなと思えてきたのであります。
 さて、置き忘れられたお弁当のその後の運命ですが、私は池袋駅から妻に電話をかけ、お昼に食べてくれるように懇願、何とかお弁当としての役割を果たさせたのであります。しかし、その日帰宅した私は、彼女から「おいしかった」という感謝の言葉ではなく、「お昼食べ過ぎちゃったじゃないの」という恨みの言葉をもらったのでありました。





事務局便り6月号(2002年)          阿佐光也
 企業のあいだではITバブルはもう終わりで、これからは本格的なバイオテクノロジーの時代になると報じられています。しかし、この盲伝の事務所では最近やっとADSLを導入して、電話を中断しなくてもインターネットやメールの送受信ができるようになって喜んでいるところです。ADSLというのは、日本語にすると「非対称デジタル加入者線」という英文の略だそうです。私にはその意味はさっぱり分かりませんが、お陰で手軽にインターネットから情報を入手できるようになって、改めてその便利さを感じています。
 ところで、盲人伝道協議会は昨年創立50周年を迎えましたが、盲伝発足にあたって、大きな役割を果たしたのが、1948年に来日したヘレン・ケラー女史と彼女が総裁をしていたアメリカの盲人伝道団体「ジョン・ミルトン協会」でした。しかし、私が主事として働き始めた時は、ジョン・ミルトン協会から盲伝への献金は打ち切られた後で、お互いもう何の関係もなくなっていました。私はいつもこのアメリカの恩人を気にしながらも、名前以外には何一つ知ることなしに今まで過ごしてきました。そこで、今回インターネットでジョン・ミルトン協会を検索してみたところ、立派なホームページが開設されていました。それによると現在も活発に活動を続けている様子です。正式名はJohn Milton Society For The Blind (JMS)で、簡単な背景として次のように記されていました。
 「1920年代の後半、ヘレン・ケラーとその他の視覚障害者団体の人々は点字のキリスト教図書をもっと制作して欲しいと訴え始めた。当時、主要なプロテスタント各教派は点字の図書を殆ど持っていなかったので、1928年に超教派で点字や大活字の本を視覚障害者に提供するためにジョン・ミルトン協会が設立された。ヘレン・ケラーは1932年に総裁となり、1960年に退くまで責任者として務め、その後1968年に亡くなる迄、名誉総裁として奉仕したのであった。この協会はイギリスのクリスチャン詩人ジョン・ミルトン(1608-1675)に因なんで命名された。彼は報道・出版の自由を擁護し、自らそれを守るために実に多くの記事を書いたが、40才を過ぎた直後に失明し、偉大な叙事詩「失楽園」を書いた時は盲人であった。今でも、JMSは創立者ヘレン・ケラーと、名前の由来となったジョン・ミルトンの理想を実現するために、出版事業と奨学金事業を続けている。」
 この他に、現在の活動の紹介やサービスの利用方法、理事の名前や肩書なども載っています。これらを眺めていましたら、ジョン・ミルトン協会が急に身近に感じられるようになり、一度訪問してみたいという気持ちになりました。そして、もう一つ、盲伝もホームページが必要だという思いが心の中に湧いてきたのであります。勿論、これも私にはとてもできないことなので、アルバイト職員の吉川嬢に今盛んにハッパをかけているところであります。






事務局便り7月号(2002年)          阿佐光也
 今年2月、まだ寒い頃でしたが、私の母校日本聖書神学校の同窓会の東京支部と神奈川支部の合同の一泊研修会が箱根で行われました。私は、神学校には時々顔を出しますが、同窓会には御無沙汰ばかりで、ほとんど集会には出ていません。しかし、この時は講師が今橋朗先生ということもあって、思い切って出席致しました。今橋先生は、実践神学の教授で、私が2年生の時の担任をして下さっていたので、ちょうどその時結婚した私は、先生に司式をしていただきました。また、先生は盲伝の中央委員も務めて下さったことがあり、先生が牧会されている横浜の蒔田教会からは毎年大きな支援をいただいています。
 講演の主題は「教会教育の昨日・今日・そして明日は?−教会学校(CS)の再検討を巡って」で、大変刺激的な面白いお話でした。私はもう一度聴きたいと思い、研修会の幹事に講演の録音を貸して欲しいと頼みました。そうしましたら、貸す代わりにテープ起こしをして欲しいと、逆に頼まれてしまい、今回同窓会会報にそれが掲載されたのであります。この講演にはいろいろ気付かされることが多くありましたが、その中でも特に心に残ったのが「教会教育の歴史的起源としてのイスラエル共同体」というテーマの中で話された次の言葉でした。
 『教会教育の歴史はどこまで遡るか。それは宗教改革からではない。それに先立つ1000年間の中世も無視はできない。しかし、教会教育の歴史的起源としては、J.シェリルが『キリスト教教育のはじめ』で指摘しているように旧約聖書からと見るべきである。実はキリスト教が独創的に作った教育形態や教育構想は殆どなく、ユダヤ教から全部受け継いでいるのである。したがって、大切なのは旧約研究となる。旧約時代、ユダヤ教の教育の特色は、理念・思想としての教育ではなく、実践教育として、現実の日常生活、宗教的、政治的、倫理的生活に教育は含まれた。その基本は成人教育で、子どもたちは、学び続け成長し続ける大人たちのそばにいつでも一緒にいることで教育された。つまり子どもを大人から分離しないという構造の中で子どもが教育されたのである。それは学校教育ではなくて家庭教育で、その家庭教育が拡大された形がシナゴグである。学習し成長する大人のそばでしか子どもは学んだり成長したりしないのである。現代では、教育者と非教育者とに分けられるところに問題がある。ルターも「成長する大人の傍らに置いてしか子どもは成長しない」と言っている。』
 今年4月から公立学校は週休二日制になって日本の教育界は混乱しています。「ゆとり」と「学力向上」という二兎を追ってあたふたという感じです。しかし、教育の問題は大人の生活態度と倫理に掛かっている。何かを押しつける前に、自ら学び成長することで輝く、きっとこれ以上の教育はないのでしょう。教会がそのような場として大人も子どもも集える場であったらと思います。                    





事務局便り8月号(2002年)          阿佐光也
  8月1日の新聞に2001年の日本人の平均寿命が載っていました。それによ ると、日本人の平均寿命は、女性が84.93歳,男性が78.07歳で、いずれも 2年連続で過去最高を更新したとのことです。これは男女ともに世界一のレ ベルで、日本は「長寿大国」の地位を依然保っているようです。私は今まで 平均寿命などには余り興味がなかったのですが、今回はこの数字がとても身 近に感じられ、自分自身驚いています。それは自分をも含めてですが、私の お付き合いする人々がとしをとってきたきたことに原因があるようです。  
 そこで先ず第一に感じたことは、私の母親の年齢とこの平均寿命の関係で あります。女性のとしを公表したら怒られるかも知れませんが、母は今年81 歳になり、足腰もかなり弱ってきたので、私は随分年寄りになったなあと感 じていました。しかし、その母にして、平均寿命よりはまだ4歳も若いので あります。これは新鮮な発見でした。そこで、母にこの話をしましたら、 「そうねえ」と言って、笑っていました。平均が約85歳ということは、今の 日本には90歳代や100歳を超える人が相当いるということで、何か非常に頼 もしい気がいたします。
 平均寿命というのは、更生労働省の2001年簡易生命表という統計から導き 出された数字とのことです。この簡易生命表とは、現在の死亡率や死因が変 化しないと仮定し、各年齢層の男女があと何年生きられるかを示す平均余命 を算出したもので、昨年生まれた子どもが何歳まで生きるかが、その年の平 均寿命となるようです。しかし、この「現在の死亡率や死因が変化しない」 という仮定にはかなり無理があると私は思います。今の平均寿命は大正・昭 和・平成を見事生き抜いて来られた方々の金字塔のようなものであって、戦 争中の食料難の時代に育った世代や、食生活が変化し、水や空気が汚染され た時代に生まれてきた世代が、この伝統を受け継ぐことができるのか、ちょ っと疑問です。ただ、そういう変化は致し方無いとして、私たちが絶対に避 けなければならないことは、戦争やテロといった人間の愚かな行為でこの平 均寿命を引き下げるということでありましょう。私たちは平和の維持の為に 最善の努力をし、世界に働きかけていかなければならない。今日8月6日の 原爆記念日に特に強くそのことを思うのであります。
 ところで、私も今年55歳になり、やっと高齢者の入り口にたどり着いたよ うです。私が、もし男性の平均寿命まで生きられるとして、この地上で残さ れた時間は、あと23年間となります。この時間を長いと感じるか短いと感じ るかは別として、このように具体的な数字を見ると何かドキドキ致します。 イエス様は「わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得るこ とである」とおっしゃいます。ここに希望を置いて、永遠につながる今を力 強く、楽しく生きてゆきたい、平均寿命の新聞記事を見ながら改めてそのよ うに願ったのであります。



事務局便り9月号(2002年)          阿佐光也

 今年の盲伝の東西の修養会は、それぞれに私にとって始めての経験があり、大変印象深い思い出が心に刻まれました。西部集会では、現職の県知事さんが講師として来て下さり、インパクトのある講演をして下さいました。実行委員長の前田司さんが、「知事を始め熊本県全体で皆様を歓迎致します」と挨拶されましたが、まさにその通りという感じでした。私としましては知事さんに直接お目にかかるのは初めてでした。東部集会は、念願の秋田県田沢湖での開催で、こちらもまた、私にとってはそれだけで充分に心沸き立つ集会でしたが、そこで私を驚かせたのは、会場の田沢湖サンライズホテルの集会室でした。
 実は、私はこの東部修養会の前日から行われた東北盲信徒会の集会から参加したのですが、東京から大平ご夫妻と共にクルマで行ったため、ホテルに着いた時は、開会礼拝が始まっていました。そこで、会場に案内された私は不思議な思いがいたしました。その会場はふすまのような引き戸がしまっていましたが、旅館によくある大広間、つまり完全に御座敷の入り口なのであります。しかし、そこにはスリッパや靴などの履物が一切ありません。私は奇妙に思いながら、恐る恐る引き戸をあけて見ましたら、なんと畳の御座敷は、履物を脱がずに上がれるように絨毯が敷き詰められ、テーブルと椅子が並べてあったのです。
 田沢湖サンライズホテルは、田沢湖畔にある唯一の天然温泉に入れる宿だそうです。田沢湖の温泉は、遥か田沢湖を見下ろす高原にあって、そこは名湯や秘湯の宝庫なのです。しかし、湖畔では温泉が出ないので、このホテルだけが温泉を山から引いているのであります。この田沢湖畔の老舗の宿には、120畳の舞台付き宴会場はあるけれど、椅子とテーブルの会議室はありません。そこで恐らく東北盲信徒会の秋田県の方々が粘り強く交渉して下さって、このような驚くべき会場が出現したのでありましょう。私もいろいろ無理をお願いした経験はありますが、これには脱帽でした。そうしましたら、無理はそれだけでなく、まだ観光シーズン中のホテルに価格面でも相当無理を聞いて貰ったとか。秋田県の人は皆親戚付き合いをしているのでしょうか。それにしても、御座敷を会議室にするこういう魔法があったのですね。
 ところで、絨毯は敷いてありますが、靴のまま畳の上を歩きまわるのは、とても不思議な感じが致します。そこで、以前教会の祈祷会で、ある教会員が「温かい岩」という題で奨励をしてくれたことを思い出しました。イエス様の言葉を聞いて、それを行う人は、岩の上に土台を置いて家を建てた人にたとえられました。その方は、「その岩は冷たいゴツゴツした固い岩ではなく、血の流れているあたたかい岩だと思う」と語られました。岩はイエス様ご自身なのです。私は柔らかい畳の上を歩きながら、温かい岩の感触をそこに感じました。そして盲伝はイエス様という岩の上に建てられていることを改めて感じたのであります。





事務局便り10月号(2002年)          阿佐光也
今から3年前の初冬の頃です。妻の道子が、大変気に入ったのがあったと言って、近所の花屋さんから1200円でピンクのシクラメンの小さな鉢を買ってきました。高さも直径も15センチほどの植木鉢に形のよい花がこんもりと咲いていました。実は、前からこの花に目をつけていたのだけれど、ちょっと高いから迷っていたら、その日値引きされていたので、思い切って買っちゃったということでした。確かにその色合いは不思議な魅力があり、花にあまり関心のない私でも、ずいぶん良い買物をしたなと思うほどのものでした。
 ところで、このシクラメンは、その翌年も花を咲かせました。買ってきた時と同じ美しさとはいきませんでしたが、充分に楽しめる花でした。私は、シクラメンの鉢植えは一冬で終わりかと思っていましたから、ちょっとびっくり致しました。更に、このシクラメンはその翌年もまた花を咲かせました。しかし、さすがに3回目ともなると、その容姿は衰えて、特に葉っぱが少なくなって、花をうまく支えられないので、紐をかけたり、支柱で補強したりして、介護が必要となったのです。そして、この3回目の花が枯れた後は、虫がついてしまい、介護者の妻はとうとう土の上に出ている部分を全て切り取ってしまったのであります。こうして、鉢の中は土の塊だけとなりましたが、それでも捨てられることはなく、ベランダの片隅にそっと置かれたのでありました。
 ところが数日前、土の塊だけとなっていたこの植木鉢から、再び十数本の茎が10センチほどに伸びてきて、その先に小さな葉を付けているのを私は発見しました。彼女の話では、秋になったから水をやっていたら、また茎が伸びてきたというのです。そして、私には見分けがつかないのですが、ごくごく小さな蕾も現われているとのことです。暑い夏の期間も含めて半年以上も、水もなく忘れられていた根っこから、こうして芽が出て来るというのは、私にとっては新鮮な驚きで、生命力の強さ、命が生きようとする純粋さを、その小さな茎の中に見る思いがいたします。この冬は、どんな形で花が咲くのか分かりませんが、これで今年も我が家では、シクラメンを買うことは多分ないことでしょう。
 以前、テープ雑誌「おとずれ」の取材で、カビのお話を伺った微生物の研究をしている狩野文雄氏は「人間は自然というと、山や海や星の世界などの大自然を思い浮かべるが、小さな世界にも自然は一杯ある」と語って下さいました。我が家のこの小さな植木鉢の中にも大宇宙に匹敵する自然の世界が展開していることを思います。イエス様は「空の鳥をよく見なさい。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい」とおっしゃいました。身の周りの日常の小さな世界にも神様の御業は豊かに働いている。そのことに気付き、驚くことが、私たちの命を日々生き生きとさせるのだと思います。イエス様は、またこのようにも語られました。「実に、神の国はあなた方の間にあるのだ(ルカ18:21)」と。    






ニューヨーク訪問記(1)
       「地下鉄とグランド0(ゼロ)」
                                 黒多健


 9月10日から24日までアメリカのニューヨークを訪れた。何度かに分けて、その訪問記を書いてみたい。
 その昔、氷河によって削られた岩の中州、ハドソン川の中にある南北に細長い中の島がニューヨークのマンハッタン島である。だから、マンハッタンは岩が多く、でこぼこしたところにできた都市である。地下鉄も、そんなに深く掘って建設されたものではない。今の技術ならば、もっと深く掘るのだろうが、印象としては、岩に溝を掘り、ふたをかぶせたようなものといってもいい。だから、マリリン・モンローが主演した映画、「7年目の浮気」であったか、彼女のスカートを派手にまくりあげるような風が、列車が行き来するたびに、出入口やマンホールから吹いてくる。
 ブロード・ウェイの地下鉄は、110丁目のところあたりから、急に地上を走るようになる。それも、かなり高い高架線の上である。ここからも、マンハッタンが起伏の多いところであることがわかる。
 ニューヨークの地下鉄といえば「こわい、きたない、狭い」といったイメージ、壁といわず、列車といわず、ベタベタと落書きがあって、どことなく小便くさいというイメージであったが、古い割りには落書きもなくて、地下道も明るい。意外であった。前の市長ジュリアーニが、やっきになってイメージ・アップ作戦を展開した結果であるという。しかし、さすがに古さは隠しきれず、地上の出入口の幅は日本のそれの3分の2程しかなく、勿論点字ブロックは一切なし・・・。
 列車の中といわず、地下道といわず、あらゆるところで歌を歌ったり、サックスを吹いたり、太鼓を叩いたりと、様々なパフォーマンスをやっている。演奏が終わると、いろんな名目で寄付を募る。ところが、そうした人々もすべて市役所の出している許可証をもっているというのである。
 同時多発テロの1周年ということなのか、警官やガードマンの姿が目立つ。地下鉄だけではなく、こんな小さなドラッグストアにまでと思うようなところにも立っている。これも、ひとつの失業対策事業なのかと思わされた。
 わたしが思い描いていた「自由の国アメリカ」といったものからは、やはり実際のそれはかなり異なっていた。南から北に向かう地下鉄に乗ると、ストリートの数がふえていく。ちょうど42丁目あたりがミドル・タウンでタイムズ・スクウェアや、グランド・セントラル駅がある。南の方がダウン・タウン、北の方がアップ・タウンである。ちなみに南北の通りがアベニューで、東西の通りがストリートである。しごく分かりやすい。
 同時多発テロのあった世界貿易センタービルは、マンハッタン島の南のはしっこ、ダウン・タウンにある。「ここからも、あのツイン・タワーが見えたものだ」といろんな人から、いろんなところで聞かされた。巨大な建造物であっただけに、その喪失感も大きいものがあるようだ。テロがあった日、9月11日には、朝早くバグ・パイプと太鼓の音で起こされた。朝の4時30分ころである。追悼のためのパレードであるという。犠牲となった消防士の住んでいたアパートや、働いていた消防署などには、星条旗と共に、花束やろうそくが飾られていた。
 その当日、グランド0(ゼロ)を訪ねた。グランド0(ゼロ)とは、爆心地のことで、ツイン・タワーのあったところである。テロの直後には、それほど深くないためか、付近の地下鉄もストップしてしまったとのことである。
 瓦礫はきれいにかたずけられ、更地のようになっている。すでに前半の式典は終わっており、ジュリアーニ前市長が犠牲者の名前を読み上げている途中であった。ときどき、身内か友人か、あちこちで拍手がわきあがる。星条旗を売る人、アメージング・グレイスのCDを配っている人など、立ったまま周囲をとりかこんでいる人々は、それぞれの仕方で感慨にふけっているようだった。
 名前の読み上げは延々とつづいている。どちらかと言えば、阪神大震災の追悼式のような、天災の犠牲者の追悼といった印象であった。
 当たり前と言えばそれまでだが、死者を追悼するというのは、ごく個人的なものである。そうした個人的なものが、星条旗やオサマという名前といっしょになることで、ある方向性があたえられる。アメリカ政府は、そうしたものと結びつけることによって、一定の方向に人々の心を向けていこうとしていると感じさせられた。 (つづく)




 事務局便り11月号(2002年)          阿佐光也
 東京渋谷区の「サイバーカレッジ新宿」という英会話教室が10月末に、生徒に何の説明もなしに突然閉鎖されたとのことです。その被害者の嘆きをレポートした「残ったのは怒りとローン」という記事が新聞に載っていました。この教室は「2年間の外国人講師による英会話とパソコンのレッスンが取り放題」というキャッチフレーズで生徒を集め、3年余りで逃げてしまったようです。2年間で60万円、或いは3年間で75万円ほどの受講料は前払いするシステムらしく、生徒の多くはローンを組んだり、親のすねをかじったりして払い込んだようです。8月に契約をした会社員の女性は今月からローンの引落が始まるということでした。 
 それにしても、このような詐欺事件が後を断ちませんが、何故、人はそんなに簡単に騙されてしまうのでしょうか。私なんかは「レッスン取り放題」などと聞くと「そんなうまい話があるの?」と疑いたくなるし、何十万円もの大金を前払するなんて心配で二の足を踏んでしまします。大企業でも一年後はどうなっているか分からない、今はそういう時代なのです。きっと勧誘が巧妙で執拗だったのでしょう。実際、英会話の実力を付けたくて契約をした二十歳の女子大生は、「英語が好きで留学もしたい。だけど今回のことで人が信じられなくなった。次の一歩を踏み出す自信がない」と語っています。お金の被害も甚大ですが、こうした心の被害はもっと重大とも言えます。

 一般に日本人は、「人を信じる」ということを一種の美徳と感じているように私には思えます。教育もそういう姿勢で行われているのではないでしょうか。これは裏返せば、人を疑うのは良くないという事でありますが、私はそれは少々問題ではないかと思います。勿論、人を信じるということは大切なことで、それがなければこの世は暮らしていけません。しかし、人をきちんと疑ってあげるというのも、それと同じくらい大事なことだと思います。人を騙して儲けようという人はいくらでもいるのですから、怪しいものを見分ける感性も育てなければと思うのです。人はそんなに信用できる存在ではありません。それは自分を見るとよく分かります。大切なことは「人を騙したら、自分が大損する」という社会の仕組みを作ってゆくことだと思います。そうすれば、もう少し安心して暮らせる社会になって、食品の偽装表示や、原発の事故隠しなども減ってくるはずです。
 ところで、私の好きな詩146篇で詩人は次のように歌っています。「もろもろの君に信頼してはならない。人の子に信頼してはならない。彼らには助けがない。その息が出ていけば彼は土に帰る。その日には彼のもろもろの計画は滅びる。ヤコブの神をおのが助けとし、その望みをおのが神、主におく人は幸いである。」
 この聖書の引用はちょっとピント外れかも知れませんが、信じられない人の世だからこそ、絶対に信頼できる存在として、主イエス様と共に生きる恵みの大きさは計り知れないことを痛感するのであります。





事務局便り12月号(2002年)          阿佐光也
 それぞれの家庭には、それぞれ独自の習性があると思いますが、我が家の特性 の一つは、外食がいささか多いところにあるのではないかと常々思っています。
勿論、よその家のことは分かりませんから、これが正しいかどうかはかなりあや ふやです。ただ、そう感じるということです。その理由は、妻の体が弱く、大変 疲れやすいので、食事の支度をギブアップする回数が多いということと、私が外 で食べることが好きだからではないでしょうか。これは我が家のささやかな楽し みでもあり、大体は近所のファミリーレストランにクルマで出かけます。しかし この時、いつも私を悩ませる問題があります。
 それは家族が、と言っても妻と娘の2名の女性ですが、彼女たちが大変優柔不 断だということです。私が、「今日はどこに食べに行こうか」と言うと、「どこ でもいい」と言います。「洋食、和食、イタリアン、中華、どれがいい」と尋ね ると、「どっちでもいい」と答えます。そこで、私の希望の「中華に行こう」と 言うと、「う、うーん」と拒否の表情をします。そんな会話をしながら、私は彼 女たちの、その日の希望を徐々に聞き出し、それにそった店に行くのであります。幸いというか、不幸にしてというか、我が家の周りには、クルマで10分以内の場 所に、十数軒のいろいろな料理の店が点在しているのであります。
 こういう優柔不断の「どっちでもいい」という返事はあまり歓迎されません。 しかし、私たちが生きていく上で、この「どっちでもいい」という気持ちは、別
の意味でとても重要な要素であると私は思っています。特に、信仰に生きる者に とっては大切なことであります。創世記13章で、お互いが裕福になって共に暮ら していけなくなったアブラハムと甥のロトが別れる時、アブラハムは、ロトに土 地を選ぶ優先権を与えました。これはアブラハムが優柔不断であったのではなく、「自分はどっちでもいいのだ」という決断をしたのだと、私は考えています。主 の「行きなさい」という声に従って旅出ったアブラハムですから、自分の住むと ころは、自分ではなく主が決めてくださるのです。このように、自分の人生の根
幹に関わる部分の判断を主に委ねる、つまり「どっちでもいい」と決断すること が信仰者には求められているのであります。
 ところで、我が家の奥さんは、この冬も最悪の体調でアドヴェントを迎えてい ます。昨年苦しんだ右肩の五十肩がまだ治っていないのに、今度は左肩が、同じ ように痛くなって、昼も夜も身の置きどころがないといった感じです。その疲れ から持病のめまいがおこり、ここ数日は外食にも行けないという状況です。彼女 にとっては、健康を取り戻したいということが今一番の願いであり、私もそのこ とを祈り、そのことのために努めています。しかし、それとは別に、私自信にと っては、それは「どっちでもいい」こととして受け止めることが大切であろうと 思っています。いずれにしても、彼女は彼女なのですから。メリークリスマス!!



事務局便り1月号(2003年)          阿佐光也
 新年おめでとうございます。この雑誌が届く頃は、もうお正月の気分ではない と思いますが、今日は1月5日、私は新年礼拝から帰ってきて、机に向かってい るところであります。今年は寒いお正月ですが、身が引き締まる思いが致します。皆様はどんな抱負を抱いて、新しい年をお迎えになりましたでしょうか。私は、 今年こそは持病の「なまけ癖」を少しでも解消して、下り坂で加速のついてきた 体力や記憶力の衰えにブレーキをかけたい、そんな願いをもちました。
 そこで手始めに、昨年買っただけで、殆ど開くことがなかったベストセラー 「声に出して読みたい日本語」という本をひっぱり出して、大声で読んでみまし た。それはなかなか気持ちのよい作業であります。しかし、これは不思議な本で す。雑多な日本語が殆ど出鱈目というか、めちゃくちゃに並んでいるのです。そ こが魅力で、多分ベストセラーになったのでしょう。例えば、最初の「腹から声 を出す」というグループでは、いきなり『知らざあ言って聞かせやしょう』と、 白浪五人男の弁天小僧のセリフで始まり、次が宮沢賢治の『風の又三郎』、続い て『がまの油売りの口上』、更に『平家物語』といった具合です。こうして76の日本語や漢詩が8つのグループに分けられて収められているのであります。
 そんな中で、とても興味深かったのは福沢諭吉の『日々の教え』という文章で あります。明治4年、8歳の長男の市太郎、6歳の次男の捨治郎兄弟のために、 諭吉が毎日に1か条づつ書いて与えて説教したものということです。説教と言っ ても、紙芝居のように楽しく語ったようです。以下は、その全文です。
  『東西、東西。日々の教えの二篇のはじまり。お定めの掟は6か条、耳をそろ えてこれを聴き、腹に収めて忘るべからず。〈第一〉天道(てんとう)様を畏れ、これ を敬い、その心に従うべし。しかし、ここに言う天道様とは、日輪のことにはあ らず。西洋の言葉にてゴッドと言い、日本の言葉に翻訳すれば、造物者というも のなり。〈第二〉父母(ちヽはヽ)を敬い、これを親しみ、その心に従うべし。〈第三〉人を殺すべからず。獣を酷く取り扱い、虫ケラを無益に殺すべからず。〈第四〉 盗みすべからず。人の落したるものを拾うべからず。〈第五〉偽るべからず。嘘 をついて人の邪魔をすべからず。〈第六〉貪るべからず。無闇に欲張りて人のも のを欲しがるべからず。』
 もうお気付きと思いますが、これは聖書の『十戒』そのものです。これを読ん で、福沢諭吉の清廉とユーモアを改めて感じました。そして、新年にあたり、世 界中の人がこの『教え』を唱えて、それに従うならば、どんなにすばらしい世界 が訪れるかを夢見たのであります。それはたった6か条なのであります。
 ところで、この本を読み終わって一つ残念だったことは、ここに文語訳の詩篇 23篇が収録されていないことです。これこそ声に出して読みたい名文であります。そこで私は最後に「エホバはわが牧者なり・・」で締め括ったのであります。阿佐光也




事務局便り2月号(2003年)          阿佐光也
 2月5日の未明に父のすぐ下の妹、私にとっては叔母にあたる人が亡くなりま した。79歳でした。娘の介護で療養生活を送っていましたが、千葉の自宅で静か に息を引き取ったようです。この叔母はクリスチャンではありませんが、私が教 会に行くようになるきっかけとなった人で、それは25年前の出来事でした。
 当時、叔母は54才の働き盛りで、徳島の県立高校の校長をしていました。その 数年前に、夫が心臓の発作で亡くなり、二人の娘は東京で暮らしていましたので、本人は徳島市で一人暮らしをしていました。そして25年前の8月のある夜、叔母 は自宅で脳溢血で倒れたのであります。大変大きな発作でしたが、幸いその時ち ょうど下の妹が来ていて、すぐに救急車で病院に運ばれました。その知らせを東 京で聞いた娘たちはショックと不安で茫然自失となり、私は翌朝一番の新幹線で おろおろする二人の従姉妹を連れて徳島に向かったのであります。徳島の病院で は、朝から手術に取りかかるということでした。
 私は父の郷里である徳島に何度も足を運び、その度に楽しい想い出を重ねてき ています。しかし、この時の旅は違いました。安否の分からない母を思い、すぐ にめそめそ泣きだす二人の従姉妹を、私はどう元気付けてよいか分からない、そ んな旅でした。岡山から宇野へ、宇野から連絡船で高松へ、そして徳島へと駈け 付けたのでありますが、最も印象的だったのは、宇高連絡船での一時間でありま した。真夏の燦々とふりそそぐ日差しの中で、瀬戸内の海は美しく輝き、船の上 では、夏休みを利用しての楽しい旅をしている人たちで、賑やかであります。い つもなら私も大好きな連絡船の甲板で風に吹かれながら讃岐うどんをすするとこ ろでありますが、その日は、まったくそんな気分ではありませんでした。
 私は、今でもその時のことをリアルに思い出します。生死の分からない母親を 心配し、うずくまって座っている従姉妹たちと、その周りの明るい世界との激し い落差、その鮮明なコントラストに、私は人間の現実を見たような気がいたしま した。人の現実にはこのように裏と表がある。どっちが裏で、どっちが表か分か りませんが、死の現実の上に生が成り立っているということを、心に刻んだので あります。叔母は10時間を超す手術で一命を取り留めましたが、後遺症が残り、 退職を余儀なくされ、その後リハビリ病院で訓練をして、娘たちとこちらで暮ら
すようになったのであります。
 それまで実にのほほんと生きてきた私はその旅のあと、死について、そして生 きるということについて、少し真面目に考えるようになり、ときおり礼拝に出席 するようになりました。この時私は31歳。これがクリスチャンの家庭に育った私 が、自らの意思で始めて教会の門をくぐることになった経緯であります。それか ら5年後に神学校へ行くとは、その時は夢にも思っていませんでした。阿佐光也




事務局便り3月号(2003年)          阿佐光也
 盲伝の事務所近くの早稲田通りには、今でもかなりの数の古本屋さんが営業を していて、昼食時などにそこを通るときは、店先に並べられた廉価な文庫本や新 書本をちらほら眺めながら歩きます。先日もほんの一瞬目に入ったおもしろそう なタイトルの本を見つけて購入しました。それは「コーランは楽しい」という岩 波新書で、価格は100円でした。アメリカのイラク攻撃という暴挙が起こされよ うとしている時、イスラム教の人々のことを少しでも知りたいと思ったからです。しかし、この本はしばらくの間カバンに入れたままになっていました。
 数日後、ちょっと時間ができたので、いよいよ読んで見ようとカバンからその 本を取り出して、私は愕然としました。なんと、その本は「コーランは楽しい」 ではなくて、「コーラスは楽しい」というタイトルだったのです。著者は関屋晋 という著名なアマチュア・コーラスの指揮者で、私も名前はよく知っている人で す。なんというおっちょこちょいでしょうか。コーラスの楽しさは、本を読まな くても私は十分に知っています。大学時代の4年間、私は結成されたばかりのグ リークラブ(男声合唱団)に所属して、歌ばっかり歌っていたのですから。
 それでもせっかく買ったのだから、拾い読みをしてみました。関屋氏は、コー ラスの楽しみは、様々な声がまじり合い、溶け合って作り出す響きにあると言い ます。これは同感です。いろんな声の人がいろんなパートを歌い、それらが一つ に溶け合って素晴らしい作品に仕上がるのです。これに私の経験をつけ加えれば、そこで大切なことは、一緒に歌っている人の声をよく聞くということです。コー ラスで歌うということは、聞くとて、その時ハーモニーを体で 感じられ喜びが湧いてきます。パウロはローマ書12章や第一コリント書12章で、 世界は一つのキリストの体であり、私たちはそれぞれ違う役割をもった部分であ ると述べて 思います。アメリカもイラクと戦争ではなく、コーラスをしてもらいたいもので す。
 ところで、親から高い学資を出してもらいながら、大学で歌ばっかり歌ってい た私は、今、娘の学資を出すようになって、これは申し訳けなかったなと思うよ うになりました。しかし、後の祭です。それでも、その経験は少しは役に立って いるようです。今、讃美歌を歌う時、割と大きな声が出るのは、きっとその時の 訓練のお陰でしょう。また、たくさん歌った曲の中で、一番好きだった多田武彦 作曲の合唱組曲「雨」の中に八木重吉の「雨」という詩が含まれていて、その時 から八木重吉のファンになっのでした。
 この私の青春の記念碑として、4年生の時の定期演奏会が一枚のLPレコード として残っています。男性合唱のお好きな方には、恥ずかしながらこれをテープ に録音して贈呈したいと思います。そこには組曲「雨」も歌われています。




事務局便り4月号(2003年)          阿佐光也 
 最近、一家3人が食べていくのは本当に大変なことだと感じさせられています。3人でもこんなに苦労するのですから、もっと人数が増えたら、パニックになるのではないかと思ってしまうほどです。しかし、そのような話はほとんど聞こえて来ませんから、私があたふたしているだけなのでしょう。
 実は、2月の下旬から、妻の体調が徐々にわるくなり、食事がだんだん摂れなくなってきました。3月に入ってからはお粥だけの生活になり、4月に入ったら、ほとんど起きていられない状態となっています。もともと虚弱な体質で、いつも疲れを感じているようなのですが、その疲れが極度に溜ると、このように消化器官が働かなくなってしまうのであります。それにしても今回の事態はかなり深刻で、せっかく40キロに近づいていた体重は、1ヶ月で33キロに急降下。近所の医者で処方された薬はほとんど効かず、さりとて大きな病院での検査は体力的にこわくて二の足を踏んでしまいます。現在のところは、やわらかいものを少量ずつ食べて、ひたすら体を休めて、体力の回復を待つより仕方がないようです。
 そのような事態となって我が家の家事は当然停滞しているのですが、食事だけは省く訳にはいきません。春休み中は娘がかなり手伝ってくれたのですが、学校が始まってからは、大部分が私の肩にかかってきています。そこで、改めて、人が食事を摂るということは大変な作業を伴うことなのだと感じているのであります。献立を考え、買物をし、調理と盛りつけをして、食卓に出す。食べ終わったら、食器を運び、洗って、拭いて、戸棚にい仕舞う。その後、ゴミの処理と台所の片付け。普段から少しは手伝っているつもりでしたが、何から何までやってみると、これはかなりの重労働であります。勿論朝昼晩と食事の形態は異なります
が、たった3人でも一日3回食べるということの大変さを知ったということです。 健康で丈夫なひとなら、こうした家事を上手にこなし、更に仕事や趣味、教会
生活などに手を広げられると、彼女は言います。しかし、体の弱い自分は家事だけで全エネルギーを使ってしまって、後は疲れて何もできないから、いつもつまらない思いをしているのだと、今回初めて打ち明けました。これには私もびっくりでした。今回のダウンは、体の問題もさることながら、精神的な要素が大きかったようです。17年間も一緒にいて、そんな彼女の悩みに気付かず過ごしてしまったとは迂闊でありました。彼女の「疲れる」あるいは「疲れた」という言葉を聞いても、あまり「疲れ」を知らないで生きてきた私には、それがどういう事かよく理解できなかったということもあります。彼女も、言っても分かって貰えないから黙っていたとのこと、これには大いに反省させられたのであります。
 イエス様は「自分を愛するようにあなたの隣人を愛せよ」と語ります。今この言葉の重みを感じながら、下手な家事に若干精を出しているのであります。




事務局便り5月号(2003年)           阿佐光也
 この3月で私は、今働いている新泉教会に赴任してちょうど15年が経過しました。そこで教会の2003年度の年間の標語として、信仰の基本に戻って、フィリピの信徒への手紙1章27節の言葉から、『ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送りなさい』というパウロの言葉を選び、新年度の教会総会の資料に次のような文章を掲載いたしました。
 「新泉教会に牧師として招かれてから15年が経過しました。その間、未熟な牧師を支え、励まし、ここまで共に歩んできて下さった教会の皆様に心から感謝致します。この節目の時に、もう一度信仰の原点に戻って、新たな力を主からいただきたいと願い、この聖句を標語として選びました。
 『ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送りなさい』とは、何か律法的に生活を縛るということでは決してありません。イエス・キリストの福音によって、神様から与えられた恵みを最大限に感じて、いきいきと生活をするというこ
とであります。それはこの世で受けるあらゆる束縛からの自由であり、どのような試練にあっても、キリストが共にいて下さるという安心であり、罪赦されてすべてのことに感謝できる喜びに生きることであります。
 パウロはこの『フィリピの信徒への手紙』を獄中で書いたと言われています。しかし、この手紙は『喜びの手紙』と呼ばれているように、全編感謝と喜びに満ちています。それこそがパウロの言う『福音にふさわしい生活』であり、それは次の28節で述べている『こころを合わせて福音の信仰のために共に戦っており、
どんなことがあっても、反対者たちに脅されてたじろぐことはない』ということであります。
 今、日本の現状も世界の実状も大変厳しく、弱い立場の人々が苦しめられ、私たち自身の生活も脅かされています。そのように人の罪が荒れ狂うこの地上において、私たちはひたすら福音に頼り、福音に力を与えられ、たじろぐことなく、主の御栄えを現わすべく、共に戦ってゆきたいと深く願わされます。
 その為に、教会の存在が、そこに集う一人ひとりの支えとなるように、礼拝と交わりを大切にしたいと思います。そしてそこから遣わされて、主から各自に示される使命を、生活の場で果たしてゆく者でありたいと祈るのであります。」
 私は、この15年間で1度だけ風疹に罹って熱が高くて礼拝を休みました。しかし、その時以外は不思議と日曜日になると元気になり、休むことはありませんでした。これこそ「自由」と「安心」と「喜び」という福音の3点セットのお陰だと思っています。この3点セット、元巨人軍監督の長嶋さんだったら「元気の方程式」と表現するのではないでしょうか。この元気の方程式である「ひたすら福音にふさわしい生活」をご一緒にに送っていこうではありませんか。 




事務局便り6月号(2003年)           阿佐光也
 ちょっと昔の話になりますが、雑誌『現代思想』1995年3月号に、特別企画として聾文化に関する3つの宣言文が掲載されました。その中心となる文章が「ろ
う文化宣言・言語的少数者としてのろう者」でありました。また、翌年の『現代思想』4月号は「ろう文化」を総特集して、「ろう文化宣言」に関連した賛否様々な視点からの50近い論文が掲載され、400頁を超す分厚い雑誌となりました。
 「ろう文化」という言葉は聞き慣れない方も多いと思いますが、「ろう文化宣言」の冒頭には「ろう者とは、日本手話という、日本語とは異なる言語を話す、
言語的少数者である」と記されています。これはろう者の言語とコミュニケーションに関する複雑で奥の深い主張で、ここで詳しい説明はできませんが、この一連の文章を読んで、私が初めて知ったことは、先天的なろう者の方の日本語学習は極めて困難な作業であるという事実でした。私は、耳の不自由な人は目は見えるのだから、本や手紙は割と自由に読めると漠然と思っていました。しかし、文字とは音を記号化したもので、音なしでは文字は意味をなさず、文字だけで日本
語を修得することは大変難しい学習なのだそうです。ろう者の母国語は日本手話で、これは日本語とは異なる単語と文法を持った独立した言語です。彼らにとって日本語は一種の外国語ということになるようです。しかし、今までのろう者への教育は、口話法という音声言語(日本語)を、いかに理解し覚えるかという方法が圧倒的主流であり、また、巷に流布している所謂「手話」は、日本語をジェスチャーで現わす「シムコム」と呼ばれるものです。「ろう文化宣言」では、そうした日本語をろう者に押しつけるのではなくて、ろう者同士が会話で用いる日本手話を日本語と同等の言語として認めて、その言葉を用いる人々の存在を、言語的少数者として認知して欲しいと要請するのであります。
 この4月、日本ろう福音協会と日本聖書協会はビデオとDVDによる手話訳聖書全巻完成を目指す覚書に調印しました。これは10年ほど前から始まったろう福音協会の手話訳聖書制作を日本聖書協会が全面的に支援する形で、15年間で手話訳聖書全巻を完成させるという計画です。予算の約2億円は献金を募ってゆくとのことです。私はこの企画をテープ雑誌「おとずれ」で取り上げたいと思い、ろ
う福音協会事務局のペナー宣教師を訪ねました。そこで、いろいろお話を聞きながら、以前読んだ「ろう文化宣言」を思い出し、今までろう者の方は自分たちの言葉で読める聖書がなかったのだという事実をひしひしと感じさせられました。
 明治の昔から現在に至るまで、盲人たちは点字やテープ、CDと次々と自ら読むことのできる聖書の制作を訴え、その事業に力を注いできました。その結果、早くから点字聖書をスミ字の聖書と同等の価格で手に入れることができるようになりました。この恵みを改めて感謝すると共に、これからは手話訳聖書の一刻も早い完成のために祈り、出来る限り協力してゆきたいと思うのであります。




事務局便り7月号(2003年)          阿佐光也
 7月5日の土曜日の午後、父と一緒に7月3日の夜に召天された竹村久子さんの葬儀に出席致しました。竹村さんはこの雑誌『信仰』に「ヨハネ黙示録の研究」を連載され、先月号で36回目を迎えた方です。満69歳でしたが、彼女は20年前に卵巣腫瘍の手術をされ、6年後に再発、それから昨年秋の手術まで合計15回の手術に耐えてこられた方でした。私がそれを知ったのは、6月10日に出版された『春、ふたたび−15度の手術に耐えて』という彼女の小さな闘病記を読んだときでありました。そして、何とすごい方なのかと感じていた矢先の訃報でした。
 竹村さんはクリスチャンの家庭に生まれ19歳で受洗。東京理科大学で数学を学び、学生時代から盲学校で朗読奉仕をして、卒業後は横浜訓盲院、都立文京、久我山、葛飾の各盲学校で数学教師として定年まで勤められました。その間、文京盲学校で同僚であった理療科教員の竹村実氏と結婚、息子さんが一人おられます。 卵巣腫瘍の手術が11回、腸壁の腫瘍、脾臓摘出、人工肛門、ヘルニアと15度も手術をされたと聞いただけで、私は気が遠くなるのですが、竹村さんは病いの苦しさの中で、手術ができますようにと祈ったと記されています。特に、私が驚い
たのは、昨年秋15度目の手術のあと、危篤状態から目が覚めてからの彼女の願いと行動です。11月18日の手術のあと、人工呼吸器を付けるほどの危機を超えて、12月初めに意識が戻ったとき、彼女は声も出ない、手足もほとんど動かない状態でした。その状況で、彼女は二つのことを願い、実行致します。
 一つは、お世話になった方々に、感謝の思いを込めてクリスマスカードを作ること。彼女は大変な思いをしながらホワイトボードにひと文字づつ字を書いて文章を作りました。それを息子さんがパソコンでクリスマスカードにして、看護士さんやお世話になった方々に贈ったのでした。これほど心のこもったクリスマスカードがあるでしょうか。もう一つは、体を動かすことです。看護士さんに見つると叱られるので、彼女は、夜になってから、部屋のドアを閉め、ベッドの柵につかまりながら、足を動かしたというのです。そして、1ヵ月後、ついに歩行
器を使ってトイレへ往復することができるようになったのでした。更に、今年2月8日にお腹の傷が完治しないまま退院、その1ヵ月後、杖をついて近所の店へ買物にでかけることができたと記しています。
 1989年の2度目の手術のあと、余命6ヵ月と診断された彼女が、それから十数年、度重なる手術ときつい抗ガン剤治療を体験して、なお心に気力がみなぎっている秘密はどこにあるのでしょうか。それこそ信仰によって与えられる神様からの使命感ではないかと、私は想像します。葬儀のあとの挨拶の中で息子さんが「母は病いに立ち向かうというよりは、病いを引きずって自分のやりたいことをやりとおした人」と語られました。 使徒パウロは「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ(第二コリント12:9)」という主の御声を聞きました。竹村さんもこれと同じ主の御声を聞きつつ、最後まで力強く歩まれたのでしょう。天にて主の大いなる祝福をお祈り申し上げます。             




事務局便り8月号(2003年)          阿佐光也
 もうご存じのことと思いますが、日本点字図書館の本間一夫会長が8月1日の午後1時半に心不全のために主のみ許に召されました。8月6日に日本キリスト教会柏木教会にてご遺族や本間先生と親しかった方々が参列して葬儀が行われ、私も父と一緒に出席いたしました。葬儀の最後で、遺族を代表して長男の一明氏が挨拶をされましたが、その言葉がとても心にしみました。先ずはその言葉をここに記してみたいと思います。
 「本日はお忙しい中、そしてお暑い中、父一夫の為にご会葬いただきまして、ありがとうございました。先ほど大浦先生のお話の中にもありましたけれど、父は1月に肺炎と心不全を起こしまして、楽しみにしていました井上靖文化賞の受賞式の直前に東京女子医大に入院いたしました。3月に1度退院いたしましたけれども、また直ぐに入院いたしまして、5月に退院してからは自宅で療養しておりました。入院中は早く自宅へ帰りたいということ、また何とか図書館に復帰し
たいという強い思いがありまして、リハビリに励んでいたのですけれども、自宅に戻りましてからは緊張の糸が緩んだのか、少しずつ体力が衰えて参りまして、8月1日午後1時半、私たち夫婦の見守る中で静かに息をひきとりました。87歳でした。
 父は5歳の時に失明という不幸に遭いましたけれども、失明したことによって与えられた幸せな長い人生になりました。特に、点字図書館の事業を始めてからは多くの方々の温かい善意に支えられて、自分の志に向かって歩んでゆけるという本当に幸せな人生でした。亡くなった後、沢山の方々から父への心からの思いあふれるお言葉、弔電、お手紙を沢山いただきまして、私は父の死以上に、そんな皆様の思いに涙がこぼれました。
 意識が混濁する直前まで、父の永年のかけがえの無いパートナーでありました加藤善徳さんのお嬢さんでいらっしゃいます、図書館の職員の加藤よう子さんが毎日自宅にいらっしゃり、寄付金等の報告をしていただくのが日課になっていま
した。もう力が入らない指で、点字用紙を薄いものに替えて、それでもお礼状を出し続けておりました。意識が混濁してからはうわごとでしゃべることは図書館を気遣うことばかりでありました。
 どなたかの言葉で『神は人に人生を与え、人はその人生によって神に恩を返す』と言ってますが、父の一生は正にそんな人生ではなかったと思っています。最後に図書館の職員の方には父のこんな図書館への情熱、熱い思いをいつまでも忘れないで欲しいというのが、私たち遺族の願いです。そして、皆様方には、これか
らも変わらず図書館を支えていっていいただきたいと心からお願い申し上げます。本日はどうもありがとうございました。」
 本間先生は盲伝の創立者のお一人で、盲伝の大黒柱のような存在でした。私はこの20年間、2ヶ月に一度必ず開かれる盲伝発行のテープ雑誌「おとずれ」の編集会議で先生にお目にかかり、いつも楽しいお話を存分に聞いて参りました。ま
た、用事でよく点字図書館に行きますが、理事長室に明かりが灯っていると、チョコっと顔を出してみて、お客様がいないときは、声をかけて、盲伝の活動報告などをよくいたしました。おやつの時間に行くと、甘いお菓子をいただくこともありました。そんな折、先生がよくおっしゃっていたことは、「盲人が本当に幸せに生きるにはやはり信仰を持つこと」という意味の言葉でありました。
 今年の盲伝全国修養会の主題はコロサイの信徒への手紙3章12〜17節から「キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい」という言葉でした。本間先生は正にキリストの言葉を宿して一生をキリストと共に歩まれたのだと思います。先生は日本の盲人の社会では、俗な言い方をすれば、超の上に超がつくほどの大物です。しかし、その先生が、誰よりも親しみやすく、誰よりも感謝の気持ちがあつく、最も人々に尽くしておられたことを、私は20年間見続けてきました。コロサイの3章12節では「あなたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛され
ているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛はすべてを完成させるきずなです」と語られています。先生の慈愛、謙遜、柔和、寛容、そして愛の源がこの言葉にあるのだと、今私はしみじみ思わされています。
 盲伝は大きな柱を失いましたが、本間先生のこの信仰と情熱とを受け継いで、これからも希望をもって歩んでいきたいと思います。    




事務局便り9月号(2003年)          阿佐光也
 ちょっと軽い話題で失礼します。今から2年前の7月、ちょうど盲伝創立50周年記念の総会と修養会の準備に慌ただしい日々を送っていた時、たまたまクルマでの通勤途中、ある中古車販売店に8万円という値段の付いた車を見かけたのであります。その店は「ブルドッグ」という名前で、中古車と言っても200万円前後の高級車を扱う店です。私はそこに8万円の車が置かれていることに興味を持ち、また、その車がトヨタのクレスタという一度乗ってみたいと思っていた車だ
ったので、一両日後にその店に寄って、詳しくその車を見せてもらいました。そこで一番驚いたのは、既に11年間も使われているのに、たった14000キロしか走っていないという事でした。平均すると1年に1200キロです。前の持ち主は、近所の買物にしかクルマを利用しない女性だったそうです。毎年2万キロ近く走る私にとっては14000キロの走行距離は新車同然であります。しかも、2000ccの直列6気筒エンジンで、後輪駆動とすべて好みにピッタリで、私はその場で購入契約をしてしまいました。その時乗っていたブルーバードは、まだ車検までに半年ありましたが、その店に引き取ってもらい、私は8月初めに新しい中古車を手に入れたのであります。そして実際に走ってみて、予想通り新車のような静かなエンジンとゆったりした乗り心地に大満足でありました。
 それから2年経った今、この車の走行距離は55000キロを超えました。このクルマは最晩年に持ち主が変わって、むちゃくちゃこき使われた感じではありますが、ますます快調に走っています。そこで、私はこの車の車検をとって更に2年間乗ることとし、そのために徹底的に整備をし、外装もきれいにしようと、6月に家の直ぐ近くの修理屋さんに持っていきました。この修理屋さんは社長と修理工2〜3人のごく小さな店ですが、実に腕が良く、また価格が良心的で、気に入っている所です。そこで、エアコンを取替え、オーディオ装置を修理し、もとから付いていた外装の傷や凹みも直し、更に細かい部分もすべて点検修理をしました。この整備に一週間ほどかかりましたので、私は修理代は25万円位で収まればいいが、30万円位でも仕方がないと思っていました。それくらい徹底して直したのです。しかし、実際の修理金額は13万円でした。しかも請求書では、13万円を超えた数千円の端数は値引きしてあるのです。私は狐につままれた思いで、思わず社長に「これでいいんですか?」と尋ねてしまいました。
 イエス様は「富は、天に積みなさい(マタイ6:20)」と語ります。見るからに叩き上げの職人といった感じのこの社長は、聖書のこの言葉を知らないかも知れません。しかし、あまりにも欲の皮の突っ張った今の世相もあって、こんな形で人を驚かしてくれるとは、私としては天に宝が積まれた思いがしたのであります。もちろん、それで私は大いに助かったのですが。          




事務局便り10月号(2003年)         阿佐光也
 この10月15日で、我が家がここ埼玉県入間郡大井町に引っ越してきて丸7年になります。小学校4年生だった一人娘も高校2年生になり、顔いっぱいににきびを作って青春真っ只中の生意気盛りでありますが、今年は母親の長引く体調不良で家事負担が大幅に増え、料理の腕はかなりあがった模様であります。私は7年住んでも、この町に特別な感情は湧きませんが、3年ほど前に直ぐ近所に入浴料
400円の超大型銭湯ができて、これには大満足。敢えてこの町の難点を言えば、盲伝事務所からも教会からもかなり遠方である為、通勤の煩わしさが、年をとる毎に増して来ることでしょうか。仕方がないことでありますが。
 ところで、この大井町が今存亡の危機に瀕している、と言うと大袈裟ですが、近隣の市や町との合併問題に揺れているのであります。これが実に不思議な成り行きなのであります。もう随分前に、合併後の市の名前が公募され、その結果「ふじみ野市」という名前が決まったことが報じられました。また、新しい市の市役所は、隣の三好町の町役場に決まったとの報道もありました。三好町は大井町より小さいのに、私がここに来た7年前には、びっくりするような立派な町役場とその周辺施設が新築されていたので、おかしいなと感じていました。2市2町の合併後の庁舎として建てられていたのであれば、一応納得できます。
 ところが、9月の始め頃から、町の中が俄かに騒々しくなりました。宣伝カーから「大井町の合併に反対しましょう」という声が聞こえてきたり、駅では、合併賛成、合併反対のそれぞれの立場の人がビラを配り出したのです。それに依ると、10月26日の日曜日に合併の賛否を問う住民投票が行われるというのです。これにはたまげました。合併後の新しい市の名前も役所の場所も決まっている筈なのに、これから住民投票とはこれ如何に、であります。
 そこで私には今、合併に賛成すべきか、反対すべきかという難問が生じています。どっちがベターなのかよく分かりません。賛成のビラを読むと「これは賛成しなければ」と思い、反対のビラを読むと「絶対に反対しよう」という気持ちになります。何が本当で、何が嘘なのか分かりません。多分どちらの主張にも真実と欺瞞が混在しているのでしょう。これは正解のない問題で、私たちの社会はそういう答のない事柄で組み立てられていて、人々はいつも右往左往するようにで
きているようです。そして、この人々の右往左往はけっこう大切なことのように思います。それが民主主義の種みたいなものですから。もし、誰かが絶大な力で人々の右往左往を断ち切るならば、その社会は恐ろしいことになるでしょう。
 こうした答のない社会で生きる私たちですが、私たちの命には一つの確実な答が神様から与えられています。イエス・キリストの福音であります。それは迷いの中の光、苦悩の中の癒し、弱さの中の力であります。この命の答をもって右往左往したいものです。今回私は取敢えず合併反対と決めてみました。




事務局便り11月号(2003年)          阿佐光也
 私の教会では今年も10月最後の日曜日に「バザー&オープンチャーチ」を行いました。オープンチャーチとは、無料のコーヒーとクッキーでお客様を接待し、教会で寛いでいただく取組みです。特に、今年はバザー委員長の発案で、お客様に「教会案内」を配り、接待のテーブルにキリスト教質問コーナーを設置しました。そこで私は急遽「教会案内」をパソコンで作成。A5版の大きさで4ページ
とし、牧師(自分)の写真も入れて、まあまあの出来栄えとなりました。そして、肝心の教会に関しての説明では、次のような文章を載せました。
 《教会ってどんなところ?》 
 ★それは一口で言うと、誰でも、どんな人でも神様から愛され、罪を赦されていることを信じることができるところ。
 《神様って誰なの?》 
 ★それは、この世界の全てと、そして私たち一人ひとりを創られ、命の息を吹き込んでくださるお方です。神様は正義の神様でありますが、愛の神様でもあって、私たちを悩みと罪、そして死から救うために、神様のひとり子、イエス・キリストをこの世に贈ってくださったのです。
 《どうして、そんなことがわかるの?》
  ★聖書に詳しく書いてあるのです。教会の人たちは聖書の言葉を神様からの自分への語りかけとして聴くのです。 
 《ではここで、教会に通っている人に実際の教会について聞いてみましょう。》
Aさん「私にとっては、自分の生き方を決断するところかな?」
Bさん「僕は、自分の命の意味が見えてきて、嬉しかったよ。」
Cさん「生きるのって楽しいなって自然に思えてくるところじゃないかしら?」
Dさん「こんな私でも、いつも胸をはって生きていいのだって励まされるのよ。」Eさん「とにかく、聖書の神様って、俺のことが1番好きなんだって。嬉しいじ
  ゃないかね。俺もやっと自分が好きになれたよ。」
Fさん「神の独り子のイエス様が友達になってくれるところ。どんなことがあっ
  ても、もう一人ぽっちじゃない。これってすごく安心だよ。」
Gさん「私なんか、死ぬのがすこし怖くなくなったみたいよ。でも、長生きはし
  たいけどね。」
Hさん「大事なこと忘れてはいませんか。教会はこの世界と私たちを創られ、イ
  エス様として私たちの中に生まれて下さった神様を讃美し感謝をもって礼拝
  をささげるところですよ。イエス様は私たちの罪の為に十字架上で死んで下
  さいましたが、三日後に復活され、今も私たちと共にいて下さるのです。」
 《みんないろいろ、自由です。いろんな人が教会にはいますからね。では、あなたにとってキリストの教会とは、どんなところになるのでしょうか。一度のぞいてみませんか。ゆっくりお話致しましょう。》
 以上です。幼稚な文章ですが、如何でしょうか。ところで「信仰」読者の皆様は、「教会とは?」と問われたとき、何とお答えになるのでしょうか。




事務局便り12月号(2003年)          阿佐光也
 12月の最初の日の夕方、クルマを運転しながらNHKのラジオ放送「生き生きホットライン」を聞いていました。「記憶力に自信がありますか」という特集で、精神科のお医者さんとアナウンサーの対談です。運転しながらですから、軽く聞き流していたのですが、話題が記憶術ということから脳の細胞の話へと移ったとき、ちょっと聞き耳を立てました。このお医者さんが「最近の研究では、脳細胞は新しく生まれることが分かってきた」という意味の事を言ったからであります。年をとっても脳細胞は生まれ代わるのだから、記憶力もまんざら諦めなくてもよいというのです。これには元気づけられました。
 更に、興味深いことには、楽しいことを考えたり、うれしいことを思い出したりすると、脳細胞は増えるというのです。その逆に、怒ったり、悩んだりしていると、脳細胞は停滞してしまうらしい。本当かなっと思われるも知れませんが、確かにそのような内容の話でした。そして、そのお医者さんのお薦めは「だから、夜眠る前には、その日の出来事のうち、楽しかったことやうれしかったことを思うといいですよ」ということでした。多分、寝る前その日の楽しいことや嬉しかった気持ちを思いだして眠ると、夜のうちに脳細胞が出来てくるのでしょう。
 ところで、私は来年の3月で盲伝主事としての5期目の任期が終わります。1期は4年ですから、もう20年も盲伝でお世話になったことになります。4年前、今回の任期が始まるとき、5期でちょうど20年になるので、これで終わりにするのが好いだろうと考えました。そして後任者の目星もつけて5期目に臨んだのですが、なかなか思うようには事が運ばず、とうとうここまで来てしまいました。そして、11月25日〜25日に行われた2004年度の中央委員会で次期4年間も私が主事を務めるようにとの推薦をいただき、承認されたのであります。私としましては、20年でも長過ぎるのではないかと思いますし、体力や記憶力の衰えを考えますと、本当に大丈夫かなと、正直少し不安でもあります。
 盲伝の仕事は本当に幅が広いです。20頭立ての馬車を走らす御者のような感じがしています。それぞれの馬(仕事)の状況や進み具合を頭において手綱を捌いて行く訳です。しかし、最近その手綱捌きにはどうも「切れ」がありません。そこに記憶力の減退が影を落としているようです。私は手帳を使うのが大変苦手で、ほぼ記憶に頼って何でもやってきました。それが限界に来ているということでしょう。これからは何とか手帳を使いこなし、毎晩寝る前にその日楽しかった事を思い出して、脳細胞を増やしつつ、皆様と一緒に歩んでいきたいと思います。
 そして「あと4年間主事をやりなさい」という決定を、勝手ですが、皆様からの私への今年のクリスマス・プレゼントとして受け取りたいと思います。どうぞ、良いクリスマスと新年をお迎え下さい。メリー・クリスマス!!   




事務局便り1月号(2004年)          阿佐光也
 新年おめでとうございます。と言いましても、この雑誌「信仰」1月号がお手元に届く頃は、もうお正月気分ではないでしょう。でも、私としては今日は正真正銘1月1日で、しかも今年は1月4日が日曜日だから、家でのんびりできるのもこの元旦しかありません。そこで「事務局便り」でも書こうかという気分になっています。そうすると「家でのんびり」ではなくなるのですが。
 今、ここで私が話題にできそうな事柄は、昨日、つまり大晦日に行われたNHKの紅白歌合戦でしょうか。飛び飛びに観ていましたが、最後で白組が圧倒的な勝利をおさめて終わりました。殆どシャットアウト勝ちという感じでした。これは、白組で最後に登場した人気グループ、スマップが「世界に一つだけの花」という曲を歌ったからのようです。確かにこの歌は一年を締め括るのに相応しかったのでしょう。それは、「ナンバー・ワンにならなくてもいい、もともと特別なオンリー・ワン」という歌い出しで、続いて「花屋の店先に並んだ花は、どれもみんなきれいで、誰が一番なんて争う事もしないのに、どうして人間は比べたがり、一番になりたがるのだろう」という意味の歌詞が並びます。そして、「そうさ、僕らも世界に一つだけの花。一人一人違う種を持つ。その花を咲かせることだけに一生懸命になればいい」と歌うのですが、まるで教会のメッセージのような歌であります。実はこの曲は我が家の高校2年生の一人娘が持っている唯一のCDなのであります。親と違って、歌にも芸能にも全く興味のない娘が初めて自分で買ったCDがこの「世界に一つだけの花」とう訳です。
 ところで、敗けた赤組のトリは天童よしみで、こちらは「美しい昔」という曲を歌いました。なぜ彼女がこの歌を選んだのか分かりませんが、私にとってはこちらの方が衝撃的でした。この曲は今から25年前のNHKドラマ「サイゴンから来た妻と娘」の主題歌で、カーン・リーというベトナム女性が歌ったベトナムの曲だったからであります。私はドラマは見ませんでしたが、この曲を聴いて一辺で気に入り、即刻レコード屋に注文したのでした。それは、今はなつかしい45回転のドーナツ盤レコードで、現在も私の本棚に大事に保管さているのです。
 この「美しい昔」は不思議な歌です。男女の愛を歌っているようですが、よく意味が分かりません。しかも曲の後半はベトナム語で歌われています。そこで、私はこの曲を聴く度に、「美しい昔」とはベトナム戦争前のこの国の美しさの事だと思えてくるのであります。ですから、私にとってはこの曲も一年を締め括るのに好い歌でした。何故なら、イラクで、アフガンで、カンボジアで、パレスチナで、朝鮮半島で、そしてまだまだ沢山ある世界の紛争地域で、戦争前の「美しい昔」を返してと人々が叫んでいるからであります。今年こそ世界中がその叫びに耳を傾け、彼らの願いが叶いますように、共に祈って参りましょう。




事務局便り3月号(2004年)          阿佐光也
 19歳の大学2年生の書いた「蹴りたい背中」と、小学校4年生から殆ど学校に行かずに自由奔放に生きてきた二十歳の女性が書いた「蛇にピアス」と言えば、平成15年度下半期の第130回芥川賞を受賞した小説の題名であることは、多くの方がご存じでありましょう。それほどまでに、最近では珍しく芥川賞が話題になり、私も御多分に洩れず、文藝春秋3月号を買ってきて、両作品を読んでみたのであります。私がこの二つの小説を読みたいと思ったわけは、話題になったという事もありますが、我が家のもうすぐ高校3年になる一人娘が、今勉強そっちのけで、所属している文芸部の同人雑誌作りに没頭しているからであります。
 娘の書いたものは読んだこともないし、読む暇もないのですが、同年代の女性が芥川賞をとった作品にはちょっと興味を引かれたのであります。私自身は最近余り小説を読んでいないので、これらの作品の文学としての善し悪しはよく分かりませんが、両方共最後まで読めたので、それなりには面白かったということでしょう。ここまで作品を仕上げるというのは、二人ともやはり非凡なものをもっていることは認めます。ただ、是非読んでみたらと、人に奨められるほどのものではないことも確かです。それは描かれている世界に起因しているのでしょう。両小説とも主人公は特異なキャラクターの十代の女の子で、これを読んで、娘と話が合わない理由が何んとなく分かったような気分にさせられました。
 さて、折角買った文藝春秋ですから、あちこち拾い読みをしていましたら、「特別企画仏教入門」の特集記事の中に「ひきこもり連れて四国遍路」という体験談が載っていました。筆者の二神能基さんは、NPO法人「ニュースタート事務局」を主宰し、10年前からひきこもりの若者たちを社会へと送り出す試みに取り組み、「仕事体験塾」と称して、元ひきこもりの若者に介護や、コンピューター事業、喫茶店経営などをさせているそうです。その活動の集大成として昨年9月、ひきこもりの若者13人を四国八十八霊場をめぐる遍路の旅へ連れ出したのであります。1400キロを60日かけて歩く。これは彼らにとっては大変な作業で、参加者の戸惑いや葛藤、挫折や成長が描かれています。一筋縄で行かない困難さがあり、よくこんなに粘り強く彼らと向き合うことができるなと感心させられました。
 今回の芥川賞小説に登場する魔訶不思議な若者たちや、自分だけの空間に閉じ こもろうとする青年たちを私たち親の世代が理解することは簡単なことではない と思います。何故なら、人は自分の経験によって己の価値観の殻を作り、それは 殊の外頑丈だからであります。娘はいつも私の小言に対し「お父さんの時とは時 代が違う」と言います。確かにそうなのかもしれません。しかし、「時代が違う」 という抱けで片付けられない問題もあり、彼らとどう向き合うかということは、 誰も避けては通れない課題だとも思います。それは教会も同じではないでしょう か。そこで、これからの盲伝の活動がこうした課題に対し、何らかの貢献ができ ないものかと、文藝春秋をめくりながら考えさせられたのであります。




事務局便り4月号(2004年          阿佐光也
 10年ひと昔と言いますから、もうふた昔前になりますが、ちょうど20年前の4 月に私は盲伝の主事として、新しい世界へ船出をしたのであります。まさかその 時、この仕事を20年以上も続けられるとは、露ほどにも思っていませんでした。 恐く盲伝は私にとっては竜宮城のようなところなのでしょう。会員の皆様と楽 しく暮しているうちに光陰は矢のごとく飛び去って行ったようです。そろそろ玉 手箱を貰って帰らなくては思うのですが、なかなか腰が上がりません。その内、 本当に腰が立たなくなるのではと、ちょっと心配です。詩編92編に次のような言 葉がありますが、この20年来の私の気持ちと通じるものがあります。
  いかに楽しいことでしょう
  主に感謝をささげることは
  いと高き神よ、御名をほめ歌い
  朝ごとに、あなたの慈しみを
  夜ごとに、あなたのまことを述べ伝えることは
  十弦の琴に合わせ、竪琴に合わせ
  琴の調べに合わせて。
 ところで、皆さんは20年前の生活を思い出せますか。その頃と今とではまるで 別世界で、私は夢物語を見ているような気分であります。まず思うことは、怒涛 のように押し寄せてくるパソコンやインターネット、あるいは携帯電話などの電 子機器によって生活が随分変わってしまったといことです。それによって、職場 の環境や仕事のやり方などが大きく変化したように思います。この雑誌「信仰」 の発行に関しても、それは顕著に見られます。
 20年前は瀬尾真澄先生が「信仰」の主筆をしておられ、その2年後に阿佐博主 筆に代わりました。その頃は、主筆が点字を一文字一文字点字用紙に打ち込んで、元になる雑誌を作り上げて、それを東京光の家旭ヶ丘更生園(今の栄光園)に郵 送していました。光の家では、そのひな形の通りに手作業で製版して、それを再 び主筆に戻し、そこで校正をして、やっと印刷・製本という段取りでした。それ が今では、パソコンの画面上で点字データにされた原稿を編集して完全な雑誌に 仕上げ、それをメールで一瞬のうちに光の家に送ります。そして、そのデータの 示に従ってブレイル・シャトルという自動点字製版機が雑誌の原版を作り、す ぐに印刷・製本に取りかかるということになっています。また、データのままで 雑誌を受け取っている方も10人ほどいるのであります。
 この雑誌「信仰」が1000号となり、その記念にと、初めて完全なすみ字版を作 成してみました。これもパソコンの中での編集ですが、一度作ってみると、もう 元には引き返せなくなり、これからはすみ字版も発行することと致しました。そ して、晴眼会員には今までの「事務局便り」に代わってこのすみ字版「信仰」を 無料でお届けし、一般には、定価を300円として売り出そうと思います。ただ、 すみ字版には他の雑誌からの転載記事は載せられませんので、読者の皆様の証や 体験談、エッセーや研究発表などの原稿が今まで以上に必要となります。どうぞ、ご協力ください。盲伝から福音の恵みを発信してゆきましょう。と言う訳で、私 の盲伝21年生がこれから始まります。よろしくお願い致します。




事務局便り6月号(2004年)          阿佐光也
 今、私の掌には、何と表現したら良いのでしょうか、直径7センチ程の円の下の方が流線型になって10センチほどの長さに伸びている一つの器具が乗っています。厚さは25ミリで重さは100グラムに満たない、本当に軽くて小さな物体です。このどちらかと言うとオモチャのような装置から、私の部屋全体に響くような声で、聖書の言葉が流れ出ているのであります。そうです。もうご存じの方もいらっしゃるかも知れませんが、これが6月10日に日本聖書協会から発売されました「バイブルトーク」であります。この小さな器具の中に新共同訳新約聖書全巻が収録されていて、ボタンの操作で聞きたい個所を呼び出せるのです。電源は単4電池2本。スピーカーでもイヤホーンでも聞けて、Yシャツの胸ポケットにもスルリと収まる優れもの。とうとうこんな時代がやってきたのであります。
 私が主事になった20年前は、盲伝に「声の聖書制作委員会」という委員会があり、日本聖書協会とアバコの協力をいただいて、口語訳聖書をカセットテープに吹き込んで、音声で聞くことの出来る聖書を一生懸命作っていました。そして、それが全巻完成した時の感激は今でも覚えています。聖書を音声化するということは盲伝の強い要望で始められ、聖書協会にすみ字、点字に加えて、声による聖書が誕生したのでした。その時の朗読者は、オーディションで選抜された、数人の牧師を含むボランティアの方々にお願いし、盲伝から朗読の度に交通費を払っていたことを思い出します。
 1987年に新共同訳聖書が出版されたときは、その点字版を作るために、やはり盲伝が中心となって委員会を作り、廻りが驚くほどの速さで点字新共同訳聖書を完成させました。その新共同訳は、今度は聖書協会の事業としてアバコの協力のもとに、プロの読み手を使って104枚のCD聖書になったのでした。そして21世紀に入り、104枚のCDは日本点字図書館によって3枚みらCDに圧縮され、デイジー版聖書として売り出されたのであります。
 そして、この度この音声データを更に数十倍も圧縮して小さなICチップに納めてバイブルトークが誕生したのであります。これを手掛けたのはベンチャービジネスの小さな会社と聞きますが、すごい技術が駆使されているのです。超小型で、データを極度に圧縮をしていますから、音質はちょっと物足りないかも知れません。検索も書物、章、節を順番に押して行く方法のみの単純設計です。とりあえず新約聖書しか入っていません。それでもこれはすごいと思います。そして、もっとすごいと思えることは、私はこの発売を6月8日に開かれた記者会見に招かれて知ったということです。盲伝の知らないところで、こんなすばらしい音声の聖書が誕生する。これはもう音声の情報が視覚障害者だけのものではなくなってきたということであります。
 ところで、気になるお値段ですが、化粧箱に入って税込13860円です。盲伝では送料込みで13000円でお分け致します。今回は1000個の限定販売で、この売行きを見て、新旧約版も考えるとのことです。今月はエッセーだか宣伝だか分からなくなりましたが、「掌から御言葉を」のキャッチコピーで締めくくります。




事務局便り7月号(2004年)          阿佐光也
 仕事でちょっと長く電車に乗る時や、新幹線で出張する時など、私はその電車に乗っている時間で読み終わりそうな軽い読み物を買って移動することにしています。先日、テープ雑誌の取材で大阪まで出かけた時は、新潮新書の「死の壁」と「サービスの達人たち」という2冊を持っていきました。両方共結構面白くて行きと帰りで読んでしまったのですが、「サービスの達人たち」の中に紹介されていた、北海道で観光タクシーの運転手をしている下川原さんという方の生き方がとても印象深く心に残りました。
 この本の著者は北海道へ出張したとき、札幌に来るなら是非この方のタクシーをと地元のイベント会社の社長から紹介され、下川原さんと出会います。最初に会ったときは「印象の薄い人に見えた」と言います。どちらかというと頼りない感じで、運転も普通で、特に愛想がある訳でもない。しかし、その車に乗ってみると、妙に心地よかったのであります。この下川原さんは今年75歳になりますが、今まで多くの著名人から指名されて、ドライバーを務めてきました。その秘密がどこにあるのか、著者は下川原さんの経歴を辿りつつ、取材を進めてゆきます。そこには誠実で謙遜な人柄と、地道に勉強する姿が浮き彫りにされます。そして著者は最後に「勉強」「トイレ確保」「下品な話をしない」の3点を下川原さんの優れたところとして結論付け、彼に伝えたのであります。しかし、それらは下川原さんが密かに自負している事とはまるで違ったようです。彼が気をつけていることは実はたった一つで、それは他の運転手の誰もがやらないことなのだと言うのです。そして下川原さんは次のように語ったのでした。
 「私はお客さんの仕事を尋ねたことがないのです。一度もありません。それだけは私しかできないことだと思っています。私たちタクシーはいろいろな方をお乗せするのが役目です。なかには仕事を聞かれたくない人だっています。そして、私は人間ができていないからお客の職業を聞いたら反応してします。えらい人だったら卑屈になるし、水商売の人にはおおきな態度をとるかもしれない。私はそれがこわい。お客さんの職業によって自分の態度が変わるのがこわいのです。だから、職業を聞いてはいけないと今でも自分に言い聞かせています。それだけは今でもこれからも守ります。私はだれに教わらずにタクシーの運転手になったから、何かひとつだけも、他の運転手と違う技術を身につけなければやっていけなかった。それでお客さんの職業だけはずっと聞かないことにしたのです」
 これを読んで私は、「なるほど、これぞまさしくサービスの達人」と思わず手をたたいてしまいました。客の職業を聞かない。これは自分の中で客の職業を消してしまうということでしょう。下川原さんの車を指名した人の中には、有名なスターや、大臣クラスの国会議員なども多くいて、中でも国際興業のオーナー小佐野賢治は北海道では、自社系列や関係会社の車を使わず必ず下川原さんの車に乗っていたそうです。恐らく、下川原さんはそういう人も、あるいはその日始めて下川原さんの車に乗った人も全く同じ態度で接することができるのでしょう。それが、「私はお客さんの仕事を尋ねたことがないのです」という言葉の重みだと思います。パウロはローマ書2章で「神は人を分け隔てなさいません」と語ります。これこそがサービス(礼拝)の極意ということなのでしょう。




事務局便り9月号(2004年)          阿佐光也
 やっと9月に辿りつきました。この夏は6月が空梅雨で、その頃から暑い日が続き、7月から8月にかけては、東京では39.5度を頂点に、真夏日が40日連続しました。これには夏に強いはずの私も少々うんざりしましたが、我が家では、案の定と言いますか、8月の下旬から妻の体調が狂ってきて、そうなると精神的にも参ってきて、今はかなり辛い局面を迎えています。もう少し涼しくなるのを待つばかりです。
 そんな厳しい季節でしたが、夏の甲子園では北海道の学校が初めて優勝して話題になり、また、アテネオリンピックでは日本の選手が活躍して、随分盛り上がりました。私も、スポーツは好きですから、夜中のテレビの実況中継はやめましたが、その他のオリンピックの報道は随時観ていました。その中で一番印象的だったのが、競泳女子800メートル自由形の柴田亜依選手の金メダルです。最後の100メートルであれよあれよという間に、本命の選手に追いついて追い越してそのままゴールしたのには驚きました。その直後のインタビューで彼女が語った「コーチに言われた『あせらず、あわてず、あきらめず』を守って泳いだ」というコメントは心に響きました。まさに「あせらず、あわてず、あきらめず」の勝利という感じがしたからであります。
  しかし、そのような明るい話題の裏では、イラクの戦争やパレスチナ紛争は続けられ、ロシアでは、飛行機同時爆破テロ、モスクワの地下鉄の自爆テロがあり、北オセチア共和国で、学校の入学式がテロの標的となって、何百人という子供たちが殺されるという、恐ろしい、痛ましい事件が報じられました。オリンピックなどの明るい話題と、このテロによる残忍な子供たちの大量殺戮をどう考えたら良いのか、私たちは戸惑い、無力感に襲われます。
 今の世界情勢は、オリンピックなどで浮かれている場合ではないという見方が一つできると思います。ひどい目に遭って亡くなった多くの児童の苦しみや痛み、遺された親や兄弟、近親者の悲しみや嘆きは想像を絶するものであります。そんな世界の現実がリアルタイムで映像付きで、わたしたちの茶の間に送られて来るのです。それによって私たちの心は憤り、また沈み、金メダルだ、銀メダルだと浮かれる訳にもいかない気分にされるのであります。
 しかし、人間のそういう暗い部分、醜い部分、罪深い部分に、私たちは負けてはいけないのだ、という思いも一方であります。人はどんなに辛いことが人の罪によって起されようとも、生活をやめることは出来ない。人としての歩み、文化をとめてしまう訳にはいかない、そういう思いもします。人間の生きる営みは何としても続けられなければならないということです。しかし、だからと言って、自分たちの世界だけに浸っていれば良いといものでもないし、わたしたちの心はそこで堂々巡りしてしまうのであります。そして最終的には一人一人の生き方に委ねられていくことになるのですが、そこで、私たちは「キリストを信じる生き方」が改めて示されるのであります。
 ヨハネの手紙一の4章10〜11節には次のように書かれています。「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。」そして、5章の4〜5節では、「世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰です。だれが世に打ち勝つか。イエスが神の子であると信じる者ではありませんか。」
 戦争や恐ろしいテロの事件で、わたしたちは打ちのめされてしましますが、それでもなお、わたしたちの罪を背負って血を流し、十字架上で死んでくださったキリストの愛を携えて、互いに愛し合う世界を一歩一歩築いていくこと、そこにこそ神によって希望が与えられるのでありましょう。その道を「あせらず、あわてず、あきらめず」進ませていただきたいと思います。




事務局便り10月号(2004年)         阿佐光也
 我が家の一人娘は先月、9月の誕生日で18歳をとなり、年齢だけは大人への第一段階に達した感じであります。しかし、親に似て体が小さく、今でも一緒にファミリーレストランなどに食事に行くと、時々、彼女だけにはお茶ではなく水が出されたりして、まだまだ子供に見えるようです。来年3月には高校を卒業するので、その先の進路をどうするのか見ているのですが、どうも大学進学を考えているようで、最近なにやら受験勉強を始めています。そこでいよいよこちらも覚悟を決めなければと思っています。私の覚悟とは、身も蓋もない話ですが、学資の問題であります。 
 近頃では、子供を一人大学に入れて、卒業させるまでに、いったいいくら掛かるのでしょうか。もちろん娘の場合は、国立大学は望むべくもないので、私立大学ということになりますが、ちょっと調べてみましたら、学校に収める費用だけでも、4年間で500万円くらいは必要となることが分かりました。そこまでは親の責任と思い何とかせねばと思いますが、教育も巨大産業の一つとなっている感じがします。
 ところで、今の日本の社会を見ていますと、大学を出てからどうするのかな、という思いにとらわれます。私が大学を卒業した1970年頃は日本の経済は成長期にあり、大企業や有名企業は別ですが、贅沢を言わなければ、就職するのにそれほどの困難はありませんでした。また、企業の体質も、終身雇用が一般的で、採用した学生を企業人として育てていくという気風があったように思います。しかし、今は若い人の働く環境が激変していることを、企業から離れて久しい私ですら感じています。
 経済評論家の内橋克人氏は、今の日本は、働く自由ではなく、働かせる自由が横行して若者を苦しい状況へと追い込んでいると言います。私もそのとおりだと思います。グローバライゼーションと改革の名の下に、企業の利益や競争力ばかりが優先されるようになり、企業の社会的責任である、働く人の生活を支えるという側面はほとんど感じられなくなりました。特に、若い人たちにそのしわ寄せが来て、彼らは仕事どころか、人生そのものに意味や希望を見出せなくなっているように思います。
 こうした細切れ使い捨て労働全盛の中、若者は働かないのではなく、働けないのであり、働く気も萎えてしまうというのが現実ではないでしょうか。今時の若者は気楽なモラトリアムで生きがいある仕事との出会いを待つという、働かない若者イメージはマスコミの作り上げた虚像で、生きる、働く、暮らすを何とか統合させようと必死になって仕事を探しているというのが大多数の若者の姿であります。
 マタイ福音書20章に「ぶどう園の労働者のたとえ」が載っています。イエス様の語る天の国のたとえですが、ぶどう園の主人は、朝から働いた人にも、夕方からしか働けなかった人にも同じ賃金を払うという話です。これは、企業経営とは、まずは労働者の生活を保障するところから始まるという話としても読めるのではないでしょうか。ぶどうがいくらたわわになっても刈り取る労働者がいなければ、収穫はゼロなのですから。この主人はそのことをよく分かっている人なのでしょう。生身の人間が一人一人大切にされる社会を本気で目指してゆきたいものと、受験勉強を始めた娘を見ながら考えるこのごろであります。




事務局便り11月号(2004年)         阿佐光也
 「コマンタレヴー」という言葉は、誰もがご存じだと思います。フランス語で「ご機嫌いかがですか」という挨拶の言葉です。最近、この「コマンタレヴー」によって、我が家ではちょっとした騒動が持ち上がっています。と言いましても、それは挨拶言葉の「コマンタレヴー」ではなくて、パン屋さんの「コマンタレヴー」なのであります。
 我が家に最も近いスーパーの一区画に「コマンタレヴー」が開店したのはかれこれ2年ほど前だったと思います。この新しいパン屋の開店を心から喜んだのは、妻の道子でありました。彼女はとにかくパンが好きで、いつも「私は朝昼晩三食パンでもいいの」が口癖なほどにパンを愛しているのです。ですから、その場で焼いて直ぐに売り出すこのパン屋の出現は大歓迎で、早速オープン当日に、食パンや菓子パンを買い込んできたのであります。そして、更に彼女を狂喜させたのは、それらのパンのおいしさでした。特に、天然酵母を使った食パンは、食感が良く、そのまま何も付けずに食べても甘く香ばしい味のある、特級品だそうです。その日以来、我が家ではコマンタレヴーのパンを切らしたことがありませんでした。パンの味の分からない私も洗脳されて、去年彼女が病気でほとんど食事がとれなくなり、入院した時でも、コマンタレヴーを買い続けたほどです。
 ところが、つい先日、10月20日のことですが、突然このパン屋さんが閉店してしまったのであります。結構繁盛しているように見えていたのですが、徐々に売れ行きが落ちてきたのでしょうか。この事実は道子にとっては承服しがたい現実でありました。それはもうひどいがっかりで、半月ほど経った今でも嘆いています。未だ心療内科に通っていて、楽しみの極端に少ない彼女ですから、それも無理からぬことかなと思います。本当にささやかな喜びが忽然と消えてしまったのですから。これが我が家の最近のコマンタレヴー騒動なのであります。
 実にたわいの無い話で申しわけないのですが、阿佐家の生活の一こまであります。最近は大企業と言えども、アッという間に消えてしまう、そんな時代ですから、パン屋さんが店を閉じるなどということは、別に話題にもならないことかもしれません。JR高田馬場駅から盲伝の事務所に至る早稲田通りも、実に多くの店屋が並んでしのぎを削っていますが、昨日あった店が今日はもうやめてしまって閉じているということは日常茶飯事であります。2キロ弱の道のりを歩いて来ると、いつもどこかの店で内装工事をしていて、新規開店を目指しています。
 そういう世の中にあって、しみじみ思わされることは、盲人伝道協議会がこうして仕事を続けていかれる不思議であります。多くの教会や支援者の方々の継続的な支えによって、また、時に思わぬ恵みが与えられたりして、盲伝は、忽然と消えることなく、53年間保たれてきました。それこそがまさに神様の導きなのでありましょう。そんな盲伝ですが、9月に終わりました2004年度の決算は370万円の赤字となり、基金から大幅に補填して決算をせざるを得ませんでした。少々心細い思いが致しますが、しかし、この10月から始まりました2005年度は、またきっと多くの方が盲伝の働きを支えてくださり、大きな実りがあることでしょう。維持会員や関係者の方々もご一緒にお祈りいただけましたら、まことに感謝であります。




事務局便り12月号(2004年)          阿佐光也
 11月中旬にテープ雑誌「おとずれ」の取材で名古屋までクルマで出かけました。ディレクターの町田さんの運転で、アシスタントの加藤さん、それに私の3人は朝7時過ぎに事務所を出発、12時前には名古屋に着いて、ゆっくり昼食をとって、約束の2時には余裕をもって取材先に到着する予定でした。ところがその日は東名高速が全線工事だったため、渋滞につぐ渋滞で食事もそこそこにして走っても現地到着は2時半を過ぎてしまいました。そういう訳で帰りは夜になり、私達は工事中の東名高速を避けて、中央高速で東京に戻ることに致しました。
 小牧インターから中央高速に入って、上り坂をぐんぐん進んでいきますと、真っ暗な夜空に沢山の星が見えてきました。クルマの中から見る夜空があまりにも美しいので、ゆっくり星を観察しようとサービスエリアに立ち寄ったのですが、そこは照明がこうこうと輝いているので、その明かりで星が消えてしまいます。私達は、何とかしてゆっくり星空を眺めたいと思うのですが、高速道路でクルマを停めるわけにはいきません。そこで、思いついたのが、バス停であります。高速道路には高速バスの停留所が点在しています。道路からそれてバスが停車できるスペースが確保されているのです。そこで、私達は真っ暗な道路に設置されたバス停を選んで、クルマを停め、外に出ました。山の上の空気は冷たく澄んで、とても寒かったのですが、その星空の見事だったこと。都会育ちで若い加藤さんは「生まれて初めてこんなすごい星空を見た」と感激していました。時々流れ星も走り、私たちは寒さに震えながらもしばし星の輝きに身を委ねたのであります。
 ところで、星と言えばやはりクリスマスの物語を思い起こします。マタイ福音書のイエス様誕生の物語には星が2回出てきます。イエス様が誕生されるということを、一番最初に知ったのは、東の国の星占いの博士たちでした。彼らは「ユダヤ人の王が生まれた」ことをその星を見て知って、高価な贈り物を携えて、エルサレムまでやってきます。そこで、ヘロデ大王の住む、立派な宮殿に行きました。しかし、そこにはイエス様はいませんでした。私達は、この物語を読んで、博士たちは星に導かれてユダヤの国にやってきたと思っていないでしょうか。しかし、実際には、博士たちは自分たちの思い込みで、ヘロデの宮殿に行ったのです。そして彼らはイエス様がそこにはおられないことを知り、この宮殿を後にします。その時、再び東の国で見た星を発見するのです。この星は、今度はイエス様が誕生された場所まで、博士たちを案内したのです。そこは宮殿ではなく、みすぼらしい馬小屋で、しかも幼子は飼い葉桶の中に寝かされていたのです。この物語は、人間が考えている王と、神様の考えている王の違いを鮮明に描き出しているように思います。人が目指す王と星が案内する王の違いです。これがクリスマスの物語です。
 こうして私たちは信州の山の中で美しい星空に遭遇して、はるか2000年前の星空に思いを巡らし、クリスマスの光景を思い浮かべたのでありました。




事務局便り1月号(2005年)          阿佐光也
 我が家の一人娘もこの春いよいよ高校を卒業するということで、秋にクラブ活動を引退した後、一応受験勉強に取りかかっています。そんな娘を連れて家族で年末の買い物に出かけたとき、彼女が受験の参考書を買いたいというので、スーパーの中の本屋の学習参考書コーナーに立ち寄りました。そこで、私は一冊の本を見つけました。新渡戸稲造の「武士道」であります。これは学習参考書ではないと思うのですが、英文と日本語の訳がついたもので、参考書のコーナーにおかれているようです。新渡戸稲造はこの本を英文で書いていますので、それに日本語の訳がつけられて、英語の勉強に役立つように作られているということなのでしょう。私はこの「武士道」をまともに読んだことがなかったので、正月に読む本として購入したのでありました。
 著者の新渡戸稲造は、5000円札に肖像が印刷されて、暫く日本の顔となっていましたが、昨年、お札が新しくなるのにともなって、樋口一葉に取ってかわられました。新渡戸稲造にしても、樋口一葉にしても、お札に自分の顔が印刷されるなんていやだろうなと思います。それは1000円札の夏目漱石も同じだったと思いますが、この度、野口英世に代わってもらい、夏目もやれやれというところではないでしょうか。文化勲章をけっ飛ばしたほどに役人の嫌いだった夏目や、気位が高く貧困の中で早世した樋口一葉、そしてこの倫理の書「武士道」を著した新渡戸は、やはりお札の顔ではないように思います。私だったら、1000円は田中角栄、5000円は紀伊国屋文左衛門、そして10000円は豊臣秀吉、こういうラインナップにしたいと思うのですが、如何でしょうか。
 話が横道にそれましたが、この新渡戸稲造の「武士道」を、早速読んでみました。勿論日本語の訳の方ですが、一気に読んでみて、明治維新までの日本人の精神的バックボーンをまざまざと見る思いが致しました。特に、武士という特権階級に要求された倫理性の高さは驚きであります。しかし、全く野放図に育ち、勝手気ままな生活をしている私には、多少精神的混乱が生じてしまい、気楽に読める本ではないということだけを納得した次第です。恐らくこの本は10回くらい読むと、少し何かが掴めるのかなという感じです。
 ところで、もう一つ驚いたことは、新渡戸稲造の博識といいますか、教養の深さであります。「武士道」を説明するのに、古今東西の思想や文学を縦横に引用していて、それだけで圧倒されてしまいました。また、「武士道」をここまで客観的に記せるということの背景には、新渡戸のキリスト教信仰があって、はじめて可能だったのかなということも感じさせられました。いずれにしても、お正月に読む本ではなかったなと、ちょっと反省した一冊でした。




事務局便り2月号(2005年)          阿佐光也
 目の覚めるような面白い本を読みました。1月15日に新潮社から発売になった「世界文学をよみほどく、スタンダールからピンチョンまで」という本です。これは作家の池沢夏樹が京都大学文学部で2003年9月15日から1週間にわたって行った夏期特殊講義の講義録であります。彼は7日間、午前と午後に分けて計14回の講義を行ったのですが、その内容の濃さに圧倒されました。しかし、難しい本かというと全くそうではなく、さすが作家と感じられる、平易さとおもしろさでグングン読者を引っ張って、450ページほどのかなり分厚い本ですが、私は二晩で読み切ってしまったほどです。
 その内容は19世紀から20世紀にかけての欧米の長編小説10編を見事に解明し、世界の姿と小説の力を浮き彫りにするのですが、以下の紹介文がこの本の特色をよく示しています。
 「私たちは、物語や小説によって、自分たちのいる世界を表現し、同時にそのありかたを掴んできた。では、小説とは何か。世界はどう私たちを取り囲んでいるのか。小説と世界は、どのように影響しあい変遷し、その結果どこに達したのか。希代の読み手であり、誠実な発信を続けてきた作家が、21世紀の今に生きる人々に向けて語る、文学観・世界観の集成。」  
 これまでにいろいろな小説を読んで楽しんできましたが、小説そのものについてあまり深く考えたことはありませんでした。しかしこの講義録に接して、今までただ漠然と感じていたことが見事な絵巻物として提示された、そんな思いが致します。これから先、小説を読む楽しみが一挙に10倍、いや100倍に増えたような幸せな気分となったのであります。そして、更に私にとっては、聖書を読む楽しみも随分増すのではないかと期待している所であります。
 ここに取り上げられた作品は、スタンダール『パルムの僧院』、トルストイ『アンナ・カレーニナ』、ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟」、メルヴィル『白鯨』、ジョイス『ユリシーズ』、マン『魔の山』、フォークナー『アブサロム、アブサロム!』、トウェイン『ハックルベリ・フィンの冒険』、ガルシア=マルケス『百年の孤独』、ピンチョン「競売ナンバー49の叫び』ですが、それに池澤自身の『静かなる大地』が加わっています。価格は1600円。是非是非おすすめの一冊です。




事務局便り3月号(2005年)               
 今年の春は杉花粉がものすごいと、それは去年から言われていることで、いよいよその兆候が始まり、町中ではマスクをした人を多く見かけるようになりました。そのマスクも進化しているようで、今年は口ばしみたいにトンガったマスクが出回っていて、なんとなくユーモラスであります。その形は私は風邪ではない、花粉症なのだと宣言しているようにも感じられます。この新型マスクに限らず、花粉対策グッズがあれこれ開発され、メディアも花粉特集番組でそれらを盛んに紹介しています。お医者さんたちも便乗して早めの予防処置を呼び掛けていろいろな治療法を編み出しているようです。こうなると、花粉も一大産業ということになって、その内に今年の花粉の経済効果は、などという予測も生まれるのではないかと思う程です。
 私は、花粉症などという言葉が社会に認知される大分前から、春先になると目が痒くなっていましたから、相当年季の入った花粉症患者で、それは今でも変わりありません。しかし、こう騒ぎが大きくなると、もう何もする気がなくなってしまいました。そこで2〜3年前から、花粉対策は一切行わないことにして、周りには気合で花粉を退治するのだと強がっています。しかし、私の気合ぐらいでは花粉の勢いはどうにも止めることができないというのが、現状です。実は、正直な話をしますと、随分いろいろ予防や治療をやってみたけれど、何にも効果がなかったということであります。それどころか余計ひどくなったような気さえしました。そこで、もう自然に任せて、花粉なんか知らん振りしてやるだ、ということになったのであります。
 この「知らん振りをする」というのは、体にとっては案外良い薬ではないかと、私は思っています。逆にあまり気にするということはよくない。ひょっとして、花粉が飛んでいないのに、今日の花粉は過去最高の数などという報道が流れると、気にしている人は目が痒くなってくしゃみが出るのではないでしょうか。だからそういう報道もできるだけ黙殺するのです。人の体というのは、実にその心と結び付いていて、ちょっとしたことでも気にしだすと大ごとになっていくことがあるようです。そんなわけで私は健康診断とか人間ドッグとかはやらないことにしています。ただそれは痛みや苦しみを我慢するというのではありません。調子が悪いところがあれば、その部分を診て貰う、これが私の健康管理ということでしょうか。
 イエス様の時代は花粉症はなかったと思いますが、病気はたくさんありました。そういう人々の所へイエス様は足を運ばれて、病を癒しておられます。イエス様の癒しの力は私たちの想像を遙かに超えたすばらしいものであったと思いますが、イエス様が自分の所に来てくださったということだけで、元気になった方も大勢いたのではないかと思います。そして、今も復活のイエス様は、いつでも私たちの所に来てくださいます。まずは、この復活のイエス様を第一のホームドクターとしてすべてをお委ねして、その愛と赦しによって体と心を整えてゆきたいものです。そしてイエス様のご用のために働くこと、これが使徒パウロの言う「この体を生きて聖なる献げものとする」という言葉の意味なんだと、痒い目をしょぼしょぼさせながら考えたのであります。




事務局便り4月号(2005年)
 どこの教会も同じだと思いますが、教会にはいろいろな郵便物が届きます。私は、盲伝に勤務している関係で、時々用事のある時以外は、毎週日曜日のみに教会に行きますので、いつも郵便受けにはかなりの郵便物が溜まっています。それらは、教団や教区からの情報、様々なキリスト教行事の案内、会堂建築や福祉活動のための献金の依頼、キリスト教関係のダイレクトメール、それに地域の食堂や不動産の案内など、多種雑多です。そして、それらに交じって時々分厚い本なんかも送られてきています。同じ教区の教会の記念誌などです。また、なんだか怪しい感じのする本が送られてくることもあります。私は、それらを日曜の集会が終わった後、整理をして帰るのですが、とてもすべてに目を通すということはできません。
 そんな雑多な郵便物の中に、3月下旬のことですが、山岡善郎という方から送られてきた一冊の本がありました。ちょうどイースターや年度替わりの慌ただしい時で、ゆっくり見ないまま、鞄に入れて持って帰ってきました。そして、しばらくそのままだったのですが、4月に入ってやっと封筒を開けてみました。正直に言いますと、私は、ひょっとしてこれは怪しい本ではないかな、などと思っていました。しかし、それは全く私の間違いでした。それは「み言葉を食らって生きよ」という150ページほどの小説教集でした。同封のお手紙には、著者は関西で牧師として働いた後、引退してお子さまがいらっしゃる横浜へ転居されたとのことで、近隣の牧師たちに、挨拶のしるしとして、この本を送って下さったことが記してありました。そこで、私は早速読み始めたのですが、それは心に染みる穏やかな、そして力強い説教集でありました。
 その中に「神様の責任だ!」と題したお話がありました。それは、ある伝道者の挫折と悩みに関するお話でした。そこで著者はペトロの手紙一、5章7節「思い煩いは、何でも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけてくださるからです」の言葉をひいて、「この7節を味わい、私たちも居直って、あつかましくこう言おう。『神様の責任だ。私たちのために思い煩ってくださるのが神様の仕事なのだから、神様がきっと責任を負ってちゃんと道を備えてくださるのだ』と」とおっしゃっています。今いろいろな仕事と問題を抱えて、「何とかせねば、何とかせねば」と思い煩っていた私は、この言葉で我に返った、というより、信仰に立ち返らされたのでありました。神様は、このような不思議な方法で私たち一人ひとりに声をかけてくださることを改めて知らされました。




事務局便り5月号(2005年)
 今から15年ほど前、1990年の秋ことです。我が家の一人娘は4歳になり、翌年の4月から2年保育で幼稚園に行くことになりました。そこで、どこの幼稚園に入るか一家で考えたのですが、物臭の私は、一番近いところでいいと、ほとんど何も調べずに、近所の幼稚園に決めてしまいました。しかし、その幼稚園はその地域ではあまり人気が無く、園児が減少していたようで、娘の入園を決めてからしばらく経って、「2年後に閉園することになった」という連絡が来たのです。つまり、娘の代でその幼稚園は終わるということです。これでは、年長組になったときに後輩が入って来ないわけで、さすがの私もまずいなと思いました。
 そこで、候補の一つとしていた、家から子どもの足で30分くらいの所にある、北町カトリック教会の付属の幼稚園に頼んでみることにいたしました。ここはかなり評判の良い幼稚園で、随分遠くからも母親が車で送迎する園児もいるようでした。そんな人気のある幼稚園に、入園手続きの時期をとっくに過ぎて、娘の入園をお願いするのですから、私は、当時カトリック点字図書館の館長をされていた西尾神父に、そこの園長の司祭を紹介をしていただいて、会いに行きました。お名前はもう忘れてしまいましたが、とても気さくな神父さんで、娘の入園はすぐに許可して下さいました。そして、その後、お茶をごちそうになりながら、しばらく教会や信仰の話をしたのでありまた。それは牧師に成り立ての私にはとても貴重な体験でした。
 ところで、何故今頃こんな話を持ち出したかと言いますと、その園長先生が、その折に、一冊の本を私に下さったからであります。その本の題名は「小さくされた者の側に立つ神」で、著者は本田哲郎というフランシスコ会の神父でした。この本の奥付けは、1990年10月20日初版第一刷発行とありますから、出版されたばかりの本を私は戴いたのでした。私は感謝してその本を持って帰り、早速読んでみて、かなりびっくりしながらも、共感したことを今でも覚えています。
 もうお分かりと思いますが、この本田哲郎神父が今年の盲伝第55回全国修養会に講師として来て下さいます。本田神父は、この著書の中で、次のように語っています。
 「ある冬の夜、路上に野宿する日雇い労働者たちと関わりを持ったことをきっかけに、私はその人々の立場から物事を見るようになりました。そして福音が福音として響いてくるようになりました。福音を伝えねばとおもっていたその人たちから、私は福音を教えられたような気がします。」
 「社会の苦しみ痛む部分、苦しみと痛み(塵と芥)の中に声なき叫びをあげている人々と優先的に関わりを持ち、共感し、共に社会と人々に訴えかけ、働きかけるときにこそ、福音はすべての造られたものに宣べ伝えられるものです。」
 娘はこの4月に何とか大学生になりました。この娘の幼稚園入園騒動で知ることのできた本田哲郎神父に、この夏親子で会えたらなと今思っております。そして皆様も是非そこにご一緒していただきたいと願う次第です。




事務局便り6月号(2005年)
 5月25日の夜のニュースで、北朝鮮による拉致被害者の蓮池薫さんが翻訳された小説が出版されるということを知りました。また、その翌日の朝刊にもこのニュースは掲載されました。本の題名は「孤将」で、原作は韓国の作家、金薫(キム・フン)の著した16世紀の名将李舜臣(イ・スンシン)を題材にした歴史小説「刀の歌」ということでした。これは、豊臣秀吉の朝鮮出兵、文禄・慶長の役で秀吉を苦しめた将軍が戦死するまでを描いた作品であります。
 蓮池さんは、「翻訳はこれまでの人生を少しでも取り返す貴重な仕事」と語り、また「李舜臣はどうしようもないジレンマの中で、運命に負けず生きる道を模索している。私自身もそういう経験がある。そういう姿に感動し、ひかれた」とも述べています。更に、「失った年月は正直悔しい。母は私が朝鮮語を話すのを見るのは切ないと話すが、じゃあ自分にできることは何かと。自分の貯蓄したものを使おうと思った。日本に帰って来て、希望や豊富を持って生きられるという喜びを感じている」とも話しています。この翻訳作業は昨年の8月から始められたそうですが、昼は勤務があるため、朝3時、4時に起きて集中できる時間を持ってこの仕事を進めて来られたのでした。
 私は、この本の内容にもひかれましたが、24年間も日本語から遮断されていた蓮池さんがどのような文章を書かれるのかということに興味をもって、早速この本を手に入れて、読み始めたのであります。物語の書き出しは以下のような詩的文章で始まります。「見捨てられた島々にも花が咲く。花咲く森に夕日が刺し、浮き雲のようにふくれあがって見える島々は、まるで海底に縛りつけられていた鎖から解き放たれたかのように、暗闇が忍び寄る水平線のかなたへと消え去っていく。」
 このように格調高い文章でつづられていく、悲惨な戦場の実体と、そこに呑み込まれていく人々の混乱と絶望、そして、おびただしい殺戮の情景は、権勢を握る人間の愚かさを浮き彫りにしていきます。それはこの小説が李舜臣の一人称で記されていて、彼の目を通してのこの無意味な戦いが描かれ、更にその戦いに苦悩する彼の内面が語られていくからであります。私の認識では、豊臣秀吉の朝鮮出兵は、秀吉晩年の乱行の一つ、というくらいのものでしかありませんでした。そこには、その時侵略を受けた側の悲惨には想像力が働いていないのであります。そして、20世紀にも日本は朝鮮半島に対して、同じ過ちを繰り返したのですが、やはり侵略を受けた人々の悲惨と屈辱への想像力はきわめて乏しいと言わざるを得ないことが、この「孤将」を読んで浮き彫りにされたような気が致します。ここに文学の持つ力があるのでしょう。
 それにしても、1年足らずの時間で、忙しい仕事や雑事の合間を縫ってこの難解な小説を、ここまで見事な日本語に仕上げた蓮池さんの努力と精神力には本当に脱帽致しました。これからも韓国のよい文学を日本に紹介してくださることを期待したいと思います。




事務局便り7月号(2005年)
 年齢を重ねれば、それなりに体力は落ちてきて、体にあちこちに不具合が出てくることは仕方のないことでありますが、それにしても昨年後半に私が感じた体調不良は年のせいにするには、ちょっと程度がきついものでありました。しかし、病院に行って検査を受けるほどでもないので、自分なりにいろいろ原因を考えて、到達した結論はクルマの乗り過ぎでありました。その前年の2月ころから、妻が病気で動けなくなり、私は仕事の帰りに買物をする必要から、クルマでの通勤がぐっと増えていたのです。クルマで行けば楽で、便利で、しかも、道がすいていれば電車通勤より早く家と職場を往復できます。従来から電車の定期券は購入せず、回数券を使っていた関係で、通勤費がムダになるということもないので、私はその頃からクルマ通勤にどっぷり浸かっていたのです。
 「楽で、便利」という現象は、裏返せば体を動かさないということです。つまり、私の体調不良はズバリ運動不足だった、と私は自己診断をしたのであります。そこで、今年に入ってから、極力クルマを使わずに、歩くことに致しました。我が家から最寄りの駅までが、ちょうど1キロ、高田馬場駅から盲伝事務所までが、ほぼ1.5キロで、その行程をスタコラ歩けば、往復5キロになります。それに加えて、駅では階段を使うということにして私のリハビリは始められました。そして、この計画を長続きさせるために、歩きのグッズとしてストップウォッチを購入して、自分の歩いた時間を測定し、歩く速度の研究なんかもしています。また、今年の春先からは、私は「TEKUTEKU(テクテク)の会」という歩きの同行会を設立。現在の会員は私一人で、私はその会の会長もつとめているのであります。
 この「TEKUTEKUの会」は、五木寛之の小説「風の王国」に出てくる歩きの専門雑誌「季刊TEKUTEKU」から命名しました。この小説は現代における「浪民」を描いた長編小説で、「浪民」とは山河を移動して自由に生きてきた人々のことです。明治維新により生まれた日本という中央集権国家は、税と兵役と教育の三代義務を国民に課すことで強大になりましたが、その土台として、すべての人々を国家の手の中に掌握しておくために戸籍の制度を導入しました。これによって、「浪民」は偏見と迫害にさらされ、一般社会に吸収されざるを得なかったようです。しかし、その精神と生き方は、現代にも受け継がれている。その象徴としての「歩き」がこの壮大な小説の背骨となっています。国による国民掌握は、1952年の住民登録制で更に強まり、現在は、住民基本台帳という、国民一人一人に番号を付ける制度にまで発展しています。最近は、教育現場での「日の丸」「君が代」の強制など、更にその圧力は強まっていて、憲法改定はまさにその目的のための作業であることは明白であります。
 ルカ福音書8章1節に「イエスは12弟子と一緒に神の国を宣べ伝え、その福音を告げ知らせながら、町や村を巡って旅を続けられた」とあります。更に、「多くの女性たちも一緒であった。彼女たちは、自分の持ち物を出し合って、一行に奉仕をしていた」と記されています。イエスはユダヤ教の枠を超えて、自由な民を形成していったことがうかがえます。このように自由に歩きまわりながら、人々をあらゆる束縛から解き放つ、真の神の国を説かれたのでありました。イエスの福音を通して、一人ひとりが神とつながること、実は、それが私たちを自由にするのであります。「TEKUTEKUの会」はそのような精神と信仰をもって発足した歩く会であります。入会ご希望の方は、どうぞご連絡下さい。機会があったら一緒に歩きましょう。最後に、私の体調は随分改善されてきたことを付け加えておきます。


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