その部屋に、良い思い出はなかった。
プライベートエリアの、臙脂の絨毯の敷かれた廊下を歩くツォンの気は重い。
プレジデントの子供たちが皆、性的虐待を受けていたのは知っている。それは何も子供に限ったことではなく、プレジデントの歪んだ欲望の犠牲になった者はツォン自身を含めて数知れない。望めば何でも手に入る男は、その欲望の赴くままに奪い、弄んできた。犠牲者は沈黙を守るか、さもなくば人知れず消されるかのいずれかの運命を辿る。告発をもみ消すどころか、人一人消し去ることのできる権力もまたプレジデントの手の中にあるのだから、逆らう者など居ようはずもない。いたとしたらそれは過去形、既に死人だ。
ルーファウスとその手の話をしたことはなかったが、彼だけがプレジデントの魔の手を逃れられたとは考えられない。呼び出されたうちの全てではないにせよ、何回かに一度は寝室で相手をさせられていたのだろうと思う。
そして今日は、まず間違いなくその日だ。
始めから仕事にしては随分遅い時間だと思っていたが、会議室のプレジデントから寝室にルーファウスを迎えに行くようにと命じられて確信した。だが気が重いのは、それが邪推ではなく事実だったと知ったためではない。彼が出てくるまで待つのではなく自分が迎えに行くことで、恐らくルーファウスは傷つく。それがプレジデントの狙いなのだろうが、まるで追い打ちをかけるようで気が進まなかった。
重い木の扉の前でしばし佇む。彼は疲れ果てて眠っているのだろうか。それとも既に身支度を整え、プレジデントから帰宅の許可が下りるのを待っているだけなのか。せめて後者であってくれと祈るような気持ちで、ツォンは躊躇いがちにノックした。
返答はない。しばらくおいて再びノックするが、やはり応えはなかった。
寝入ってしまっているなら、起こして連れ帰らなければならない。仕方なくツォンはノブに手をかけ、扉を開く。
しかし、失礼しますと断って一歩踏み込んだ瞬間、聞こえた声にツォンはその場で立ちつくした。
微かな布の擦れる音や荒い呼吸に混じって聞こえる、ルーファウスの声。悩ましく甘い喘ぎの中にあってそれは決して大きな声ではなかったが、なぜかツォンの耳にそれは明瞭に届いた。
「……ツォ…ン…っ………」
ルーファウスはベッドの上で、自慰に耽っていた。あられもなく足を開き、自身に指を絡めている。上気した肌は薔薇色に染まり、汗ばんだ頬や額に乱れた髪が張り付いていた。
誰もいない部屋に一人放置されて、ルーファウスが耐えられたのはほんの数分。誰か人がいれば意地でもそんな短時間で屈しはしなかったのだろうが、誰も見ていないという安心感は抵抗する気力を奪い、再び欲望の渦に飲み込まれてしまった。あとはもう、ルーファウス自身どうしていたのか覚えていない。ただ快楽を貪っていただけである。
いつしかルーファウスは、自分に触れるツォンの幻を見ていた。腕や足、背中。全身をくまなく撫でる指と唇──それはまとわりつくシーツや流れ落ちる汗の感触だったが、薬によって増幅された触覚はそれを愛撫と感じ、幻覚を作り上げる。
それがなぜ、繰り返しルーファウスを抱いたプレジデントではなく、触れたことのないツォンだったのか。
後に正気に戻ったとき、ルーファウスはその理由を長時間待たせたことを気にしていたためだという理屈で納得しようとしたが、実際の所そうではないということは自覚していた。しかし、これまで誰一人として個人を求めたことの無かったルーファウスには、突如として突きつけられた自分の感情は、理解しがたい異常なものでしかない。それを理解できる理屈に置き換えようとするのも無理もないことだった。いずれにせよそれは後のことで、この時点ではそこまで考える余裕もなく、ルーファウスはただ自分の欲するものを欲するがままに、素直に求めたに過ぎない。ある意味、それは剥き出しにされたルーファウスの本心ともいえた。
「ルーファウス様……」
あまりの光景に凍り付いていたツォンがようやく掠れた声を絞り出す。声が出たことで呪縛が解けたかのように身体が動き、ベッドの側に寄った。
「ツォン……ツォ…ン………」
譫言のように繰り返し呼ぶ名は、現実のツォンに向けられたものではない。波打つシーツに埋もれて身悶えるルーファウスは、ツォンの入室に気付いていなかった。ぼやける視界に覗き込むツォンの姿を映してはいても、薬の見せる幻覚としか捉えていない。あらかじめ幻覚を見ていたために、視界に入る姿が実物と認識できなかったのだ。
熱に浮かされたようなルーファウスの様子にただならぬものを感じたツォンは、辺りを見回しサイドテーブルに薬包を見つけた。
プレジデントが好んで使う催淫剤。
それには、いやという程見覚えがあった。薬物耐性の強い自分でも3時間は治まらなかった代物だ。同じ量を投与したとすれば、体重差も鑑みて恐らく倍は効くだろう。腕時計に目を落とすと0時を回ったところだった。ルーファウスが社長室に向かったのが20時、すぐに飲まされたとして効果が現れるまで約30分。残るはあと2時間あまり。プレジデントはしばらく戻れないと言っていたが、いつ戻るか分からない以上、このままここに居座るわけにはいかない。かといってこの状態で外に連れ出すなど論外だった。
ツォンはまだ残っているであろう社長秘書のデスクに内線を繋ぎ、自分の名義で一般社員用の宿泊所に部屋を取ってもらうためにIDを告げた。直接フロントにかけなかったのは、寝室の始末も頼む必要があると判断したからだ。恐らくこうした事態には慣れているのだろう、秘書は通話状態のままフロントに指示を出し、即座にルームナンバーを返してくる。寝室についても、ツォンから切り出す前にご心配には及びませんと告げられた。
残る問題は、いかに人目に付かずに移動するかだ。
社員たちにホテルと呼ばれている宿泊施設は業務区画に隣接する形で建っており、59階までが一般社員用、60階から68階までに管理職や幹部のためのスイートルームとラウンジがある。業務区画同様、ホテル内でも上のフロアに上がるにはIDカードでのチェックを抜ける必要があり、平社員は基本的に60階以上の施設を利用できなかった。連絡通路は59階までの各階と60階以上の主要階に設けられていて、部屋を取った時点で予約者のIDカードがルームキーになるため、フロントを通る必要がない。これは疲れた社員をわざわざ遠回りさせないための配慮で、部屋の割り当ても特に希望がない限りは本人の就業階と決まっていた。
ツォンのIDは社長警護に付いたときに与えられたもので、全てのフロアを行き来できる。ホテル内も無論自由に移動できるのだが、社長のプライベートエリアは69階で独立しているため、一度執務室に出てからでなくてはどこにも行けないのだ。本来ならばさすがにまず人に会う心配のない時刻だったが、緊急会議のせいかにわかに活気づいている。ホテルに入ってしまえば寝静まっているはずなので、できるだけ会議に携わる人間が来ないフロアを経由するのが妥当だろうと思われた。
秘書が取った部屋は6201。社内の見取り図を思い浮かべてルートを考えようとしていたツォンは、62階が資料室のフロアであることを思い出して思わず苦笑した。ほとんどの資料がデジタル化されて利用者のいなくなった資料室と、形骸化したミッドガル市長の執務室しかない、通称「窓際フロア」。いまだに役人根性の抜けない市長と僅かの職員は、きっかり17時に退社する。要するに、秘書は親切にも最も無人である確率の高いフロアを選んでくれていたわけだ。改めてそのそつのなさに感嘆した。逆にそのくらい気が利かなくては、プレジデントの秘書は務まらないということでもあるのだろう。
移動先を確保したツォンはルーファウスを見やり、軽く頬をたたいて呼びかけてみる。
「……ルーファウス様、聞こえますか?」
ルーファウスの様子はツォンが来たときと変わらない。声が聞こえているようにも思えないが、頬に触れる感触には過剰なまでに反応し、痙攣したように身体が跳ねた。
「部屋を移っていただきます。すぐに済みますから……っ?!」
たとえ聞こえていなくても一応断らなくては、と至近距離で語りかけていたツォンは、いつの間にか首に回されたルーファウスの腕に捉えられて再び硬直する。潤んだ瞳で見上げられ、一気に鼓動が跳ね上がった。
「……ツォン……もっ…と……」
赤い唇が、苦しげな呼吸の合間に誘う言葉を紡ぐ。その誘惑の、なんと甘美であることか。相手はまだほんの子供だというのに、情けなくも一瞬理性が揺らぐのをツォンは自覚した。
引き寄せようとする腕に逆らえぬまま、距離が縮まる。
──まずい、このままでは流される……
熱い唇が自分のそれに押し当てられた瞬間、頭の中で警鐘が鳴った。
とっさにルーファウスの喉を押さえた指が、正確に頸動脈を止める。しかしそれに気付いているのかいないのか、ルーファウスは抵抗するでもなく、ふりほどこうともせず、より深い口吻けを求めた。舌が入り込むに任せていると、熱を持ったそれが上顎や舌を滑るように撫でていく。口腔をくすぐる感触に耐えながら、ツォンは内心焦りを感じていた。標的が落ちるまでの7秒が、こんなに長く感じられたことはかつて無い。
程なくルーファウスが気を失い力無くベッドに沈み込むと、ツォンは深く安堵の溜息をついたのだった。
62階には案の定人気はなく、誰にも見咎められることなく部屋にたどり着いた。
ツォンは上着とネクタイ、それにホルスターごと拳銃をソファに放ると、袖をまくってルーファウスをバスルームに運ぶ。
シーツにくるまったルーファウスは、先程までの乱れようが嘘のように穏やかな表情をしていた。こうしているとごく普通の、年相応の少年に見える。しかし、シーツを剥ぐと生々しい陵辱の痕がそのまま残されていた。
温度をぬるめに調整したシャワーで、肌にこびりついた汚れや汗をそっと洗い流す。思えば、ルーファウスの身体を見るのは初めてだった。警護を任されてから5年にもなるが、湯浴みはおろか着替えの手伝いすらしたことがない。無論ツォンは護衛であって使用人ではないが、常に側にいるのはツォンのみで必然的に本来使用人がするような雑用もこなしており、その流れでいけば身の回りの世話までしていてもおかしくはなかっただろう。始めはメイドがやっているのかと思っていたが、それも違うのだと後に使用人たちから聞いた。
ルーファウスは人に触れられるのを嫌い、かなり幼いうちから自分のことは自分でやっていたらしい。それでも何とか世話を焼こうとする使用人を煙たがって次々とクビにしていった結果、ツォンが配属された当時のルーファウスの屋敷は天下の神羅カンパニー社長令息のものとは思えないほど閑散としていた。大勢の使用人に傅かれ贅沢三昧の暮らしをしているのだろうと思っていたツォンは、予想とあまりにかけ離れた有様に唖然としたものだ。使用人は皆、そんなルーファウスを我侭だとか癇癪持ちだとか言って腫物に触るように扱っていたが、ツォンの知る限り彼がそれほど理不尽に我を通そうとしたことはない。むしろ歳の割に分別があり、こちらの言い分が正しければ自分の非は認める素直なところもあった。そんなルーファウスがらしくもなく過剰なまでに人を拒んだその理由が、今になって分かった気がする。ルーファウスが決して人目に曝したくなかったもの、それは恐らく──
ツォンは泡に包まれたルーファウスの身体を流す。白い泡が流れ落ちた後には、鬱血の痕が鮮やかに残っていた。
やがて全身を洗い清めたツォンは服が濡れるのも構わず、自分にもたれかかるように向かい合わせにルーファウスを抱えた。ボディシャンプーをたっぷりと手に取り、ルーファウスの下肢に埋め込まれたものに手を伸ばす。石鹸の泡で少しでも滑りをよくするためだ。すぼまった入り口から中に入れるように丁寧に塗り込むと、ルーファウスの身体をしっかりと抱え直して一気にプラグを引き抜いた。
「────っ!!」
その衝撃で、ルーファウスの意識が引き戻される。身体は大きく痙攣し、とてつもない力で身体を押し広げられる圧迫感に見開いた瞳から涙がこぼれ落ちた。一瞬で取り除かれた後には、大きな空洞ができたような錯覚を覚える。
その内側を伝い、溢れ出すもの──大量に注ぎ込まれたままのプレジデントの体液が内股を伝って脚を流れ落ちていく感触に、ルーファウスの全身の肌が粟立った。吐き気がするほどの嫌悪感に、抑えきれない嗚咽が漏れる。
ツォンは何も言わず溢れたものをシャワーで洗い流していた。シャワーの水流はなりを潜めていた薬の影響を再び引き出してしまったらしく、ルーファウスはツォンの腕の中で時折びくっと震える。それでも僅かに戻った理性に縋って湧き上がる快楽に懸命に耐えていたが、いまだ違和感を覚える秘所にツォンの指が入ろうとしているのを感じて身を捩って逃れようともがいた。
「や…っ……やめ…ろ………!」
力の限りに暴れても、ルーファウスの力ではまるで敵わない。抱き込む腕はびくともしなかった。
「少し我慢してください。洗い流さないと、気持ち悪いでしょう?」
あくまで冷静なツォンの声に、ルーファウスは羞恥のあまり頬を赤く染めて俯く。抵抗をやめたルーファウスの中に、ツォンの指は難なく侵入した。細く長いそれは入り口を広げながら出入りし、湯と混ざった汚濁を掻き出す。
そうしているうちに、次第にルーファウスの息が上がってきた。皮膚の薄い敏感な部分にシャワーの当たる刺激や内壁を擦られる感触が、燻っていた火を再び燃え上がらせる。
「そちらは、我慢しなくてもいいんですよ? 当たり前の反応です」
ルーファウスの昂まりに気付いたツォンが、宥めるように囁いた。しかしルーファウスは強く目を瞑り、無言で頭を振る。口を開けばあらぬ声が上がってしまいそうだった。
意地を張るルーファウスにこれ以上言っても、反って意固地にさせるだけだとツォンは知っている。こういうときは、何も言わず行動に移るのが一番だ。
すっかり中が綺麗になると、ツォンは指を引き抜く前に前立腺を圧迫した。突然内側から加えられた刺激に、為すすべもなくルーファウスは達する。本人があっけにとられるほど、それは一瞬のことだった。
「な……」
何故、と言いたいのか、何をした、と問いたいのか。思わずツォンにしがみついたルーファウスが、何か言いかけた口を酸素不足の金魚よろしくぱくぱくとさせて唖然としている。
ツォンはそんなルーファウスをまるで意に介さず、身体の向きを変えさせて放ったものも洗い流してやった。
「ただの生理的な反応に過ぎません。誰でもそうなります」
事務的な報告のように淡々と説明しながら、ルーファウスの身体をバスタオルで包む。あらかた水滴を拭うと、そのまま軽々と抱き上げてベッドに運んだ。
「下ろせ…っ……自分で歩ける…!」
「もう着きましたよ。まだ薬が抜けていないでしょう? 動くとまた回りますよ?」
言いながらルーファウスをベッドに下ろし、冷蔵庫からミネラルウォーターを取って来ると、横たわったルーファウスが睨み付けていた。子供扱いされたように感じたのか、それとも決して人に見られたくなかった姿を見られた屈辱か。恐らくその両方なのだろう、睨み殺せそうなほどに突き刺さる視線を受けたツォンは苦笑し、水を注いだグラスを差し出した。
「そんな怖い顔をしないで下さい、誰にも言ったりしませんよ……それとも、口封じでもなさいますか?」
受け取ったグラスを頬に押し当て、冷たい感触に気持ちよさそうに目を閉じていたルーファウスが、ふと微妙な視線をツォンに向けた。体内で燻り続ける火を消そうとでもするかのように、よく冷えた水を一気に飲み干す。空になったグラスをツォンに突き返し、唇の両端を上げただけの冷たい微笑を浮かべて見せた。
「ふん、それなら私が手を下す必要はなさそうだ」
ツォンは返されたグラスにまた水を注ぎ、サイドテーブルに置いた。いぶかしげな視線をルーファウスに向け、先を促す。
「……ウータイが、講和を申し入れてきた」
その瞬間、ツォンは時が止まったような気がした。目の前が真っ暗になったような、頭の中が真っ白になったような、不思議な感覚に襲われる。手足が冷たくなって痺れていくように感じたのは血流が滞ったためだろうと、何故かそんなことだけはしっかり考えていた。妙にちかちかする視界の中で景色がマーブルに溶け出し、歪んでいく。辛うじて倒れずに済んだのは、混乱しつつある脳にルーファウスの声が飛び込み現実に引き戻したためだった。
「講和とは言っても、今の戦況を考えれば事実上ウータイの敗北だ。親父が受けるかどうか、微妙なところだな。徹底交戦して無条件降伏まで追いつめたいのが本音だろうが、ミッドガルの民はいい加減戦争に疲れている。ここで講和の話を蹴ったことが知れれば叩かれるのは分かり切っているからな。これまで築き上げた温厚な紳士のイメージをあくまで崩したくないなら、受けるしかないだろうよ」
喉も口の中もからからに干上がったツォンは、ボトルに残った水を一気に飲み下す。その冷たさにようやく全身の感覚が戻ってきた。
「……では……」
「親父と刺し違えるつもりなら、今夜がラストチャンスだってことさ」
よかったな、たまたま本社にいるときで。
思いついた他愛のない悪戯を呟くようにそう言ったルーファウスは、もう快楽をもてあましていた先程までの彼ではなかった。潤んでいた瞳はすっかり乾ききり、冷たい色もそのままに父親の死を望む。
そうだ、自分はそのためにここにいる。忘れていたわけではない。ルーファウスとの形無き契約も、全てはいずれプレジデントを暗殺するための足がかりだった。しかし──
「お前との契約では、講和条約が締結された場合なんて想定してなかったからな。まだ足場が固まったとはいえないが、仕方あるま──」
「もう、遅い、ですよ……ルーファウス様」
ルーファウスの言葉を遮ったツォンは、噛みしめるようにそう言うとソファに投げたままの拳銃を取った。
ツォンの行動が読めず警戒するルーファウス。だが振り向いたツォンは諦めとも自嘲とも付かない、穏やかともいえる笑みを浮かべていた。
「神羅からではなく、ウータイから講和を申し入れたのなら、今更プレジデント一人が消えたところで何も変わりはしないのです。決定は覆りません。残念ですが、私の任務もここまでです」
「……ウータイに戻るのか」
「いいえ」
拳銃を持つ右手が上がる。ルーファウスは思わず身構えたが、銃口が狙った先はツォン自身のこめかみだった。
「?!」
「講和にしろ降伏にしろ、終戦の報せがあった時点で全ての工作員は自決します。今頃はウータイでも、我々に関する全ての資料は破棄されているでしょう──訓練中の工作員も含めて。工作員など、存在してはならないのです」
初めから、生きては戻れないと分かっていた任務だった。祖国のために死ねることが誇らしいと、本当にそう思っていた。
だが、今はどうだろう。
死に際して想うものが、亡くした両親でも、故郷の風景でもないとは。
青い──どこまでも澄んだ青い瞳と、見つめ合う。空のようでもあり、海のようにも見えるその青さの中に故郷を見つけようとしても、思い出すのはルーファウスの姿ばかり。たった、5年の間の。
「本当に……残念です」
──全ての上に君臨する、あなたの姿が見られないのが──
ゆっくりと、目を閉じる。
瞼に浮かぶ社長室。地上で最も高い位置から、ガラス越しに見下ろすミッドガルの夜景。魔晄の碧い光に照らされた玉座に在るのは、プレジデントではなかった。碧みがかった光を弾く金の髪と、青い瞳。吸い込まれそうなほどの、青──
引き鉄にかかった指を引く。
まさにその瞬間。
「誰が勝手に死んでいいと言った」
不機嫌そうに投げかけられた言葉に、思わず指が止まった。目を開くと腕を組んでこちらを睨むルーファウスの視線とかち合う。
その手が、無造作に差し出された。
「寄こせ」
「……は?」
躊躇うツォンに苛立ったルーファウスの眉が吊り上がる。
「その銃だ。寄こせと言っているのが聞こえないのか」
その命令に思わず従っていた事にツォンが気付いたのは、ルーファウスの手に銃を渡した後だった。自分の取った行動に唖然としているツォンに向けて、ルーファウスが銃を構える。
「目の前で自殺されるのは不愉快だ。そんなに死にたいなら私が引導を渡してやる、ありがたく思えっ」
尊大に言い放つルーファウスに、ツォンは目を細めた。
同じ死ぬなら、この人の手にかかるのも悪くない。
再び目を閉じたツォンの耳に、撃鉄を起こす音が聞こえる。
一瞬の間をおいて、乾いた銃声が響き渡った。
焼け付くような激痛が左肩に走り、衝撃でツォンは床に倒れ込む。しかし急所は外れているのが分かった。痛みに霞む視界に、ベッドから下りたルーファウスが傍らに屈み込むのが見える。躊躇いもせず人を撃ち、顔色一つ変えないルーファウスの、常と変わらぬ醒めた瞳がツォンを見下ろしていた。
「ウータイが要らないと言うなら、私が貰って悪いことはないだろう?」
ルーファウスの手が脂汗の浮かぶツォンの額を撫でる。微かに、硝煙の匂いがした。
「ウータイの工作員は死んだ」
時折走り抜ける痛みに眉根を寄せて呻くツォンに、否とは言わせぬ力を持った言葉が降りかかる。
「お前は私のものだ。覚えておけ」
いいな、と念を押したルーファウスに、ツォンは荒い息を継ぎながらもはっきりと自分の意志で答えた。
「は…い……」
それを確認した瞬間のルーファウスの顔を、一生忘れまいとツォンは思う。
作ったものではない、それは、本当に嬉しそうな笑顔だった。
その後。
ルーファウスは銃声を聞いて駆けつけた警備兵に手入れ中の誤射だと説明し、ツォンは神羅系列の病院に運ばれた。
急所を外れていたこともあって、ツォンはすぐにでも復職可能と主張したがルーファウスに却下され、仕方なく病院のベッドで過ごすこと一週間。
見舞いに訪れたルーファウスが開口一番、こう切り出した。
「ウータイはお前たちの資料は全て破棄したはずだと、そう言ったよな? じゃあ戸籍はどうなってる?」
リンゴをナイフで削ぎながら口に運んでいたツォンが、手を止めてしばし考え込む。
「さあ……ウータイの方の、本来の私の戸籍は死亡扱いになっているでしょうが、ミッドガルに潜入した時点で移民と入れ替わっていますから、そちらはそのままだと思います。ミッドガルの情報まで操作はできないでしょうから」
「つまり本当のお前の戸籍では死亡となってるんだな?」
「はい、さもなくば存在そのものを抹消かも知れませんが」
何か問題がありましたか、と訊ねるツォンに、ルーファウスはにやりと笑ってみせた。
「お前をタークスに推薦したんだ。親父の了承は取り付けた」
「はあ……?」
タークスについて、ツォンは一般の社員の認識に毛が生えた程度のことしか知らない。ウータイがその実態を掴めていなかったためだ。ただのSPではないらしいことは知っていたが、社長の警護以外で目にしたことは一度もなかった。5年もルーファウスの側に、ひいては社長にも近い位置にいたというのに、いまだに謎の部署である。よって話がよく飲み込めなかったのだが、ルーファウスはわざわざ説明する必要はないと思っていたのか、当然知っていると思っていたのか、詳しい説明は一切しなかった。
「この分なら戸籍の方も問題なさそうだしな。あとはお前の怪我が治るのを待って、適性テストをクリアすれば決まりだ」
そこでいったん言葉を切って、ルーファウスは意味深にからかうような笑みを向ける。
「お前なら大丈夫だと思うが……死ぬなよ?」
ツォンがその言葉の意味を真に理解したのは、適性テスト当日のことだった──
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