天明家住宅 Tenmyo ![]() |
小金井市指定有形文化財 (平成27年4月8日指定) 旧所在地・東京都大田区鵜の木1丁目 建築年代/18世紀後半 用途区分/農家(名主) 移築建物/主屋・長屋門・飼葉小屋 江戸東京たてもの園が発行する解説本によれば、天明家は鎌倉時代に下野国から移り住んだと伝えられ、藩政期には鵜の木村の名主役を務めた旧家であると記載されている。また続けて、嘗ての家の外には大きなかまどがあり、屋号を「へっついさま」と称されたこと、大名が多摩川の鮎釣りなどに訪れた際には本陣を勤め、明治時代には役場として使用されたことなどが解説されている。更に敷地の西側は江戸期に築かれた農業用灌漑水路であった六郷用水に面しており、約3000坪余りの広大な敷地を持つ屋敷であった、とも記されている。 当住宅は、東京江戸たてもの園が開園する以前、昭和57年(1982)の武蔵野郷土館時代に大田区鵜の木から移築された農家建築である。鵜の木は高級住宅地として知られる田園調布の南方に位置する農村集落で、文政9年(1826)の記録によれば、鵜の木村は戸数57戸と記されていることから、恐らく少数の高持百姓を主体とする農村であったと推察される。新編武蔵風土記稿によれば、延徳元年(1489)に天明氏により拓かれたとあることから、天明一族が草分けとして入植し、以降も昭和期に至るまで大きな人口移動も無く、彼らを中心に連綿と田畑の耕作に明け暮れた土地柄なのであろう。 住宅は茅葺寄棟造の平入建物で、桁行8間、梁間5間の中規模な主棟に対し、西側に書院棟、東側に風呂・竈棟を付属させることによって複雑で大規模な建前となっている。前面に式台付の玄関を備え、屋根の中腹には千鳥破風を設える様子から尋常でない格式の高さを感じさせてくれる。また、主屋とは別にその南手には長屋門が併せて移築され、往時の屋敷構えが再現されている。江戸郊外における農村部の豪農屋敷の有り様を示す好例と云えなくもない風情である。 しかし、私の中ではこの解説本の内容を鵜呑みにして良いものか否か、迷うところがある。その理由は、相模書房から昭和53年に発刊された「民家巡礼 東日本編」(溝口歌子・小林昌人共著)の中に「大田区世田谷区の大地主の家」という項があり、その中で天明家の事が記されているのだが、微妙に描写が異なるのである。以下がその内容である。 「大田区鵜の木町の天明一族の家々は非常に美しい。天明家は、「大べっつい」「小べっつい」と呼ばれて、その名は遠くまで知られた家で、「大べっつい」というのは、「かまど」が大きい、即ちお金持ちということなのであろう」との書き出しで天明一族3家(天明光秀家・天明喜一家、天明茂光家)の住宅について紹介されている。そのうち、天明光秀家は名主を務めた本家筋となる。それとは別に天明茂光家の描写として「久が原駅の西の白山神社近くに、長さ15m(8間)もある長屋門があり、その主屋の大屋根の中心には権現造のような千鳥破風があり、思い切った造りが目を引く」と紹介されている。この天明茂光家が当住宅のことであり、同書に掲載された天明光秀家の写真と比較する限り、家屋の規模や表門の様式(光秀家表門は四脚門形式)などの点で、本家筋の天明光秀家には遠く及ばないことが一目瞭然なのである。ちなみに、恐らくここでいう権現造とは、建築学上の様式を示す用語ではなく、華美な装飾を施した建築という意味で用いられているようであるが、著者は「恐らく後で付けたものであろう」と藩政期における格式を顕したものではないと否定している。藩政期における本分家の家格差は歴然としていたように思われ、真に豪農と称されるべき存在は天明光秀家だったと推察される。そこで冒頭の解説本の内容について省みると、果たして当住宅の事柄として正しく著述されたものになっているか否か、俄に信じ難くなってこないだろうか。天明一族に対する事象が天明茂光家の事柄と混同されているような気がしてならない。 それはともかくとして、当住宅の民家としての美しさは相応のものだと思う。私はこの家を最初に見たときに、「ああ、やはり東京は農家でさえもセンスが良い」と率直に感じたことを覚えている。大屋根の中腹に千鳥破風ひとつが付くことで、単純な直家がこれ程までに格好良くなるものか、と感心させられないでしょうか。(2025.7.19記) 【参考文献】江戸東京たてもの園解説本(東京都歴史文化財団発行/平成15年3月31日初版発行)・民家巡礼 東日本編(相模書房発行/昭和63年5月20日第4版) |