大竹家住宅
Ootake



国指定重要有形民俗文化財 (平成2年3月29日指定)
福島県南会津郡田島町糸沢字西沢山3692-20
旧所在地・福島県南会津郡南会津町糸沢字今泉平
建築年代/享和元年(1801)
用途区分/馬宿
指定範囲/主屋・奥会津の山村生産用具(農具・山樵用具・養蚕用具・染色用具・木地用具等)5058点 「今泉の馬宿」

近世、宿駅の設けられている街道では、旅人や商荷は、宿駅毎に付け替えてリレーする駅継ぎによる輸送を公式交通制度としていた。会津西街道では、この駅継ぎ方式とは別に、自分の所有する馬(6頭を限り)で、自分の商荷を仕入地から目的地まで駅継ぎせずに付通すことを認められていた中付駑者があり、宿駅の馬方と対立しながら営業していた。この駑者馬の休泊した宿を馬宿と云い、間宿の今泉に残っていたものを移築復元した。

馬宿の役割
馬宿は、中付駑者が馬と共に宿泊する施設です。中付駑者は、宿駅の運送業者と対立関係にあったことから、下野街道では馬宿は間宿(あいのしゅく・宿駅と宿駅の間の集落)に社会的インフラとして設置されていました。現在確認されている下野街道沿いに設置されていた馬宿は、市野(現・大沼郡会津美里町市野)、中荒井(現・南会津町中荒井)、今泉2軒(現・南会津町糸沢字今泉平)です。当住宅は今泉に所在していた内の1軒です。今泉は、川島宿と糸沢宿の間にある集落です。中付駑者は、1人で最大6頭の馬を用いて輸送することが認められていました。この馬宿は、普通の民家と比べると馬屋が広く、4頭が入れるようになっていました。馬宿は、江戸時代から明治時代の初期にかけて存在し、奥会津の物流を支える重要な施設として機能していました。

奥会津の中付駑者(なかづけ・どしゃ)
奥会津では、江戸時代2種類の運送形態が存在していました。
1つ目は、伝馬です。この運送業者は宿駅毎に常備され、大名の荷物や商業の荷物を輸送していました。この業者は、荷物を宿駅毎に別な馬に付け替え、中継をしながら目的地まで輸送していました。そのため輸送に時間がかかりました。2つ目は、中付駑者です。奥会津は江戸時代「南山お蔵入」と呼ばれた江戸幕府の直轄地で域内から徴収された年貢は、全て江戸幕府に納入されていました。「南山御蔵入」は、高冷地のため米の生産性が極めて低く、年貢は金銭納入する村が多かったと考えられます。中付駑者は、当初年貢金を稼ぐため、自分の馬の背に産物(小羽板=屋根を葺くための材料、大豆、小豆、蕎麦等)を付け、中継することなく今市や若松に輸送し売却していました。帰りの馬には、自家用の塩、米、味噌等を付け、村に戻りました。このように中付駑者の最大の特徴は、中継をしないで目的地まで輸送することです。このため伝馬と比較して輸送にかかる時間が短かったと考えられます。更に年貢金を稼ぐ目的の輸送のため、宿駅を通過する際の手数料の支払も免除されていましたので、安い運賃での輸送が可能であったと考えられます。
中付駑者の輸送システムは、荷物を早く安く輸送できるとして、社会的ニーズが高まりました。その結果、宿駅で扱われる商業の荷物は激減しました。天保9年(1838)には、下野街道(若松から今市に通じる街道)の糸沢、川島、田島、楢原、倉谷、大内の各宿駅で扱われる商業の荷物が、嘗ては年間2万駄もあって、その利益で生活を営んできたが、中付駑者に荷物を取られてしまい、現在では10分の1に激減して生活が立ち行かなくなったと訴え出ています。この訴えを受けて、天保10年(1839)3月、中付駑者は上記の宿駅を助けるため、1宿駅に銭20貫文(約62万円)ずつ5年間にわたり支払うことになりました。中付駑者が上記の宿駅に支払った金額は、合計で600貫(約1875万円)になりました。(銭1貫=1000文、1文=31円で計算) 
このように「南山御蔵入」では、中付駑者が伝馬を凌駕し物流を担っていくことになります。明治時代になると、下野街道でも道路改良が進み、馬車が通行できるようになります。中付道路の業者らは会社を組織し、馬車を使った輸送を行い、地域の発展に寄与していきます。




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