増田家住宅
Masuda



 
入来麓集落の最奥部に所在。
入来麓の邑主であった入来院家の侍医を務めた今村家の分家筋にあたる。
屋敷地は延命院という寺院が廃仏毀釈によって毀されたため、その跡地を利用したもの。
台所部にあたるナカエは延命院の建物の廃材を利用したものと云われている。
住宅の建築年代については、屋敷地の入口に立てられた石敢當の記載内容から推定されたもの。
ナカエの南西に浴室便所棟を置くが、便所は家族用と客用に分かれる。家族用の便器は有田焼と推定され、客用は青磁が使用されている。
ナカエの西方に屋根付の洗い場が附属するが、水は屋敷西方の崖から染み出す湧水を貯めて使用したらしい。
眼科を営んだとのことで、オモテの座敷が診療室として用いられた。オモテのナカノマには南国では珍しい程の大きな囲炉裏が設えられているが、ここが待合室として使用された故であろう。
またナカノマの戸棚前の天井には吊下棚が設けられているが、編み笠の置き棚であったと推測される。こうした造作は非常に珍しい。南国の厳しい日差しを嫌って笠を被ることが常態化していたのだろう。


(現地で聞いたよもやま話)
座敷の床脇にある天袋には嘗て空筺が置かれていたらしいが、これは万が一には首を入れるための筺で、領主に対して命を捧げるという忠誠を誓うものとのこと。けれど医者であった当家にそういったエピソードが残るのは、おかしいと私は思う。

座敷の床壁は白漆喰塗りで、床壁以外の壁面を赤土壁としているが、古老の話では嘗ては全て白漆喰塗りであったとのこと。なぜ修復にあたり違いを付けたかは不明。

石蔵の積み石は加治木石と称される地元産で加工が容易であるとのこと。太平洋戦争中は防空壕として使用したとのことであるが、屋根は木造なので爆弾が投下されたらひとたまりもないと思う。この石蔵には戦時中、鹿児島城下からトラック12台分の貴重な什器類が運び込まれたとのこと。


 

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