川打家住宅
Kawauchi



国指定重要文化財 (昭和49年2月5日指定)
佐賀県多久市西多久町大字板屋6200-1 (移築)
旧所在地・佐賀県多久市西多久町大字板屋6300
建築年代/江戸時代(18世紀前半)
階層区分/町家
指定範囲/主屋
公開状況/公開

佐賀県西部の多久と伊万里を結ぶ往還沿いに形成された在郷町に所在した農家建築である。現在は道路拡幅により少し南方の民家園内に移築されている。そもそもは往還に接して建てられていた当住宅は町家的要素と農家的要素の両者が混在する建物で、開口部が極端に少なく閉鎖的であるのは往還沿いの治安上の問題からであろうか。またオモテ側に並ぶイマとザシキの境界に建具を立てず開放的な造作とするのも一般の農家では見受けない建前である。外観はクド造の典型で県内最古の例とされる。


現在の多久市は外来の者には少しややこしい町で、多久町と称する地区を取り囲む形で東西南北を冠する4つの多久町があり、合計5つの地区から構成されている。地区の名称から中心市街は多久町にあると思ってしまうところであるが、現在の町の中心はJR唐津線の駅がある東多久、北多久町一帯で、明治期に石炭産業が勃興した際に形成され、かつては炭鉱住宅が建ち並んでいたという比較的新しい町である。佐賀から唐津に抜ける国道203号線や高速道路も、こちらの地区を通るため、石炭産業衰退後も町の中心としての役割を維持しており、当然、市役所もここにある。しかし江戸時代においては、やはり多久邑と称された多久町一帯が地域の中心部で、地方知行制を採っていた佐賀鍋島藩の家老職を務めた多久家21600石の在所がここにあった。昔の絵図を見ると、かなりの規模の武家屋敷街がこの地に営まれていたようであるが、現在では茅葺の民家が点在する鄙びた集落の様相を呈するに止まっている。
さて当住宅が所在するのは、その多久邑から伊万里へ通じる往還沿いに形成された西多久町の「宿」という集落であるが、江戸時代の中心地であった多久町でさえ、開発とは無縁ながら相当な変貌振りなので、郊外の集落などはさぞ、と思われたが、意外にも往時の家並みは姿、形を変えながらも残されている。
今では県道25号線と称される旧伊万里往還を西に向かって走って行くと、女山峠へと続く登り道に差し掛かる辺りに、道路の右側にトタン屋根に覆われてはいるものの、かつては茅葺屋根であったと思われる民家がズラッと一列に並んでいる様を目にすることができる。何の予備知識もなければ、周囲の田園風景から農村集落と推測し、それにしては家並が一列に揃う様は少々奇妙だなと思うに違いない。
ここが当住宅が所在する「宿」集落で、実は本来、道路の両側に家々が建ち並び、その名のとおりに宿場町の様相を呈していたのである。近年の道路拡幅の煽りを受けて、南半分側の家並みがごっそり除かれ、北半分側の家並みだけがきれいに残ったのである。現代の地方都市における脈絡のない開発状況から、集落の半分だけでも残ったことを喜ぶべきかもしれないが、複雑な気持ちにさせられる景色である。
さて当住宅は、この「宿」集落内の道路端にあった民家であるが、道路の拡幅前には南半分側、すなわち取り除かれた側に建っていた。いや現在でも南側に建っているが、当然のことながら当住宅のみが取り壊しを免れたのではなく、重文指定を既に受けていた関係もあって背後地にそのまま移された。おそらく指定を受けていなければ破却の憂き目にあっていたかも知れない。
当家は最後の所有者である川打氏までの間に所有者が何度か変わっていたため、由緒来歴は定かでない。宿場通りに面していたので、何らかの商売を行っていた可能性も否定できないが、単なる農家であった可能性もある。要はよく判らないのである。
凹型をしたクド造りの典型で、正面からは普通の直屋の民家であるが、裏へ廻るとまさに「クド」の形をしている。このクド造りは佐賀県から福岡県に分布する地域特有の建前であるが、佐賀は凹部を背後に、福岡では表側に持ってくる違いが在る。


 

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