伊東玄朴旧宅
Itou Genboku



 
佐賀県指定史跡 (昭和48年4月23日指定)
旧神埼町指定文化財 (昭和45年2月17日指定)
佐賀県神埼郡神埼町大字的1675
建築年代/文政3年(1820)
用途区分/医家
指定範囲/主屋
公開状況/公開

伊東玄朴は長崎・鳴滝塾でシーボルトに医学を学び、江戸に出て蘭医として名声を博した後、鍋島候の御匙医となり、日本初の種痘を行ったことで著名な人物である。最終的には将軍家の奥御医師にまで登用されるという大出世を遂げたものだから大した人物である。当家は広大な佐賀平野の北方の山裾に位置する小集落中に所在する。さほど有名でもない仁比山神社へ至る参道脇の石垣上に小さな主屋を構えているので、最初は神社に関係する社家住宅かと思ったりもしたが、単なる農家だったようである。このような田舎から思いもよらぬほどの立身である。さぞ隣近所もびっくりしたことであろう。ただ、現在残されている建物は、単なる農家建築ではない。小さいながらも玄関を構え、土間は小さく、座敷も整えられた格式のある建前である。恐らく、玄朴の出世以後に建て替えられるなどしたものであろう。

伊東玄朴 11歳で漢学を学び、17歳で漢方医となる。長崎鳴滝塾でドイツ人医師・シーボルトら師事、蘭学を学ぶ。
25歳で江戸に出て、ジフテリアを治す。これが嘉永3年(1849)我が国最初の種痘である。後に13代将軍・家定の奥御 医師に抜擢、文久元年(1861)、西洋医学所を創設。「近代西洋医学の父」と称せられた。


 

一覧のページに戻る