犬塚家住宅
Inuzuka



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伊万里市指定文化財 (平成3年6月1日指定)
佐賀県伊万里市伊万里町甲555-1
建築年代/文政8年(1825)
階層区分/商家(陶器問屋)
指定範囲/主屋
公開状況/公開 【伊万里市陶器商家資料館】

「伊万里」という地名を訪れたことはなくても一度は聞いたことがあるはずである。日本の磁器の代表銘柄と云っても過言ではない「有田焼」の積出港として、地方都市としては抜群の知名度を誇る町である。お恥ずかしい話であるが、個人的にはあまり陶磁器に関心がなかったため「伊万里焼」という磁器があるものだと思っていたが、伊万里はあくまでも積出港であって、内陸部の有田で焼かれた磁器を陸路で伊万里まで運び込み、伊万里から船で全国に送り出したということである。西日本各地で伊万里から船出しされた磁器を「伊万里焼」と呼称することもあったゆえ産地と勘違いされることも多いようだが、あくまでも磁器の生産とは無縁の商業都市であったらしい。藩政期においては鍋島藩領に区分され、船着場があった伊万里川沿いの町場は、特に郷村とは区別され「伊万里津」と呼ばれていた。そもそもは佐賀鍋島藩における藩窯として大川内山地区で始まった磁器生産が、有田地区で大発展を遂げるまでの間、そのいずれもの積出基地となった伊万里津は領内で最大の湊町として繁栄を極めることとなった。
当然、こうした歴史ある町に対しては何かしら昔日の風情を求めて訪ねてみたくなるものだが、実際には淡い期待を見事に打ち砕いてくれるほどに過去の町並は名残を止めず、全く現代のありきたりな町並に変貌を遂げてしまっている。私が最初に当地を訪れたのは平成10年頃だったと思うが、この時点で既に伊万里市中を歩き回った挙句、当家の周囲と伊万里駅前の路地に1,2軒の白壁の町家を見かける結果に止まり、期待との落差に愕然としたことを未だに覚えている。
さて当住宅は現在の伊万里市内を横断する県道240号線の北側に、伊万里川との間に挟まれるような恰好で残る町家建築である。「伊万里市陶器商家資料館」の名称で一般公開されており、その名が示すとおり、そもそもは陶器商を営み、幕末には江戸陶器蔵元の要職にも就いた伊万里津屈指の商家であったらしい。昭和63年に所有者の好意により地元・伊万里市に寄贈されたとのことであるが、この時点で既に屋敷の南半分は県道240号線の敷設により失われ、北側の道路を挟んだ向かいに伊万里川に面して建ち並んでいたという積出蔵群も昭和42年の伊万里川洪水を契機とする河川拡幅の防災工事までに取り壊されていたようである。ゆえに現在残る主屋だけを見る限りには、残念ながら屈指の商家としての面影を見て取ることは甚だ難しいと云わざるを得ない。
主屋の間口は3間(約5.5m)と狭く、奥行きもわずか8間(約15m)と、規模は決して大きなものではない。また外観も単なる土蔵と見間違えるような素っ気ないものである。しかしこうした造作は、屋敷前を通る本通り沿いに80軒もの陶器商が建ち並んでいたというから、限られた土地の有効活用と防火上の対策を考えた時に、理に適ったものであったと云えるのかもしれない。
一方、内部の造作は比較的しっかりしており、さすがに陶磁器のような重量物を扱っていただけのことはある。住宅の規模に比して収納スペースが室内各所に割かれていることや、通り土間の中程を吹き抜けとし、2階に商品を運び上げるための滑車が設けられていることなども、商売上の配慮であろう。また陶磁器という商品は当時殆どが受注生産で、絵付見本等により注文を受けてから製造を始めるため納期に1〜2ヶ月を要することが当たり前であったらしい。ゆえに全国各地からやって来る買付商人たちは納品待ちの間、伊万里津滞在を余儀なくされたことから当住宅には長逗留する彼らのために2階の座敷部屋が用意されている。造作はかなりきちんとしたもので書院欄間の鶴亀の透し彫刻はなかなかに秀逸である。この辺りの造作は人の往来が激しい土地柄ならではのことで、要はセンスが磨かれるのである。
当住宅は外観こそ多少地味であるが伊万里という土地の成り立ちを如実に反映させる町家としてなかなか興味深いものである。町の歴史を紡いできた大事な民家が、なんとかギリギリのところでよくぞ残ったものだと心から嬉しく思った次第である。(2011.5.20記)∴