竹村家住宅
Takemura



 
国指定重要文化財 (平成19年12月4日指定)
高知県高岡郡佐川町甲字東町1301
建築年代/安永9年(1780)
用途区分/商家(酒造業)
指定範囲/主屋・土蔵・表門・土地
公開状況/非公開

かつて土佐藩では領内各所に土居と称する居館を配し国防に努めた。宿毛、窪川、安芸、佐川といった場所に土居付家老として藩主・山内家の縁戚関係にある者や信頼を置ける者達にそれぞれに陣屋を構えさせ統治させた。当住宅の所在する佐川は土佐藩筆頭家老の深尾家1万石の陣屋町で、陣屋を中心に城下町が形成された。寛文年間に城下町の整備の際、高知の種崎町から鉄屋四郎兵衛という商人を格別の待遇で招聘し、酒造株を与えるとともに広大な屋敷地も与えた。その後、2代目を継いだ鉄屋太助が寛保元年(1741)に大阪に転居することとなったらしいが、その際に佐川の屋敷地と酒造株を受け継いだのが、鉄屋の奉公人であった高岡村出身の務平の息子・弥惣太であった。彼は商売を着実に発展させ、深尾家に対して御目見得・苗字帯刀を許されるまでに成長し、町年寄を務めるとともに明和7年(1770)には黒鉄屋を名乗ることを許された。3代・忠次、4代・弥惣右衛門に続いて5代目・勘十郎の時代の明治10年には4男の別家を許し黒鉄屋出店として同様に酒造を始めることとさせた。
時代は下って、大正7年(1918)に黒鉄屋は本家と出店及び浜口家が経営していた生金屋の経営統合を行い、現在の「司牡丹酒造」としたのである。

【文化庁報道発表】
竹村家は、佐川屈指の商家で、江戸後期に苗字帯刀と酒造を許されて酒造業を手掛けるとともに、幕府からの巡見使には宿所を提供していた。主屋は、東側の店舗部と西側の座敷部から成り、店舗部は安永9年(1780)頃、座敷部は天保9年(1838)の建築とみられる。店舗部は、広い吹き抜けの土間と、オモテ、チョウバなどの部屋を持つ町家形式で、座敷部は、座敷のほか茶室なども備えた接客空間をもち、当地に特徴的な意匠の座敷飾りや貼付壁を採用している。竹村家住宅は、幕府巡検使の宿所とされ、武家住宅に準ずる上質な座敷を備えるなど、土佐地方における有力商家の住宅として重要である。


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