松井家住宅 Matsui ![]() |
大洲市指定文化財 愛媛県大洲市柚木317 建築年代/大正15年(1926) 用途区分/実業家(南洋貿易商) 指定範囲/主屋 公開状況/公開 【盤泉荘】 愛媛県中部の大洲市に所在する貿易商の別荘建築である。四国カルストを源として伊予灘に注ぎ込む肱川の中流域に所在する大洲の町は、肱川越しに大洲富士を眺める風光明媚な土地柄である。藩政期に大洲藩加藤家6万石の城下町として拓け、昭和の頃には「伊予の小京都」と称えられる程に風情のある場所であった。当住宅は、城下町の南端の崖地に高く石垣を積み上げることで辛うじて平坦地を確保し、肱川の川面を臨む高台という風情を無理強いして手に入れたような屋敷で、その意味では日常の生活空間には不向きな別荘建築らしい立地と考えられなくもない。当住宅の近くには、明治期の数寄屋建築の最高峰と云っても過言ではない国の文化財に指定される臥龍山荘も所在しており、付近は大洲城下の中でも絶景地であったことは間違いない場所である。そもそも大洲城下は藩政期に限らず肱川の氾濫には悩まされてきた経緯があり、藩政初期の元禄時代から江戸の末年までの間に100回以上の水害に見舞われたことが、藩の年譜に記録されている。施主がマニラ交易で得た巨万の富を注ぎ込む建物群を後世に残すことを意図したならば、頻発する水害から免れるために、水没の危険性の高い旧城下ではなく、無理にでも高台が確保できるこの地でなくてはならなかった、という見方もできないことはない。 さて、当住宅は大正15年(1926)の建築となるが、その施主であった松井國五郎は、兄・傳三郎と共に、フィリピンのマニラで貿易会社を経営し、日本人移民向けの百貨店を経営するなどした実業家であった。明治・大正年間の日本は、欧米列強に伍すため、日清・日露戦争に臨んだものの、国内経済は疲弊し、ハワイやアジア諸国に移民を出して外貨を稼がねばならぬ程に貧窮していたのである。(NHKの番組では、フィリピン残留移民を「忘れられた日本人」として取り上げ、その中でフィリピン移民は東南アジア最大の3万人に上ったと紹介していた)松井傳三郎・國五郎兄弟が、どのような経緯でフィリピン・マニラに渡ったのかは知らないが、兎に角、彼らの事業は軌道に乗り、故郷に錦を飾るまでに成功を収めたことは、この贅沢な住宅建築を見ていると容易に理解できる。 さて高石垣の上に迫り出すように建てられた住宅は、純和風の数寄屋建築である。大正年間という時代性を考えれば洋風の要素が加わっていても可笑しくないところであるが、やはり日本に帰郷した際には純和風の住まいで過ごしたかったのかもしれない。但し、用材においては廊下等に南洋材を使用しており、フィリピン貿易商としての面目躍如といったところであるが、室内においては伝統的な書院造の手法から逸脱するような用材はしていない。 |