旧笹井家住宅

市指定文化財 (昭和47年9月12日指定)
大阪府高槻市城内町3-10
旧所在地・大阪府高槻市高槻町19-2




 
当家が所在する高槻市は、戦後、商都大阪のベットタウンとして順調な発展を遂げ、現在では35万人を超す人々の生活拠点として、住宅が密集する典型的な郊外型都市の様相を呈しているが、そもそもの発展の礎は、江戸時代に高槻藩永井家36000石の城下として、また西国街道の宿場(芥川宿)として町場が形成された歴史にある。現在、その居城であった高槻城の遺構は石垣までが旧国鉄の鉄道線路の敷石に転用されてしまったため全く痕跡を止めない状況にあるが、城下町としての名残はJR高槻駅前商店街の裏手に今でも数件の町家に辛うじて残されている。
さて当家も現在地に移転されるまでは阪急高槻駅に程近い紺屋町に所在していたが、線路脇の道路拡幅工事により現地での維持が困難になったため、昭和57年に高槻城址を整備した公園内に主屋部分のみを解体移築されたものである。(ちなみに主屋西側に建つ土蔵は収蔵庫として移築時に新築されたもの。)現在は市立歴史民俗資料館の別館として常時公開されている。
主屋は本瓦葺・妻入の建物で、平屋建ではあるものの、間口が広いうえに屋根裏の空間を十分に確保しているため大屋根の棟が高く、堂々たる雰囲気を醸している。また建物の顔とも云うべき妻面に小庇を設けることで白漆喰の大壁造で重たくなりがちな風情を払拭するとともに、小庇の軒裏を波形漆喰仕上げとすることで更に軽やかな印象に上手く転化している。この辺りは、さすがに建築文化の先進地であった上方ならではの絶妙なバランス感覚の成せる技である。
一方、内部については全体の約2/3を占める土間の広さに驚かされる。建築は江戸時代中頃(17世紀中頃〜末頃)と推定され、ある程度民家建築も成熟期に入ったこの時期には床上部も十分に発達し、土間部分が占める面積は縮小する傾向にあるはずであるが、当家の場合は中の間奥のカツテ(炊事場)に該当する部分までが土間となっている。当家で受けた説明では「農家と町屋の要素が混在している」とのことであるが、恐らくこうした町家にしては不釣合いなほどに広い土間が設けられている点を指摘しているのであろう。
また土間の架構についても、幕末の民家建築にありがちな桁や梁の豪壮さを顕示するような意図は微塵も感じられぬほどに至って簡素なもので、印象としては江戸時代初期の建物の雰囲気を醸しているように個人的には感じる。
そして内部の造作としての見せ場は中の間の上手に設けられた座敷であろう。床面を一段高くしてまるで「上段の間」のような設えである。この座敷部は主屋に対して角屋のように側面に張り出しているため、恐らく間取り的にも後補の造作ではないかと思われるが、なかなか心憎い演出である。
江戸時代における大坂の北部地域は莫大な富が集中する上方経済圏に近接するため、幕府の恣意的な領土配分から旗本領が多く、意外にも大きな町場が形成されることはなかった。その中で徳川譜代の大名として信頼の篤かった高槻藩永井家の存在は例外的であり、開発著しく急速に変貌を遂げたこの地域の町家が移築されながらも現在に残ることは非常に稀有なことだと思う。今後も大事に守り続けて欲しいものである。(2011.8.31記)