中家住宅
Naka



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国指定重要文化財 (昭和39年5月29日指定)
大阪府泉南郡熊取町五門26番地
建築年代/17世紀前半
用途区分/農家(大庄屋)
指定範囲/主屋・(附)表門及び唐門
公開状況/公開


泉南郡熊取町の地域には庄園的な秩序が遅くまで伝承され、庄園の代官名主等を出自とする土豪層は、庄園制の下での諸権利をその重要な勢力の支柱にしてきた。これら中世末の土豪層も太閤検地や刀狩による士農分離によって、多くは大庄屋やその他の村役人として村方に定着するようになった。しかし、このような村役人として農民の身分になるのは寛永期以後のことで、江戸初期には郷士代官や代官庄屋として半領主的な権力を持ち続けた。
寛永17年(1640)、岡部氏の岸和田入部とともにこのような役柄も廃止され、大庄屋と改められた。身分上は百姓でも苗字帯刀を許され、藩政にも参与するような権力とともに、中世以来の支配地に大きな勢力を受け継いだ。畿内の先進地域に位置しながら、恰も後進地域に見られるような中世的土豪の勢力を持ち続け得たところに、その家構にも中世的士農未分の土豪層の家構の特性を継承してきた背景がある。(大阪府誌第6巻)

当家先祖は中世の在地の侍で、家譜や系図によると、永禄6年(1563)に15代・盛勝が亡くなった後、長男盛吉が家督を継ぐ。秀吉の根来寺攻めに際しては、天正12年(1584)根来寺の出城であった畠中城(貝塚市畠中)に籠っている。そして慶長11(1606)年に死亡している。一方、次男の左近佐(盛豊)は、大久保村古井太三郎隆家方へ養子に出て、盛勝の家督を分地され中左太夫を名乗った。これが江戸期の岸和田藩において大庄屋八人衆の中でも最高の格式を認められた熊取両人と称された大庄屋・降井家の祖である。 また三男・右京進(盛重)は根来寺の成真院に入り根来姓を名乗り院主を務めていたが、根来寺が豊臣秀吉によって滅ぼされたため、熊取谷小垣内に隠住。その後、関ケ原合戦、大坂の陣の際に徳川方に味方し、武功により3450石の直参旗本に取り立てられ、寛永18年(1641)に没している。また盛吉の嗣子・盛満は慶長19年(1614)に徳川方の要請を受け大坂勢の落人を搦め捕り、その報償として宗近の刀を下賜されている。
中世における中家は、そもそも室町・戦国期においては紀伊国根来寺の氏人であり、根来寺の子院・成真院と深い関係性を持っていたというが、その歴史は更に遡り、中家は前九年の役(1051-1062)に源頼義と共に奥州へ下向した高瀬清原武盛の跡を継いだ嫡男・盛晴が姓を「中」と改めたことに始まる。平安時代の嘉応元年(1169)に後白河法皇が熊野行幸の際に当家に立ち寄り、仮の御所である行宮としたという由緒を誇るが、その時に当主であった盛晴の嫡男・盛秀は左近将監に任じられたことから、中家は代々「左近」を名乗った。

江戸末期の古図には東西55間、南北45間の屋敷構えに座敷棟や長屋、郷蔵、七間馬屋などの建物群の他に、射場や馬場もあった。
明治初年に屋敷は縮小され、多くの建物が撤去された。


私は学生時代に近世城郭の本丸御殿跡の発掘調査のお手伝いをしたことがある。このときに遺物として大量の屋根瓦が出土したのであるが、三つ巴紋が施された軒丸瓦に対し、当時の指導員は「巴紋の丸の部分が小さく、尾の部分が細く長いものは古い瓦だよ」と教えてくれたことがある。そんなことを思い出しながら当住宅と初対面した20年程昔のことを今でもよく覚えている。屋根の妻飾りに施された三つ巴の家紋は実によく年代を顕しており、その印象は鮮烈であった。また近世初期の民家としては余りに巨大で、旧家としての威厳に満ちたその建前は、数多くの民家を見てきた私の目には全くありえない世界であった。予備知識として畿内は民家先進地域であり、近世初期の段階で既にある程度の技術的発展を遂げていたということは十分に解っていたつもりであったが、眼前に迫る当住宅の圧倒的な存在感は、まさに私にとって理想的な完成形に近い民家の姿であった。
当住宅は中世土豪の系譜を引く旧家で、藩政期には岸和田藩領の大庄屋八人衆の筆頭であった中左近家の住宅である。私は当住宅を近世民家史上、最高の建築と思っている。




(参考文献)相模書房刊林野全孝著「近畿の民家」/大阪府発行「大阪府史第6巻近世編U」/至文堂発行「日本の美術 民家と町並 近畿」/塙書房刊 萬代悠著「近世畿内の豪農経営と藩政」/大阪府発行「重要文化財中家住宅修理工事報告書」/毎日新聞社刊「新指定重要文化財12 建造物U」/大阪府教育委員会刊「大阪府の民家」大阪府文化財調査報告書
 

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