米谷家住宅
Kometani


 
国指定重要文化財 (昭和47年5月15日指定)
奈良県橿原市今井町1-10-11
建築年代/18世紀中頃(推定)
用途区分/商家(肥料商・金物商)
指定範囲/主屋・土蔵及び蔵前座敷
公開状況/公開
奈良県北部の大和盆地は国中(クンナカ)と称され、古代国家成立の地として歴史深いことは云うまでも無いが、国中地方のほぼ中央部に位置する今井町は近世集落の遺構ではあるものの江戸初期からの町家が数多く残る稀有な場所で、江戸期における民家建築の変遷を顕す、民家世界においては唯一無二といっても過言ではない歴史深い土地である。平成5年に重要伝統的建造物群保存地区に選定されたが、その随分以前から今井町内には国指定重要文化財が8件、県指定文化財が2件の町家が存在するという、まさに近世住宅建築の変遷を紐解くうえでは欠かせない存在であったことは早くから周知の事だったのである。今井町の歴史を振り返ると、天文年間頃(1532~1555)に一向宗門徒が集住し、永禄年間には大和の国全域に亘る米の売買の中心的地位にまで繁栄し、次第に町場へと変容していったものと推測される。今井町建設の立役者であった今井兵部は本願寺が織田信長と対立すると、町の周囲に濠を廻らせ、土居を築くなど防禦的な町割を造り、寺内町の様相を呈することとなるが、天正2年(1574)には信長配下の明智光秀に降伏し、赦免された。その後も農民や商工業者の流入が続き、文禄年間には今の町場に近い形となったようである。町の規模は東西4町半、南北2町20間で、四周に幅3間の環濠を廻らせ、人口は4400人、総戸数は1082戸を数えたという。

米谷家は屋号を「米忠」と称し、肥料商や金物商を営んでいたらしいが定かではない。屋敷は今井町内の中町筋に所在しており、通りに南面する主屋と、その背後に裏庭を設け、その西側の小路に沿って蔵前座敷付の土蔵が建つ。そもそも今井町は現在、東町・西町・南町・北町・今町・新町の6町から成るが、今町・新町は文禄期に拡張された町で、当初は東西南北の4町から成っていた。当住宅は、そのうち東町の東北端に所在しており、屋敷の周囲を廻る水路は、嘗て町場が分かれていた痕跡と云える。ちなみに土蔵は棟札から嘉永3年(1850)の建築と判明しており、蔵前座敷も同時期の建築と推定されている。

当住宅の主屋は広い土間や煙返し、居室天井の扱いに農家風の趣を持ち、間取りにも異例な点があって、定型化される以前の多様な今井町の町家の一面を示す遺構として重要とされている。






 

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