諏訪家住宅
Suwa



 

大庄屋諏訪家屋敷は、守山市域中央部からやや琵琶湖寄りに位置する赤野井町に所在します。この赤野井の歴史は古く、原始の時代にまで遡ることができます。一帯には条里制の地割方位とは異なる南北地割が残っていて、「日本書紀」の安閑天皇2年(535)に記載の見られる葦浦屯倉の地域であると考えられています。発掘調査では、東西南北の地割に、棟を揃えた奈良時代から平安時代にかけての倉と考えられる掘立柱建物群と墨書土器などが見つかっています。律令時代に野洲郡に置かれた郷のひとつ「明見郷」の役所に比定されています。また、赤野井は交通の要地でもありました。集落東側には、佐々木六角氏の領地支配の重要路であった佐々木街道が伸び、さらに西側の浜街道、吉身から赤野井浜を結ぶ赤野井道といった中近世古道が通過しています。とりわけ、赤野井道は、近世において中山道沿いの村々の年貢米を赤野井港まで運搬する道として、あるいは赤野井東西別院参詣路として、人やモノが行き交っていました。さらには石田川を舞台にした舟運も鉄道が敷設されるまでの間、陸路と琵琶湖の水運を結節し、赤野井を繁栄させました。現在も諏訪屋敷の近隣には、赤野井道を挟んで建ち並ぶ赤野井東別院、赤野井西別院の他、福正寺、常照寺
、専念寺など、いずれも浄土真宗の大型寺院が軒を連ねています。このような景観からも古代から近世に至るまで、近在の文化、経済的、宗教的中心地であった赤野井の往古を偲ぶことができます。【現地案内看板より】


諏訪家に残る系図によると、諏訪家は永正年間(1504-1521)に、、諏訪左近将監長治(小笠原貞朝二男弟)が信濃国より遠来したことに始まると伝えていますが、確かな来歴は判っていません。諏訪家の隆盛を窺うことができるのは、江戸時代に入ってからのこととなります。諏訪家が定着した赤野井村は、元和9年(1623)に成立して幕末まで存続した淀藩の近江国内での飛び地領でした。諏訪家は寛文9年(1669)より淀藩領の代官、大庄屋、天保2年(1831)に幕府領となってからは庄屋を務めるなど、代々農民の指導的立場にありました。明治維新後の当主は、大津県に続き滋賀県に出仕し、その後、野洲郡第1区長、初代郡長なども歴任します。次代当主も玉津村長に選任されるなど、諏訪家は近世から近代を通じて地方行政にも大きな功績を残してきました。さて諏訪家の屋敷地には、主屋屋書院、茶室、土蔵などが配置されています。各建物の建築年代は不詳ですが、文政7年(1824)の祈祷札や書院破風板の文政8年(1825)、天保9年(1838)の墨書などを参考にすると、文化年間(1804-1818)頃に主屋と書院が共に建築されたと考えられます。そして、これら建造物に付随する庭園は優れた外部空間を構成しています。諏訪家屋敷は、近世の和風建築と庭園をはじめとする外部空間を保持する大庄屋屋敷で大変貴重であることから、昭和52年(1977)に史跡として守山市の文化財に指定されました。【現地案内看板より】


天神川に架かる石橋を渡り、右側の土塀に沿って進み、表門を通り抜けると、正面の主屋、その左側の書院に至る通路が現われ、大変緊張感のある空間を醸し出しています。主屋は入母屋造、茅葺屋根の大型農家住宅で、庄屋建物にあるべき接客用の部屋はなく、その代わりに客を迎える書院を別棟で建築しています。主屋は南北棟、東向き平入の建物で、玄関を入ると「にわ」(土間)があり、土間には風呂やおクドさん(カマド)が設けられていました。畳部屋は、「だいどこ」、「かみだいどこ」、゜なんど」、「おいま」、「仏間」などの間取りとなっています。署員は入母屋造、茅葺屋根の接客用建物です。玄関には式台が備わり、それぞれ床の間を設えた玄関座敷、中座敷、奥座敷がL字に配置されています。玄関座敷右側の2畳の間は従者の控えとして使われていたと伝わっています。茶室は、明治7年(1874)に大津円満院から移築したもので、上段の間が設けられています。元禄12年(1699)の銘のある瓦が葺かれていて(現在はレプリカ)、江戸時代前期の秀逸な茶室建築と云えます。庭園は、書院奥座敷からは築山と大きな岩を配し、石と苔で谷や滝を拵えた枯山水式庭園を、また主屋北側と書院中座敷からは中央に琵琶湖を見立てたという池を配した池泉回遊式庭園の景色を楽しむことができます。池泉回遊式庭園には石の丸橋や水門が見られます。現在は川の水位が下がっていますが、嘗ては満々と水を湛え舟を曳き入れていました。【現地案内看板より】

 

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