入交家住宅
Irimajiri



 
三重県指定文化財 (平成10年3月17日指定)
三重県伊賀市植野相生町2828
建築年代/文化14年(1817)~文政2年(1819)
用途区分/武家
指定範囲/主屋・長屋門・表屋・土蔵
公開状況/公開
伊賀上野には、市の中心部に立派な城郭が残されているので、江戸期には藩政の拠点地であったかのように錯覚するが、実際は津藩藤堂家27万石の支城に過ぎず、藤堂采女家が城代として置かれた地であった。ただ、徳川家康からの信任が篤かった藩祖・高虎公が伊予国今治から国替えとなった際に、津と上野の地に城郭を築いたことからも推察されるとおり、京・大坂方面への交通の要衝地であり、小規模ながら城下町が形成された。当家は城の南東方向に位置する中級武家住宅である。三町筋と称される通りに面して長屋門と表屋を構え、その背後に寄棟茅葺屋根の主屋が建つ。


入交家3兄弟の惣右衛門、太郎右衛門、助左衛門は、慶長5年(1600)の関ケ原合戦の後、藤堂高虎に召し抱えられました。父の入交豊後守信は土佐の長曾我部元親に仕えて3000石の禄でしたが、関ケ原合戦に長曾我部氏が西軍に属したため没落し、入交家も無禄になりました。当時、高虎は南伊予の板島(現・宇和島)を本城としていて、関ケ原の戦後、伊予今治を加増され、慶長6年、7年にかけて伊予の久留島衆や名ある土佐衆を高虎家臣団に積極的に召し抱えたのでした。寛永7年(1630)、高虎死後、高次に譲られた家臣の分限帳では3家共に騎士組の藤堂式部組に名を列ね、惣右衛門は200石、太郎右衛門と助左衛門は160石と記されています。役宅について惣右衛門は「東蛇谷北ヨリ四軒目」(外堀内、現上野郵便局東北方)とあり、助左衛門は「塔世坂通り、南側西ヨリ二軒目」(現・鍵屋の辻上の踏切付近の南側)と記され、太郎右衛門は「今ニ変ラズ」(助左衛門家の一軒おいて東)と記されています。太郎右衛門家は十兵衛重克(享保18年(1733)没)の時、弟・勘平成富が一時、重克の養子となっていましたが、宝永年中(1704-8)、藩主・高睦の命により別家を立てました。これが入交勘平家です。
入交勘平家は外馬場道と東立町通りが交差する四ツ辻の東北角(現・上野忍町)に居宅を賜りました。宝暦13年(1763)頃の分限帳で入交勘平家は藤堂金七(式部)組に属し、150石と記されています。その後、入交勘平家は寛政の頃、相生町に移住し、文化文政の頃には太郎右衛門家の養子・貞治郎(後に省斎と号す)の時、任務の関係上、一時妻子が勘平家に同居することもありました。安政4年(1857)には藤堂豊前組に編入替になり、扶持高170石になるなど時々組替え、役替えがありました。入交勘平家の菩提寺は小田町平井の法運寺(日蓮宗)でしたが、勘平家は近年、法運寺の本寺の寺町、上行寺に移っています。【現地案内看板より】

藤堂高虎は、筒井時代の小田から上野台地へ城下町を移転させ、外堀内に上級武士、外堀の南に商人や職人、その南へ中級武士、更に南へ下級武士を住まわせました。入交家のある三之町筋が商人と武家の境界に当たり、相生町には町家と武家屋敷がありました。武家屋敷は役替や扶持高の変更等によって、住む武士が変わりました。現在、入交家住宅と呼ばれている屋敷は、寛政の頃、入交勘平が屋敷替えによって拝領した屋敷で、その後改築が行われたことが判っています。
絵図によれば、その敷地には主屋・長屋門・表屋・土蔵、味噌部屋(現存せず)、米蔵(現存せず)などの建物があり、主屋の南側と東側には庭園や畑がありました。入交家住宅の入口に当たる長屋門は武家屋敷の特徴のひとつです。文政3年(1820)の絵図には4つの部屋は全て竹天井となっています。そこには使用人の住居(男部屋と記載)として使われていた部屋もあります。主屋には、正面に式台玄関があり、上役の来訪の時はここで迎え、玄関から8畳の座敷へ案内し、従者は次之間に控えました。式台の左手にある内玄関は家族などが私用に使う出入口として使われていました。ここには客人のための上便所がありました。座敷には床があり、掛け軸が掛けられ、その横の丸い窓から景色を眺めたことでしょう。丸い窓のあるところを絵図には鋪込と記されているので畳を敷いた床であったようです。主屋の南側にある居間・奥之間・上台所・土間などは私用の居住空間ということができます。また、主屋の南東部分には8畳、4畳、湯殿(風呂場)、雪隠(便所)のある筒家があり、4畳の間は化粧部屋と呼ばれ、母親の身支度用の部屋として使われていました。絵図にはそれぞれの部屋は板床と記されているので、畳は敷かれていませんでした。現在、入交家住宅は、江戸時代末期の武家屋敷を構成した長屋門、主屋、土蔵、表屋などの建物群がほぼ一括して残っていて、貴重といえます。【現地解説文より】

主屋
桁行17.7m(58.4尺)、梁間8.8m(29.15尺)入母屋造、茅葺
棟を棟竹と割竹で押さえています。
茅葺の主体部に桟瓦葺の突出部(古文書には筒家と書かれています)を南側に設け、東側に桟瓦葺の下屋庇のつく井戸や物置などがあります。文政3年(1820)銘の絵図には寛政9年(1797)頃と文政3年の屋敷地の様子が同時に表現されていて、寛政9年以降に上便所の位置が変わったこと突出部が大きくなったこと、東側の井戸や物置などの増築が行われたことが判ります。その理由は「主屋は狭くかつ大破し改修困難なため新築した」と文政2年の古文書に記されています。この絵図は、屋敷の様子を奉行所に報告したものの控で、屋敷の現状報告のみでなく、屋敷を拝領してからの改造履歴の報告も求められたようで、入交家住宅の主屋は寛政9年には、既に存在していたことも判ります。建物調査の結果、突出部には寛政9年頃の規模を示す痕跡がいくつも見られ、主体部と突出部の床下や東側の下屋庇には多数の転用材が用いられていました。一度加工された部材も再利用するという物をたいへん大事にしていた社会であったことが判ります。古文書に書かれた「新築」は現在なら改修工事と呼ぶことが多いようです。今回の修理では、現状の姿に整った文政期を基本として、主体部の土間の戸棚、小上がりを復元し、物置に収納されていた竈を修理して設置しました。また座敷北側の上便所、突出部の風呂場を復元整備しました。【現地解説文より】

長屋門
桁行12.7m(42.0尺)、梁間2.7m(8.9尺)、入母屋造、桟瓦葺。
祈祷札が当初の小屋束に取り付けられていて、接地面が風蝕していないので嘉永4年(1851)に建築されたことが判ります。文政3年(1820)の絵図には現在よりも2間大きな長屋門で、間取りの構成も全く違う姿で描かれ、藁屋根から瓦屋根に建て替えられたことが記されています。建物調査の結果、現在の長屋門は、絵図に描かれた建物の材料を一部転用しながら、上部構造材は一新したことが判りました。嘉永4年頃に、建て替えに至る重大な出来事があったものと推定されます。【現地解説文より】

表屋
桁行6m(19.8尺)、梁間6.6m(21.65尺)、切妻造、桟瓦葺。
通りに面して大戸を構える商家建築です。町人に貸すことで収入を得ていたものと推定されています。座敷東側の棚に丸型の炉が設けられていました。安政5年(1858)の祈祷札が棟木に取り付けられていました。安政5年(1858)の祈祷札が棟木に取り付けられていました。現状の礎石の下から旧の礎石が発見され、以前から同じ規模の前身建物があったことが判りました。文政3年(1820)の絵図に描かれていないので、その後建立されたのでしょう。親戚の妻子が一時同居したとされているので、元は客人用の離れ家であった可能性があります。建物の痕跡調査によって主屋と長屋門を繋ぐ木塀があり、表屋の独立した空間が維持されていたことが判っています。【現地解説文より】

一覧のページに戻る