遠山家住宅
Tooyama



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国指定重要文化財(昭和46年12月28日指定)
岐阜県大野郡白川村御母衣125
建築年代/嘉永3年(1850) 【従来は文政10年(1827)と云われていた】
用途区分/名主(焔硝上煮役・養蚕農家)
指定範囲/主屋
公開状況/公開
岐阜県西北部、白山と飛騨山地を両翼の山塊として区分する庄川本流の最上流域は、薬研の様に急峻な谷間の地であったため外界との往来は至極不便で、嘗ては豊富な水資源に恵まれながらも拡張の余地の乏しい僅かな耕作地に全てを頼るしかない土地柄であった。然るに隣村に出ることも儘ならなかった人々は、それ故に米作に頼らない生活を模索する。稗や粟を喰らいながらも生糸や焔硝の生産に活路を見出し、大家族制という独特の習俗を生み出しながら生活レベルの向上に腐心する。古くは「白川郷」と称されたその地は、国内では珍しく多層階の大規模な切妻造民家が発達した地域で、世に云う「飛騨の合掌造集落」が点在する特異な土地として今は知られる。白川郷は、戦後に「発見」されたかのような扱いを受け、そこに住まう人々に原日本人の姿を見出すことを求める迷惑な旅人たちが挙って訪れる観光地へと変貌していく。そして更には「落人でも無ければ、こんな辺鄙な場所に人が住み着くわけはない」という半端な推量が世間に蔓延した結果、果ては「平家の落人集落」に勝手に祭り上げられる珍事さえ発生する。しかし、こうした喧伝が日本人の旅行好きの先駆けとなる「秘境ブーム」をもたらしたのだから、何が奏功するか世の中判らない。様々な情報が溢れ返る現代においてさえも、何も良く判らないまま世界遺産というブランドに引き寄せられ、古き良き日本をそこに感じたつもりになる者が未だ多い現実は、時を経ても変わらぬ衆愚の悲しさである。
一方、終戦後暫くの頃より高度成長期を迎えるにあたって深刻な電力不足に直面していた当時の日本産業界において、その地形的条件から白川郷は電源開発の好適地として一躍脚光を浴びることになる。それ以前から庄川流域には水力発電用に幾つかの中小規模のダムが築かれてはいたものの、昭和29年(1954)には荘川村と白川村にまたがる一帯に3億7000万立米の貯水容量を誇る日本屈指の大規模ダムとなる御母衣ダム建設が計画決定される。開発にあたってダム湖に沈む約300世帯に及ぶ住民が立ち退きを迫られたため、当然の事ながら猛烈なダム建設反対運動が湧き起こったが、最終的には生活近代化の波が徐々にこの寒村僻地に迫るに至って人口の流出を押し止める術が無いことを悟ったのであろうか、住民は集団離村を決意する。合掌造り民家は各地に移築売却され、遂には東洋一(完成当時)のロックフィルダムとして昭和36年(1961)に御母衣ダムは竣工の時を迎える。今では県中部の中核都市・郡上八幡から快走路となった国道156号線を延々と北上し続け、旧荘川村の中心集落を越えた辺りから右手に約9km程の間に亘ってダム湖である御母衣湖が眺められる。完成から60年以上が経過した現在でも日本屈指の水力発電専用の巨大ダムとして威容を誇り、その姿には圧倒される。しかしその陰には日本の高度経済成長の踏み石として独特の生活文化を営んできた多くの合掌集落が湖底に沈んだ歴史的事実を忘れてはならない。
さて当住宅は御母衣ダムの主体部となる堰堤を過ぎた辺りを域内とする御母衣集落に所在する合掌造建築である。ダム建設の紆余曲折が昔話となった時代に生を受けた者にとっては、ダムの名称が御母衣なので御母衣集落はダム工事にあたって移転代替地として営まれた集落で、当住宅も水没集落から移築されたものと勝手に思い込んでいたが、それはどうやら全くの勘違いで、住宅は江戸期より此の地に建ち、奇跡的にダム建設による水没を免れた存在であった。堰堤を過ぎて少しばかり北へ歩を進め、道路が緩やかに左へカーブするその先に周囲の緑とは異なる風情の、こんもりと栗や欅林に覆われた小高い丘が現れる。この丘上には当家の屋敷祠である白山宮が祀られており、侵し難い雰囲気が漂う風情に合点がいく。そして、その道路を挟んだ向いの緩やかな傾斜地に当住宅は所在する。現在の当住宅は道路の西側にのみ主屋や唐臼場や機械小屋などの建物が散在しているが、過去の記録によれば、嘗ては道路を挟んだ東側も当家の敷地内で庄川の河原近くにまで鍛冶小屋や稲架小屋、舟小屋などの小建築が点在していたようである。また新白川村史に付編として所収されている藤間生太氏が昭和17年に飛騨考古土俗学会刊「ひだびと」に投稿した紀行文には、「道より一段と低い河成田が広く遠山家の前に展開している」と庄川対岸から当家を臨み見た風景が記述されている。どうやら御母衣ダム建設によって集落内に多くの労働者が一時的にせよ流入し、周囲に彼らの住まいや飯場が建てられたことを契機に景観は一変した様である。また昭和43年(1968)に至って当住宅は白川村に譲渡され、民俗資料館として利用されるようになった。住まう人の無い家となってしまったうえは尚更の話である。
道路に東面して建つ主屋は当然ながらに一重四層の切妻屋根の合掌造である。南妻側に下屋を張り出して便所と納屋を設け、背面側の下手にも同様に勝手場を増築しているが、下屋を除く母屋は桁行11間、梁間6間半の大規模な建前でる。白川郷に残る合掌造民家の中でも萩町の和田家住宅(国重文)に次いで最大級を誇る。私達は平素から観光パンフレット等の写真で代表的な合掌造民家ばかりを見る機会が多いため、合掌造=巨大というイメージが定着しているが、実際は少し様子が異なる。嘗て白川村の合掌造民家の規模分布について総合調査がなされた際の記録によれば、主屋の規模は概ね桁行6間、梁間5間程度が大半を占めており、当家や和田家の住宅は最上層の特別な建物だったことが判る。更に当住宅の場合、今は除却されたが、嘗ては主屋北側の上手に昭和初期建築の洋館が付設され郵便中継所が営まれていたり、主屋以外にも「コヤ」と称される多くの附属屋が敷地内に林立していたことが記録されている。特に当家に最も多くの家族員が住まいした明治30年頃には主屋以外に計12棟もの「コヤ」が点在していたとの話が家人から聞き書きされており、主屋の巨大さも然ることながら、屋敷は多くの建築群から構成されていたという事実が明らかとなっている。尤も、狭隘な土地柄であるにも関わらず主屋以外に複数の小建築群が建てられる傾向は白川郷内では一般的なことで、数の多寡に差はあれど、この点についても白川郷独特の習俗と指摘されている。然るに白川郷の合掌造民家は日本民家史上、最も奇異なる姿の建築として注目を集めた為に、そこに住まう人々は特異な習俗を持ち、それが建築に対して強く影響を及ぼしたのではないかと考えられた。その土地の気候風土や産業が民家の建前に影響を及ぼすことは広く知られるところで、例えば、寒冷地では屋根材には凍結に弱く割れ易い瓦は使用しない、風の強い地域では家が横揺れするため壁を土壁とせず板壁とする、といった類のことである。また産業として養蚕が盛んな地域では、小屋裏が積極的に利用され、屋内の暖気を確保するために囲炉裏を各所に設けたり、空気を循環させるため天井を簀子張りにする傾向がある。白川郷の合掌造民家も同様に、養蚕を生業としていたため小屋裏は複層化し、換気のために妻破風には障子窓が開かれ、窓面積を最大化させるため切妻屋根が採用されたことなどの事象が見られる。ただ冷静に考えると養蚕などは全国の寒冷地で当たり前に行われた産業であり、珍しいことでも何でもない。当たり前を大きく踏み外す合掌造という特異な建前を産み出すためには、単にそれだけの理由には止まらない、もっと普遍性に乏しい、そこにしか見出せない独特の習俗の影響があったに違いない、と多くの人が考えたのも無理からぬことだったと思う。そして運の悪いことに、白川郷にはたまたま都市生活者の視点からは常識外とも思われる「大家族制」という珍しい風習が独自の形を取りながら残されていたため、話はややこしくなっていく。人間には「こうなって欲しい」、「そうあるべきだ」という欲望的結論が先行し、主観はもちろんのこと、客観的事実さえもそこに帰結させようとする向きがある。合掌造民家と大家族制という全国的にも類を見ない2つの独特な習俗は、当然の様に両者を結び付けて考えるべきだという力学が働いてしまうこととなる。しかし結論から云えば、大家族制が主屋の巨大化をもたらしたと断言する根拠は甚だ希薄で、少々早計であった。習俗が建物に与える変化は、そこに住まう人々による裁量の余地があって初めて可能となる。その意味において合掌造民家は、住民間の互助により組み立てられる小屋組を含む屋根部を除いて平面を構成する軸部においては、専門の大工によって建てられた非常に完成度の高い建築であったため、自らの裁量で屋根形状に変化をもたらすことまでは可能であったが、間取りを見直すなど軸部分に大きな変化をもたらすことは甚だ難しかったのだろうと思われる。屋根の変化については専ら養蚕のための世界であり、そこに大家族制が与えた影響は微塵も感じられない、それが私の見解である。それでは逆に大家族制という独自の習俗は、建築に対して何ら影響を及ぼすことはなかったのか、と問われれば決してそうではないとも思う。むしろ「コヤ」と称された多数の附属屋の存在にこそ、両者を繋ぐ鍵があったのではないかと考えている。このことについて考察するには白川郷の生活の根幹を成す「大家族制」とは一体どのようなものであったのか、多少の知識が必要になるだろう。話は脱線気味ではあるが、合掌造民家の成り立ちを考えるうえで必ず取り上げられる習俗であることは確かなので、簡単にではあるが説明を試みたい。
民俗学に云うところの大家族制という形態は、その言葉遣いが適当か否かは様々に見解があるようだが、恐らく一般の方が大家族という字面からイメージする姿、すなわち多産によってもたらされた血縁関係にある大人数の家族員が一つ屋根の下で生活する様子、とは少し内容を異にする。私が小学生だった頃(昭和50年前後)には、大家族制について家長である長男以外は結婚も出来ず、次男、三男は労働力として一生酷使され、外に出ていくことも儘ならず、ただそこで死んでいくのだと教えられた記憶がある。ここで語られた大家族は直系親族に加えて家長の兄弟が加わった血縁関係よる結合体である。そして巨大な合掌造民家は大人数の家族が生活するため広い空間を確保するために進化した形態だとも聞いた。実際、遠山家では明治30年代後半には40人に近く、大正9年の国勢調査でも31人の家族員が確認されている。しかし長男夫婦がいくら多産であったとしても、それほどまでに直系親族が増えることは有り得ない話である。また家長の兄弟が別家を構えることが許されず、全て内に抱え込まれたとしても、その数には到底及ばないはずである。子供の頃は素直に聞いていたが、当時の学校教育はとんでもない嘘八百を堂々と教えてくれていたものである。それでは白川郷における大家族制とは、どのようなものであったのか。多くの学者が当家を訪れ、戸籍調査等を行い、様々な視点からの論文を発表しているが、その特徴として概ね以下の4つの事項が挙げられる。 ①戸主の兄弟、伯父、伯母、従兄弟など傍系親が多く同居している。これは白川郷において戸主以外は、夫が妻の家に訪れるだけで同居しない婚姻形態である「妻問い婚」が採られていたための結果とみられる。生糸を生業とする当地域において、困窮すると間引かれることもあった娘さえも貴重な労働力であったことと関係している。つまり当家で生れた人間は、男であろうと女であろうが他家には出ないのである。 ②家族には血縁関係にない者も含まれていた。すなわち将来の労働力を期待して「奉公人・使用人」を養子とすることも珍しくなかったようである。また、乞食の子供を養い子として育てた例さえもある。日本が貧しかった時代には、こういう事は珍しいことでは無かった。捨てる神あれば拾う神もあったのである。 ③妻問い婚で夫婦になった者たちには同居を前提とせず、夫が通ってくる際には別棟の「コヤ」で起居させるなど、柔軟な家族の有り方が許されていた。「コヤ」には囲炉裏や寝床を備えた例も確認されており、山中で焼畑農耕が行われていたことから屋敷周辺のコヤとは別に山小屋もあったらしい。奴隷のように扱われているとされた次男、三男とて、ちゃんと相手を見つけ、夫婦の営みを楽しむことができたのである。 ④大家族制は白川郷全体に及ぶ話ではなく、御母衣や福島、牧、平瀬といった特定の集落にのみ顕れた現象であった。また大家族制のピークは明治30年代に入ってからのことで、江戸期には殆ど確認されていない。決して長く歴史のある事ではなかったようである。
さて白川郷における大家族制について最低限の知識を得たという前提で、合掌造民家との関連性を当住宅を例に取って改めて考えたい。まず、その建物の巨大さとの関連性についてであるが、一言でいえば、「無い」ことは明らかである。確かに当住宅は広く、高く、巨大である。しかし平面においては仏間や客座敷といった日常的に使用しない空間と家長夫婦専用の寝室を除くと、その他の家族が起居する空間は3間四方(約18畳)の「チョウダ」と「デイ」の2部屋のみに過ぎない。家族が子供ばかりであるならばいざ知らず、これに大人が加わると、とんでもない混雑振りである。まるで盆休時の富士山の山小屋のような芋の子を洗うような有様である。また当住宅は一重四層建てであるが、1階の平面以外は全て養蚕のための空間である。嘗て次男、三男は上階に住まいしたと教わったが、煙で燻される上階になど到底人が住むことなど出来はしない。屋根を含めた小屋裏の巨大化は養蚕以外の何物にも影響を受けた訳ではない。即ち、合掌造民家の屋根部を除く平面・軸部は、あくまで格式の演出と養蚕のため、あるいは焔硝製造のために巨大化したのであって、大家族を養うことを想定して建てられたものではないのである。またこのことは住宅の建築年代からも明らかである。当住宅の建築時期は嘉永3年(1850)とされている。仏間や客座敷、家長専用の寝室の上手3室は嘉永7年(1854)の増築である。江戸期の宗門人別改帳の記述から、この時期には未だ大家族制は成立していなかったと推測され、主屋の建築は何ら大家族を意識したものでは無かったことを教えてくれる。では逆に大家族制は彼らの住まい方に何ら影響を及ぼすことは無かったのか。私は屋敷内に散在する「コヤ」と呼ばれる小建築群の存在にまずは直接的な影響をもたらし、それが副次的に主屋の建築様式に波及した点があったのではないかと考えている。先述のとおりコヤは屋敷の周囲に限らず、山中にも存在した。囲炉裏や寝床を備え、起居できる生活の場として用いられるようになっていたが、本来は、鍛冶場であったり、機場、脱穀場、桑葉の乾燥場といった役割が各々に宛がわれていた。こうした作業は地域としての産業が相応の規模に発展しなかった場合、生産と生活は未分化のまま全て主屋内で行われた例が多かった。しかし白川郷の場合は、生業として米作に多くを頼れないが故に、養蚕や焔硝、焼畑などの他の産業が極度に発達し、その労働力確保の手段として家族制を維持するために「コヤ」を積極的に建て増し、生産に関わる作業を主屋外に押し出す形で機能分化が進んだのではなかろうか。そして、その反動として主屋は生活の場に特化していく傾向がより強くなったのではないかと思われる。この辺りは「鶏が先か、卵が先か」の話で、生産の拡大が「コヤ」の積極的な活用に繋がったのか、あるいは大家族制を維持するために「コヤ」の建て増しが進んだのか、どちらが後先かは判らない。ただ、いずれにせよ主屋が生活の場としての機能を高めていく方向性に振れたことは確かであり、その証左として主屋内には作業空間としての土間が設けられていなかったり、夜の帳が早い山村住居でありながら夜鍋には不向きな畳敷の部屋が占める割合が高いことなどが挙げられる。近年、合掌造民家において大屋根の茅葺き替えが「結」と称される住民総出による手伝普請によって執り行われる慣習が、互助の精神が失われつつある現代の世相を省みる形で注目されている。時々に事情に疎い人が中には居て、まるで家の建築も全て「結」で行われたように勘違いする節もあるようだが、屋根部分に該当する小屋は「結」により組み上げられるが、人々が生活する軸部は専門の大工によって建てられたものである。当住宅の場合も能登大工の手によるものと云い伝えられおり、実際、その大工技術の高さには、山村農家という偏見を取り除いたうえでも、目を瞠るものがある。雑魚寝を良しとするような雑な住まい方ではもったいない上質な造作なのでである。良い建物であればあるほど、大事に使いたいと考えるのが人情である。つまり大家族制が住まいにもたらした影響は、屋敷内の各々の建物の用途を細分化・分業化を加速させ、引いては主屋の住まいとしての完成度を高めることで、純然たる住まいとしての機能を際立たせることを可能ならしめたことにあったのではないかと私は考えている。
嘗て明治期の旅人・研究者は、白川郷に足を踏み入れるに当たって遠山家を最初の家とすることが多かった。それは当家が大合掌造民家の威容を誇っていたばかりでなく、村内屈指の大家族制を維持していたからに他ならない。また当家に住まいする人々の寛容性に拠るところも大であったに違いない。家は、そこに住まいする人々があってこそ活きるものである。民家が建築学上の対象に止まらず、民俗学的な対象としても俎上に載せられたとき、人々の興味は一層搔き立てられたに相違ない。しかし大家族制が失われて久しい時代を生きる我々には、本からの情報に頼るしか嘗てを知る術はない。当住宅を訪れた際は、せめて大勢の家族が行き来した往時の姿を瞼の裏に思い描きながら、炉端に座って民家が囁く声を静かに聴いてもらいたいものである。(2023.8.27記)

【参考文献】白川村刊「新編白川村史」・毎日新聞社刊「解説版新指定重要文化財12 建造物編2」・INAX出版/日塔和彦著「北陸の住まい」・平成28年9月1日白川村作成「重要文化財遠山家住宅保存活用計画」・智書房/宮澤智士著「白川郷合掌造Q&A」・美術出版社/伊藤ていじ著「民家は生きてきた」・民俗建築会発行/民俗建築13・14合併号水田健之輔著「飛騨庄川渓谷の民家」

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