高木家住宅 Takagi ![]() |
岐阜県指定史跡 (平成8年7月9日指定) 岐阜県大垣市上石津町大字宮 建築年代/明治29年(1896)・但し表門は嘉永5年(1852) 用途区分/武家(交代寄合旗本2300石) 指定範囲/ 公開状況/非公開 高木家の歴史 高木家は、清和源氏・源頼親を祖とし、大和の高木村に住んで地名を氏とした。その後、伊勢国に移り、室町時代の中頃には美濃国石津郡駒野に転住し、斎藤道三や織田信長に従って駒野、今尾を与えられ、この地方を根拠とした。信長亡き後は織田信雄に従い、豊臣秀吉により信雄が秋田に遠流されると、当主であった高木貞利は一族と共に甲州の加藤光泰の許へ寓居した。文禄4年、貞利は徳川家康に召され、上総国で1000石を与えられ、慶長5年(1600)、関ケ原の軍功により時・多良郷の内、貞利(西家)2300石、貞友(東家)1000石、貞俊(北家)1000石を拝領、翌6年(1601)に入部した。この3家は交代寄合美濃衆と称し、大名格で寓せられ、参勤交代を行い江戸期を通じ在地して所領や周辺の治安維持に当たり明治に至った。また、寛永元年(1624)以来、国役普請奉行を勤め、この後、水行奉行に任ぜられ、美濃・伊勢・尾州の川通りを年々巡見し、水利治水事業に当たっていた。 西高木家の遺構 屋敷地は高台にあり、見上げるように石垣が築かれ、屋敷背後を取り巻くように中谷川、加竜谷川が流れ、まさに天然の要塞を作っている。土地の面積は17384.23㎡である。 埋門 文化12年(1815)に完成、現在は石積みのみが残る。 表門 嘉永5年(1852)11月建設 主屋 明治29年(1896)11月建設 井戸 3基(井戸館なし) 墓石群 関ケ原合戦後、入郷以来の歴代領主とその一族、約40基がある。 【現地案内看板より一部改編】 寛永年中(1624-1644)は美濃国堤川除国役普請奉行を勤め、後には伊勢や尾張の国役普請奉行も併せて流域の治水統制を担当した。宝永2年(1752)からは川通巡見役を命じられ、高木三家が1年交代で任に当たった。また薩摩藩が普請を命じられた宝暦治水の監督にも当たっている。西高木家の遺構は高台にあり、自然の要害を成している。現在に残る石垣を始めとした遺構や一部建造物、総数数十万点に及ぶ「高木家文書」の存在など、江戸時代旗本陣屋の様子を窺ううえで貴重な遺跡である。文政10年(1827)の棟札を持つ土蔵に加え、平成20年度に大垣市教育委員会が実施した現存建物調査により、主屋は天保3年(1852)に建造された上屋敷奥棟の「中奥」を中心に再編されたものであること、表門は嘉永5年(1852)に建造された下屋敷御門であることなどが判明した。また「高木家文書」には、各時期の屋敷の様子を示す絵図が残されており、それらによって陣屋の変遷が明らかにされつつある。 高木家は明治2年(1869)に第10代・貞廣が所領を返上、翌年に11代・貞正が家督を相続し、明治12年に多芸、上石津郡長、明治27年(1894)には衆議院議員に当選、後に多良村村長となり地元に住まいし続けた。その過程で屋敷は規模の縮小を余儀なくされ明治5-6年(1872-73)には台所棟・奥御殿・御物置・御長屋等や御殿のうち不要部分を取り払っており、最終的に天保年間創建の奥棟を主屋として転用、更に明治29年(1907)に奥棟の中奥部分を残して縮小し、現在に残る主屋としいる。また表門は嘉永5年建築の下屋敷御門を曳家して現在地に移したもので、長屋門形式の武家門に相応しい。 【参考文献】平成21年発行 大垣市教育委員会刊「岐阜県史跡 旗本西高木家陣屋跡 主屋等建造物調査報告書」 |