松本家住宅 Matsumoto ![]() |
掛川市指定文化財 (平成19年1月30日指定/平成20年5月29日追加指定) 静岡県掛川市掛川1200-1 建築年代/明治36年(1903) 用途区分/葛布問屋 指定範囲/主屋・離れ・北土蔵・西土蔵・米倉・番屋 公開状況/公開(竹の丸) 掛川城下の中町で、松屋の屋号で代々葛布問屋を営んでいた松本家が、明治36年(1903)に竹の丸に建てた本宅である。松本家は、寛政元年(1789)から掛川藩に金子を用立てている記録があり、19世紀に入ると、藩から御用達を命じられ、裃・小袖を拝領、苗字帯刀を許された家柄である。葛布は掛川宿の葛布問屋によって江戸等へ出荷されていたが、幕末になると旧来からの流通機構が乱れ始めたため、掛川藩は安政5年(1858)に葛布取扱問屋を指定して、指定問屋以外の商人が他領へ葛布を販売することを禁止した。この時の取扱問屋のひとりに松屋市右衛門の名が見え、その後の明治2年(1869)、明治5年の問屋のひとりに松本家は名を連ねている。明治になっても松本家は掛川地域の財界を代表する有力者として活躍、しかしいつ頃まで葛布問屋を続けたのかは明らかではない。昭和11年(1936)に松本家が東京へ転居するにあたり、竹の丸の邸宅は当時の掛川町に寄贈され、以来、市職員の厚生施設として利用された。 住宅が建てられた竹の丸は、掛川城の曲輪の一部で、戦国期に築城された掛川城が、天正18年(1590)に豊臣秀吉により城主に任命された山内一豊が拡張したものと考えられている。竹の丸の呼称は18世紀初頭に描かれた「遠州懸河城郭図」に「竹ノ丸」という表記がなされており、当時から呼ばれていたと想像される。城の北門の守りを固める位置にあり、本丸へ通じる道筋にあたる防衛上の要衝であることから家老等の重臣屋敷地として利用された一画である。 |