江川家住宅
Egawa



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国指定重要文化財 (昭和33年5月14日指定)
静岡県伊豆の国市韮山町韮山1
建築年代/江戸初期
用途区分/幕府代官
指定範囲/主屋・書院・仏間・東蔵・肥料蔵・武器庫・表門
公開状況/公開

江川家は清和源氏の流れを汲み、源満仲の次男・宇野頼親を家祖とし、宇野姓を名乗っていた。6代・親治が1156年の保元の乱を避けて、その孫・親信が従者13人と伊豆の韮山に定住したと伝えられる。この13人の子孫は、現在でも江川家住宅周辺の金谷地区に居住している。親信の子・治信は、この地に流罪となっていた源頼朝の平家に対する1180年の挙兵に応じて参戦し、江川庄を賜ったと云われる。その後、鎌倉時代、室町時代と伊豆の豪族としての地盤を固め、15世紀中頃に狩野川の支流の名に因んで姓を江川と改めた。
北条早雲の1493年の伊豆進出にあたっては、23代・英住が土地を提供して韮山城を築城させ、その後5代に亘って北条氏の家臣となった。28代・英長は徳川家康に仕え、徳川幕府が成立し伊豆が幕府の直轄地になるに及んで、代官として此の地を統治することになった。以後明治維新に至るまで、江戸時代のほぼ全期間を通じて代々徳川幕府の代官として世襲して務めた。当主は通称として太郎左衛門を名乗った。特に幕末の江川太郎左衛門英龍は文化人、革新的技術者として有名である。

主屋は高さ12m余の大屋根を支える豪壮な架構で有名であり、162㎡の広さを持つ土間からその構造を見ることができる。16代・英親は流罪によって伊東に居住しておられた日蓮上人を1261年に数日間この家にお迎えし、供養を尽くした。この時、家屋の修築を行っており、聖人から「この旧家がなお繁栄するように」と自筆の棟札を贈られた。その御利益によってこの家は700年以上に亘って無事に保たれてきたと伝えられる。
主屋には、その後室町時代に建てられた部分と江戸時代初期(1600年前後)に修築された部分とが含まれている。代官所時代には主屋北側の現在の梅林の辺りに役所の建物があったが、主屋その他は江川氏の個人的生活の場として用いられ、また特に幕末の江川英龍の時代の塾の間では、明治時代に活躍した多くの俊英が教育を受けた。

主屋の原型となる建物は、関ケ原の合戦が行われた慶長5年(1600)前後に建てられたと推定されている。部材の中には室町時代まで遡るものもあり、江川氏が古くからこの地に住んできたことを窺わせる。主屋は、江戸時代を通じて何度か大規模な改造・修築が行われ、現在見られる形になったと考えられる。しかし、その基本的な構造は変わっておらず、江戸時代に広大な幕府直轄地を支配した代官の屋敷として、更に古くから伊豆韮山に地盤を築いた江川氏の居館としての様相を与ぐ残している。




 

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