山岸家住宅
Yamagishi



 
国指定重要文化財 (令和2年12月23日指定)
白山市指定文化財 (令和元年12月2日指定)
石川県白山市白峰イ72-1
建築年代/天保11年(1840)建築・明治26年(1893)移築
用途区分/大庄屋・酒造業・金融業等
指定範囲/主屋・板蔵・味噌蔵・浜蔵・土地
公開状況/非公開
富士山、立山と共に日本三霊山の一つに挙げられる白山。冬の北陸路を旅した経験をお持ちの方ならば、車窓から望む嫋やかな峰々が純白の積雪を冠する美しさに見惚れたこともあるのではないだろうか。和合の神として崇められる白山比咩大神の御座であり、裾野の里に水の恵みをもたらす象徴として古来より加賀、越前、美濃の各方面から延びる禅定道を辿って修験の信者たちが訪れたという名峰である。但し、白山は単なる信仰の対象としての存在に止まらず、民俗学の分野では「出作り」という特殊な農耕生活が営まれた地域として夙に知られている。意外なことに日本最深積雪地帯として名を馳せる白山の山中には白峰や桑島といった集落が江戸時代以前から存在していたらしく、例えば江戸後期の天保年間には白山麓の中心地である白峰集落には約450軒もの住居があったと記録されている。平地が殆ど無く、水田耕作には全く不向きな土地柄であるにも関わらず、どのようにしてこれほど多くの人々がこの過酷な土地に住み続けることができたのか不思議でならない。教科書から学ぶステレオタイプな農業しか知らない現代人にとっては想像もつかない話であるが、その鍵は彼らが実際に生活の糧を得た場所として、人の住まない広大な山林原野に求めたことにあった。「出作り」とは集落を離れて山中に一軒家を構え、農耕・狩猟・採集等を営むことによって暮らしを維持する生活形態を示すものである。例えば、白峰の人々は出身集落である母村を地下と云い、そこを生活物資の購買拠点としつつも、自らの耕作や資源の採集等は専ら周辺の山中に求めたのである。ただ、それも日帰りで山中と地下を往復する場合もあったが、大半は春から秋にかけての季節を山中で過ごす「季節出作り」、1年中を山中で過ごす「永久出作り」という形態を採っていた。昭和初期の調査では、実に白峰村の全戸数480戸のうち、380戸が出作りをしていたらしい。




江戸時代の白山登山紀行文の中で牛首(白峰)について、文化13年(1816)に記された「白山紀行」では「大なる家多し」、同年の「白山全上記」では「各家綺麗なり」、天保4年(1833)の「続白山紀行」では「家数450軒斗家並各綺麗也」と記し、牛首の家並景観について「450戸の家族が生活できるのは、大道谷の堂の森で見た出作りのように、夏は山で畑作、冬は出稼ぎ・物乞いをするせいであろう。住居建物は生活が貧しい割に山中稀な大型で綺麗で三階建てもある」と記す。


山岸家は白峰(天領期には牛首と称した)の旧家で、白山麓18ヶ村が天領であったとき、代々取次元を務めてきた。天領には陣屋が置かれ、代官が配置された。陣屋は越前本保(現・福井県越前市・武生)に置かれ、越前国187ヶ村と白山麓18ヶ村を支配した。代官は、百姓から割元と称する下役を登用、これは代々河野輔八を名乗る者が世襲した。更に割元の下に百姓身分の大庄屋を取次元として、日常細部を仕切らせていた。延宝期以降の白山麓18ヶ村の取次元は、白峰の山岸家、織田利右衛門家、桑島の八左衛門家が務めていたが、寛保期以降は山岸家の世襲となった。取次元は、文字通り役所・幕府との取次交渉であり、また現場実務役として各村の庄屋、長百姓をまとめながら村々の自治・年貢・治安等の全般にわたって取り仕切っていた。






 

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