上時国家住宅 Kamitokikuni ![]() その他の写真 |
| 国指定重要文化財 (平成15年12月25日指定) 国指定名勝 (庭園部・平成13年1月29日指定) 石川県輪島市町野町南時国13-4 建築年代/安政4年(1857) 用途区分/天領大庄屋 指定範囲/主屋・米蔵・納屋 公開状況/非公開 国内に数ある民家建築の中で時国家住宅ほど早くから人々に知られ、魅了してきた存在はないだろう。昭和27年9月に発刊された「民俗建築第8号」に掲載された「能登の民家」(石原憲治博士寄稿)の文中には、昭和24年(1949)の時点で既に一般の人々が当住宅を見学に訪れていた旨の記載がある。民家建築に文化財という概念さえ無かった時代であるにも関わらず、恐らく平家の末裔を称する豪農家が都から遠く離れた奥能登という雛なる土地で連綿と歴史を紡いできたという事実に、多くの人々が伝奇的な興味を掻き立てられたが故に相違ない。 さて上時国家住宅は能登半島の先端近く、朝市で有名な輪島市北東の曽々木海岸に流れ込む町野川を河口から約1km程遡った辺り、右岸の高台に建つ旧幕府領の大庄屋屋敷である。町野川流域は奥能登地方には珍しくまとまった田圃が拡がる土地柄で、町野川に沿って上流側から上町野・中町野・下町野の各地域に区分される。当住宅の所在する旧時国村は下町野地域に該当し、当家は室町期には既に30町歩(約300石余)の広大な田圃を下町野地区に所有していたようである。中世末から農業や製塩業、海運業により財を成したという当家は江戸初期の寛永年間に二家に分立し、約300m程を隔てた位置に各々が屋敷を構えた。いつの頃からか町野川の上流側に在った惣領家である当家を上時国、下流側の隠居家は下時国と称されたが、両家には現在に至るまで近世建築の主屋が残り、当家住宅は平成15年12月25日付で、当家よりも更に建築年代が遡る下時国家住宅は昭和38年7月1日付で国の重要文化財に指定されている。共にその建築は我が国を代表する豪農家の大規模な建前であるというだけでなく、上時国家の建築は江戸末期の安政4年(1857)、下時国家は江戸初期〜中期頃と推定されており、大きく建築年代の異なる近世民家が近在に並立する状況は、住宅建築の発展の過程を知る上で貴重な事例にもなっているのである。 ところで、前述のとおり伝奇的な由緒も相俟って両時国家ほど人々の興味を掻き立て、研究の対象となった旧家は珍しく、建築分野のみならず、歴史分野においても多くの研究者が論文を発表している。単なる地方の豪農家の由緒来歴が、これ程までに追究された例は珍しく、興味深い点も多々あるので、概括的ではあるが少し紹介しておきたい。 時国家は、平安末期の壇ノ浦合戦で捕えられ、その後に源頼朝によって文治元年(1185)、能登国珠洲郡大谷村(現在の珠洲市大谷)に配流された平時忠の末裔と伝えられる旧家で、時国姓は時忠の長男の名であった時国に由来するものと伝えられる。平時忠は平安末期に天皇家を凌ぐ権勢を誇った太政大臣・平清盛の義弟に当たる人物で、検非違使別当職に幾度も任用され、正二位権大納言の位階にまで昇った人物である。平家の一門にありながら文官であったため源平合戦の敗北にあたって命までは取られることなく、能登配流という寛大な措置が取られたとされている。江戸時代に書かれた当家の先祖由緒書によれば、時忠が大谷で没した後、息子の時国は大谷村の山中から牛尾に出て、晦日村(ヒヅメムラ)、大刀村(ダイリキムラ)で農耕を営み、両村を支配するに至り、3代目・左京亮時晴の時には、両村と曽々木村を併せて時国村とし、石高300石を保有し、次第に勢力を強めていった、とのことである。 このように時国家自身が自らを平家の末裔と謳うが、何故に当地で勢力を伸長させ得たかは謎である。著名な民俗学者の宮本常一氏によれば、時国家が配流当初に居を構えた大谷集落は、そもそもは摂関家の1つである九条家を領家とする庄園であった若山荘に属しており、このような土地で配流された平家の一族が荘園領家となることや鎌倉幕府と結んで地頭になることは有り得ない話であり、恐らく空閑地の開拓に勤しみ、新田開発によって名主化したのではないかと想像している。この奥能登地域には中世的な人名を地名にしている例が多く、それらの草分け農家は多くが平家の一門であったと口碑されている。時国家ほどには表沙汰にはなっていないが、どうやらこの地には同様の来歴を持つ家々が少なからず存在したようである。歴史を紐解くと中世の動乱期は人口の移動が激しかった時代で、戦後処罰等の事情により在所を追われるなどした人々が経緯は定かではないが他所に移り住み、未墾地の開拓に勤しむことで豪農に成長した事例が多くみられたようである。そうした人々の中から、地元に何らかの理由で遠流されてきた貴族等の家系と縁を結び、能登の場合は平家の末裔であることを自称したのではないかと推測されるのである。時国家の家祖と称される平時忠も能登に配流され、没したという事実までは記録として残されているが、大谷の地で没し、その墓とされる五輪塔が集落内に残されているという事象以降は、真偽については不明である。時国家が所在する町野の谷は、先述のとおり上・中・下の3つの地域に分けられるが、久安元年(1145)の立券状には、上・中で田畑200丁歩とあるが、下には僅かに5丁6反しかない。平時忠の配流伝説が事実だとすれば、久安元年という時代は配流前の状態であり、いずれにせよ、配流後の南北朝時代辺りから下町野で田園開発が急速に進んだと推測されるのである。ただ一方で時国家の所有地が下町野地域に集中していたという状況は、由緒によって労せずして土地を得たのではなく、専ら開発領主として自らの努力で未開の地を田畑に変えたという事実を示していると推測される。平家の末裔という由緒が雛なる土地柄において如何ほどの効果を持ち得たかは判らないが、血統による権威に頼ったのであれば、既に開発が進んでいた上町野、中町野地区にも相応の土地を所有していても不思議ではないはずである。また当家の屋敷前には溜池が3つも分散して造られ、裾野の先にある町野川岸まで広がる田圃の水源として利用されているが、不思議なことに時国家が所有する田圃は町野川から水利を得ることなく、専らこの溜池を水源としていたとのことである。すなわち時国家は眼前の田圃を縦断する町野川の水利権を有していなかったのである。このことは、時国家が町野川流域で遅れて開発名主となった立場をよく表している事象であり、中世には土着し、地域に強大な勢力を誇ったとされているにも関わらず水利権を持ち得なかったという事実は、権威を嵩に懸けて他者から収奪できるような存在では決してなかったという当家の立場を物語っているのではないだろうか。 そして時は流れて天正9年(1581)、能登一国が加賀前田藩領となった後のことである。慶長11年(1606)には能登四郡1万石と越中土方領1万石が替地され、時国村の一部が土方領に編入されたため、時国家は加賀前田家と土方家の双方からの二重支配を受けることになってしまう。(両藩領に跨って土地を所有していたということである) この支配体制に苦しめられた、時の当主・13代・藤左衛門時保は、寛永11年(1634)、次男の次郎兵衛に持分のうち土方領側の200石を譲り、自らは早逝した長男の子を連れ、残り100石余を所持して加賀藩領側に居を構え出たのである。(のちに土方領は幕府領に移管されることとなる) この時に時国家は分立し、のちに町野川上流側にあった次男家である当家を上時国(南時国)と称し、下流側の隠居家を下時国(西時国)と称するようになるのである。 さて、以降は本題の上時国家住宅についてである。屋敷は町野川河口部に広がる平野を眼下に見下ろす山裾の標高20m程の高台に造営されている。街路から屋敷地に至るまでは50m以上にも及ぶ石畳敷の斜路を登らねばならず、屋敷下から真っ直ぐに続く坂上の先に茅葺の大屋根が僅かに覗く様子は、人々に尋常ではない屋敷の存在を予感させてくれる。斜路を登りきると脇に門番小屋を備える柱門が屋敷内へと迎えてくれるが、眼前には広大な前庭を介して真正面に入母屋造茅葺の大屋根を戴く主屋が端座している。主屋建物は表側からは直屋の様子であるが、背面側の北寄りに角屋を突出させ台所と勝手部屋から成る炊事棟を付属させる。主体部となる直屋部分のみで桁行14間(29.1m)、梁間10間(18.1m)、棟高9間半にも及ぶ大建築で、特に梁間については重文指定される農家建築としては最大級の奥行きではないだろうか。茅葺の大屋根の軒下には町家建築で多々見受けられる気抜き用の虫籠窓が開かれ、その下に桟瓦葺の庇が廻らされているため、つし2階建の町家のような造作である。ただ当住宅の場合は主屋裏の上手を一部2階建とするものの、他は平屋建を基調としており、あくまでも建築の立ちの高さを確保するための手段として用いた造作のようである。また何よりも土間に通ずる大戸口の脇に設えられた唐破風屋根付の式台玄関は大藩の家老級の上級武家住宅でないとなかなか見受けられない程に立派なものである。庇や唐破風の玄関屋根に用いられる赤褐色の塩焼瓦は日本海側の気候風土に適した地域に独特の素材で、建物に落ち着きと威厳を与えている。一方、主屋内部については、北寄り3間を土間とし、大戸口脇隅に米搗き場は設けるが、馬屋は併設されておらず、採光にも配慮されているため薄暗く生活臭が漂う農家の土間という雰囲気は微塵も感じられない。土間に沿う床上部は表側を下広間、奥を茶の間とし、下広間から上手に向って上広間、伺の間と続き、そこで矩折れて奥に御前の間と続く。この4室が表向きの座敷部屋となり、各室の表側に1間幅の畳敷きの入側と北国特有の土庇が廻らされている。下広間、上広間は18畳敷、伺の間、御前の間は10畳敷の大振りな座敷空間が続く様は圧巻であるが、更に驚かされるのは御前の間と上広間の天井を黒漆塗で仕上げた格縁の折上格天井とする点である。上時国家の観光案内には御前の間を「大納言の間」と称して、正二位権大納言に叙された平時忠由来の格式であることを演出しているが、そのような名称が往時に許される訳も無く、むしろ禁令破りの過分な造作の咎めを受けて、時の当主・左門時輝は柳田村黒川の中谷家に一時預りの身になったとの逸話が残されている。(恐らく天井の造作のみを咎められた訳ではないと思うが) しかしいずれにせよ近世の百姓身分の住宅建築でこのような設えを施した例は類を見ないことであり、例え幕府領の支配を担った七尾代官所まで75km程も距離があるため役人の監視の目が容易に行き届きにくかったという背景があったとしても、これ程の屋敷を整備すれば何れは発覚すること当たり前の話で、むしろ時国家側の思惑として最後には許されるであろうとの成算が当初からあったのではなかろうか。ただ不思議なことに、上座敷に相当する御前の間は床の間を設えた書院造を基調としているが、その設えについては意外な程に質素な造作なのである。床は透漆塗の角柱で銘木等は使用せず、違い棚も設けず、付書院の欄間窓も組子の間隔が大きい荒間障子の装飾性の低いものである。恐らく床や違い棚等の座敷飾りに対しては奢侈を禁じる触書が出されていたが、天井の造作までには内容が至っておらず、その間隙を縫って、時の当主は大工棟梁に過分とも云える普請を強要したのではないだろうか。そう思わざるを得ない程に庶民の住居としては度が過ぎた建築となっている。ちなみに棟梁大工は地元の安幸という人物らしいが、恐らく堂宮大工の経験を活かしたと思われる普請である。 さて、現在の屋敷は天保元年(1830)頃から新たに整備を始め、まず旧屋敷地から米蔵を移し、次に主屋を新築するなどして、安政4年(1857)に28年間の長き歳月を費やしてようやく全体の完成に至ったものである。当主もその間に長左衛門から徳左衛門に代替わりさえしている。中世には既に開発名主として時国村に土着していた当家であるが、当初の屋敷地は現在地より西南の町野川河畔の低地にあったとされている。当家は300石に及ぶ大規模な農業経営のみならず、廻船業、製塩業なども併せた多角経営を行っていたことが明らかにされているが、そのため当初の屋敷地は河川交通の便に有利な立地を優先したものと思われる。しかし江戸後期の天保年間に至って建築後から随分と時を経て腐朽が随所に確認されるようになったことから屋敷替えを願い出て、現在の山裾の高台に移ったようである。そもそも腐朽の原因として、旧屋敷地が町野川の大水に浸かったことが挙げられており、低地を忌避する意向が大いに働いた故のものである。また当家における廻船業は元和〜寛永年間を最盛期として幕末頃には既に下火になっていた事情も少なからず絡んでいたに違いない。ちなみに旧屋敷は元禄8年に書き上げられた「時国村長左衛門家屋敷絵図」(略称)に敷地東西50間、南北50間、主屋は桁行24間半、梁間10間に及ぶ巨大な建物であったと記録されているが、平成3年(1991)に実施された神奈川大学常民文化研究所による発掘調査等の成果から、主屋の規模は誇張して書かれた可能性があると指摘されている。しかし本当のところは判らない。現在の主屋は桁行14間、梁間10間で建坪185坪となっているが、旧屋敷の主屋は建坪279坪にもなる。この建物は天正18年(1590)に建てられたものと見立てられているが、民家建築としては、古来稀なる巨大建築と云っても差し支えない程の規模である。建築年の安土桃山期という時代性を考えたとき、既成の概念の枠に収まりきらぬ建築が次々に出現した革命的な時代でもあるので、頭から否定はできない話でもある。 先掲の民俗学者・宮本常一氏によれば、奥能登と呼ばれる地域には江戸中期頃まで、この時国家の旧宅に匹敵する巨大民家が少なからず存在していたと著述しておられる。それは奥能登地域に大きな戦乱が無かったこと、収奪を生業とする領主的存在が現れなかったこと、大手作(多くの下人・譜代奉公人を抱えた大規模経営)を行う形態が残ったこと、などを理由として挙げておられるが、それが近世・近代に至っても中世的な世界を維持し続けたこの地域の大きな特徴であり、誇るべき多様性でもあった。今の世にあっては、それらを証明する術は失われているが、江戸期の記録に少し誇大な表現があったとしても、少なからぬ真実が含まれていると考えるべきではなかろうか。 最後に時国家はこの家作に対して禁令破りの咎を幕府から受ける恐れを抱きながら、何故に推し進めたのかを考えたい。天保2年(1831)、時国家は現屋敷の整備にあたって、建築が四割程度しか進んでいない段階で費用過多により役所に対して米300石の借用を願い出ている。主屋建物の規模を旧屋敷から100坪近く減じたにも関わらず、手持ち費用が不足しているのである。禁令破りを犯しつつも、一方で借用の願いをするとは半ば呆れた話であるが、しかしこれほどまでに時国家が屋敷の再建に情熱を注ぎ込んだ理由は何故だったのであろうか。江戸期を通じて時国家の生産高は米300石、製塩に要する薪炭の供給地となる山林400丁歩を維持し、家産を増やしてこなかったとされている。恐らく奥能登地域における農業生産力は早々に限界値に達していた可能性が高い。そうした状況の中での屋敷の再興は、物価の上昇も相俟って、旧屋敷の規模をそのまま維持するどころか、規模を減じても費用を賄い切れなかったのである。つまり、幕末の時点で奥能登地域における時国家の威光は、広く世間相場を勘案したとき、当家自身が考えていた以上に実力に大きな乖離があったのである。地域における旧家としての体面は非常に重要な要素である。名望家同士を結び付ける繁栄の基盤でもある。しかし分限を超えた見栄は厳禁である。当家が平時忠の末裔であるという伝承は江戸後期頃には広く知られていたらしく、稀なる貴種伝説は商売をするうえで大きく有利に働いたのかもしれない。そして当住宅の屋敷新造はそれを体現する機会でもあったのである。故に主屋座敷に折上格天井を施し「大納言の間」と称したのであり、上級武家屋敷に劣らぬ唐破風の玄関まで設えたのである。ひょっとすると庶民には判りづらい書院造の格式表現よりも折上格天井という判り易いアイコンを重視したのも、それ故のことかもしれない。末裔伝説により地域の名望家としての地位を揺ぎ無きものにする意図は、その裏腹で相応の出費を強要されることに繋がる。私は当住宅を訪れる度に、中世から近世、そして近代へと時代が移り続ける中、長く家を維持するということが如何に大変なことであるか、この立派な主屋を眺めつつ考えるのである。 (2025.10.26記述) 【個人的な意見】 当住宅は残念ながら令和6年1月1日に発生した能登地震で倒壊。その少し前には観光客の減少により公開を維持することが困難として、当住宅は令和5年8月31日をもって閉館する旨の新聞報道がありました。復興に向けて水を差すようで申し訳ないのですが、被害調査段階で見積もられた再建費用は30億円超。盲目的な再建が、将来的に地元の負担にならなければ良いのになあ、と思います。 【参考図書】 宮本常一著作集11 中世社会の残存 未来社刊/月刊文化財 平成15年12月号 第一法規刊/時国家住宅修理工事報告書 時國信弘氏発行/奥能登と時国家 調査報告編2 平凡社刊/民俗建築第8号/北國新聞社刊1993年初版・加賀・能登の住まい/民家は生きてきた(美術出版社 伊藤ていじ著) |