上時国家住宅 Kamitokikuni ![]() その他の写真 |
国指定重要文化財 (平成15年12月25日指定) 石川県輪島市町野町南時国13-4 建築年代/安政4年(1857) 用途区分/天領大庄屋 指定範囲/主屋・米蔵・納屋 公開状況/公開 国内に数ある民家建築の中で時国家住宅ほど早くから人々に知られ、人々を魅了してきた存在はないだろう。昭和27年9月に発刊された「民俗建築第8号」に掲載された「能登の民家」(石原憲治博士寄稿)の文中には、昭和24年(1949)の時点で既に一般の人々が当住宅を拝観に訪れていた旨の記載がある。民家建築に文化財という概念さえも無かった時代にも関わらず、恐らく平家の末裔を称する豪農家が都から遠く離れた奥能登という雛なる土地で連綿と歴史を紡いできたという事実に、多くの人々が伝奇的な興味を掻き立てられたが故に相違ないだろう。 さて上時国家住宅は能登半島の先端近く、朝市で有名な輪島市北東の曽々木海岸に流れ込む町野川を河口から約1km程遡った右岸の高台に建つ旧幕府領の大庄屋屋敷である。町野川流域は奥能登地方には珍しくまとまった田圃が拡がる土地柄で、町野川に沿って上流側から上町野・中町野・下町野に区分される。当住宅の所在する旧時国村は下町野に該当し、当家は室町期には既に30町歩(約300石余)の広大な田圃を下町野地区に所有していたようである。中世末から農業や製塩業、海運業により財を成したという当家は江戸初期の寛永年間に二家に分立し、約300m程を隔てた位置に各々が屋敷を構えている。いつの頃からか町野川の上流側に在った惣領家の当家を上時国、下流側の隠居家は下時国と称されたが、両家共に現在に至るまで往時の屋敷を残し、当家住宅は平成15年12月25日付で、当家よりも更に建築年代が遡る下時国家住宅は昭和38年7月1日付で国の重要文化財に指定されている。共にその主屋は我が国を代表する豪農家の大規模な建前であるだけでなく、上時国家の建築は江戸末期の安政4年(1857)、下時国家は江戸初期〜中期頃と推定されており、大きく年代の異なる近世民家が並立する状況は、住宅建築の発展の経過を知る上で貴重な事例なのである。 ところで、両時国家ほど人々の興味を掻き立て、研究の対象となった旧家は珍しく、建築分野のみならず、歴史分野においても多くの研究者が論文を発表している。 大規模な主屋は桁行14間、梁間10間、完成までに28年の歳月を要したという。、唐破風屋根を備えた式台玄関や座敷の黒漆縁の折上格天井は民家建築としては破格の造作で、恐らく加賀藩領であれば許されなかったに違いない。 時国家は、平安末期の壇ノ浦合戦で捕えられ、その後に源頼朝によって能登国珠洲郡大谷村に遠流された平時忠の末裔と伝えられる旧家で、時国姓は時忠の長男の名であった時国に由来するものと考えられている。時国は大谷村の山中から牛尾に出て、晦日村(ヒヅメムラ)、大刀村(ダイリキムラ)で農耕を営み、両村を支配するに至り、3代目・左京亮時晴の時には、両村と曽々木村を併せて時国村とし、石高300石を保有し、次第に勢力を強めていった、と江戸時代に書かれた先祖由緒書には記載されている。天正9年(1581)に能登が加賀前田藩領となった後、慶長11年(1606)には能登四郡1万石と越中土方領1万石が替地され、時国村の一部が土方領に編入され、時国家は加賀前田家と土方家の双方からの二重支配を受けることとなってしまうのである。この支配体制に苦しめられた時の当主・13代・藤左衛門時保は、寛永11年(1634)、次男の次郎兵衛に200石を譲り、自らは早逝した長男の子を連れ、残り100石余を所持して加賀藩領側に居を構え出たのである。この時に時国家は分立し、町野川上流側にあった次男家である当家を上時国と称し、下流側の隠居家を下時国と称するようになるのである。現在の屋敷は天保2年(1831)頃から新たに整備を始め、まず旧屋敷地から米蔵を移し、次に主屋を新築するなどして、安政4年(1857)にようやく完成したものである。当初の屋敷地は町野川河畔の低地にあり、建築後から随分と時を経て腐朽が随所に確認されるようになったことから屋敷替えを願い出て、現在の山裾の高台に移ったようである。そもそもの屋敷移りの原因として、旧屋敷地が町野川の大水に浸かったことが挙げられており、低地を忌避する意向が大いに働いた故のものである。旧屋敷は敷地東西50間、南北50間、主屋は桁行24間半、梁間10間に及ぶ巨大な建物であったと記録されているが、神奈川大学常民文化研究所による発掘調査等の成果から、主屋の規模は誇張して書かれた可能性があると指摘されているが、本当のところは判らない。当家の場合は1間=6尺5寸を基準としているため、通常の6尺を基準とする民家と比較して、更に大きな建前となっている。現在の主屋は桁行12間半、梁間7間半で建坪185坪となっているが、旧主屋は建坪279坪にもなる。この建物は天正18年(1590)に建てられたものと記録されている。新屋敷の整備に当たって要した時間は約26年間にも亘り、当主は長左衛門から徳左衛門に代替わりさえしている。その間に費用過多により役所に対して米300石の借用を願い出ている。主屋建物の規模を半減させたにも関わらず、まだ手持ち費用が不足している事態なのである。 民家の規模については、青森県五所川原に所在する平山家住宅が桁行17間、梁間6間で最大級とされている。また新潟県味方村に所在する笹川家住宅の表座敷棟は桁行15間半、梁間7間であり、こちらは1間が時国家同様に大きく換算すると34.3mの規模となる。 著名な民俗学者の宮本常一氏によれば、奥能登と呼ばれる能登半島先端地域には江戸中期まで時国家旧宅に匹敵する巨大民家が少なからず存在していたと著述している。それは能登に戦乱が無かったこと、大手作を行う形態が残ったこと、などが理由として挙げている。 時国家は平家の末裔と謳うが、何故に当地で勢力を伸長させたかは謎である。時国家が居を構えた大谷集落は、そもそもは摂関家の1つである九条家を領家とする庄園であった若山荘に属しており、ここで配流された平家の一族が荘園領家となることや鎌倉幕府と結んで地頭になることは有り得ない話であり、恐らく空閑地の開拓に勤しみ、新田開発によって名主化したのではないかと想像している。事実、この地方には中世的な人命を地名にしているものが極めて多く、それらの多くが平家の一門であったと口碑されているらしい。即ち、律令時代に開拓された土地に間隙に後から入って、開墾に勤しみ、豪農に成長した人々の一群ということである。 当家が所在する町野の谷は、上・中・下の3つに分かれ、久安元年(1145)の立券状には、上・中で200丁歩とあるが、下は僅かに5丁6反しかない。この時代は、平時忠の配流伝説が正しいとすれば、配流前の状態であり、この後の南北朝時代辺りから下町野で開発が進んだと推測されている。文明15年(1483)には、先述した建坪240坪の巨大主屋が出現しているのである。 【個人的な意見】 令和6年1月1日に発生した能登地震で倒壊。その少し前には観光客の減少により公開を維持することが困難として、閉館する旨の新聞報道がありました。復興に向けて水を差すようで申し訳ないのですが、盲目的な再建が、将来的に地元の負担にならなければ良いのになあ、と思います。 【参考図書】 宮本常一著作集11 中世社会の残存 未来社刊/月刊文化財 平成15年12月号 第一法規刊/時国家住宅修理工事報告書/奥能登と時国家 調査報告編2 平凡社刊/ |