笹川家住宅
Sasagawa



 
国指定重要文化財 (昭和29年3月20日指定)
新潟県指定文化財(昭和27年12月10日指定)
国指定重要美術品(昭和24年4月13日指定
新潟県新潟市南区味方216番地
建築年代/文政4年(1821)
用途区分/農家(大庄屋)
指定範囲/表門・表座敷及び台所・居室部・奥土蔵・雑蔵・文庫・米蔵・飯米蔵・三戸前口土蔵・井戸小屋・外便所
公開状況/公開
その美しさは日本を代表する、今も昔も心底思う。日本には近世以降の伝統技法により建てられた文化財指定の民家建築が数多く残されているが、これ程までに厳かで、品が良く、格調高い例は他に無い。昭和24年(1949)に国の重要美術品に指定され、昭和29年(1954)には重要文化財へ指定替えとなった経緯からも推察されるとおり、当時の人々も、まず建築的価値よりも純粋にその美しさを誇ったであろうに違いない。それは民家建築が技術的に頂点を極めたとされる明治期以降の近代和風建築とは明らかに一線を画すものである。封建的な身分制度から解放された庶民が自らの富裕を誇るため金に飽かせて銘木を多用したり、人の意表を突くような意匠に走ったりする悪趣味な建前では決して無い。強固な身分制度に縛られた家作の枠内で如何に家の格式を演出するか、庶民としての法を超えない抑制の効いた近世民家特有の美しさが、そこには感じられる。地元の旧味方村が昭和55年に発行した「笹川邸今昔」という冊子に、当住宅を郷土の誇りとして「燻し銀」と記述しているが、まさに言い得て妙な例えである。これは昨今の拝金主義が蔓延する風潮からは到底理解し難いものかもしれないが、わざわざ銀を燻して輝きを消すことに美を見出す独特の文化的感性を顕す言葉である。もちろん侘び・寂びというような陰気臭いものでもない。日本各地に旧家の歴史ある民家建築が数多く残されている中で、唯一無二の美しさを誇る当住宅の魅力の源泉は一体どこにあるのか、民家人の探究心を大いに刺激する命題である。
さて先述のとおり当住宅は新潟市南西郊外の田園地帯に位置する旧味方村に所在する。味方村は広大な越後平野の南半分を縦断する信濃川の分流・中ノ口川沿いの微高地に形成された純農村で、当家の屋敷前の川沿いに築かれた土手上に立てば、四周は見渡す限り平坦な田圃地帯である。笹川家は天正9年(1581)に初代・義勝が越後国境付近の信濃国水内郡笹川邑から当地に移住したことに始まるとされており、慶安2年(1649)の3代・信秀に至って初めて村上藩領味方組の大庄屋に任命されている。江戸初期に当職を務めた家柄は戦国期の城主格の末裔など相応の武家身分の出身者であった例が多く、多分に漏れず当家も初代・義勝は甲斐国主・武田信玄の弟・典厩信繁の三男であったと伝える。但し、生年の不一致等から当説を懐疑的に見る向きもあるようだが、文政年間の住宅火災により過去帳・文書類が失われたため、今となっては詳らかに仕様がない状況にある。然るに当家の家紋が武田菱を用いていることから何らかの血縁関係に有ったとの見方までは否定されていない。紛らわしいことに当屋敷地の四周には水濠と盛土が廻らされ、恰も中世武士の居館を想わせる風情を醸していることから、乱世であった戦国期末の天正年間に土着した時代の痕跡がそのまま残されていると勘違いされがちであるが、これは江戸末期の天保13年(1842)に屋敷裏手に所在した寺院の出火に恐怖した10代・朝虎が普請したものと伝える。また屋敷正面に建つ小振りな茅葺切妻屋根の表門は文政4年(1821)建築の主屋との対比において余りに簡素な趣であるが故に、当家が土着した当初からの建物という伝承に却って信憑性をもたらし、古くからの由緒を示す象徴とされてきたが、解体調査時に発見された墨書から寛政11年(1799)の建築と判明している。更に当家が正式に苗字を名乗り、家紋入り弓張提灯の使用が藩から許されたのは宝暦8年(1758)に至ってからのことである。意外にも藩政初期から大庄屋職を務めてきた家柄とはいえ、武家に準ずる待遇が許されたのは、かなり後代になってからのことなのである。こうした家歴を客観視すると、単に村上藩の郷方支配が厳格であったというだけのことでなく、実は当家の由緒を著しく重んじるところが無かったのではないかとも疑いたくなる。いずれにせよ、この辺りの話は推測の域を出ないことではあるが、人々は当住宅が醸す風情や規模に幻惑され、当家の由緒や家柄、権勢を錯覚し続けてきたのではないかとさえ思うのである。大正年間の14代・只一は味方村長や新潟県町村会の会長などの公職を歴任し、巷では「殿様」と呼称されるなど近寄りがたい存在であったとの逸話を残しているが、いくら大高持の大庄屋であったとしても江戸期において農民身分が「殿様」を名乗ることなど決して許されなかったはずである。幕藩体制が瓦解して武家身分を名乗る者がいなくなった時代にあっては、残された大庄屋屋敷の主こそが地域社会の頂点に立つ存在と人々は単に錯覚しただけのことなのかもしれない。また実のところ当家が所有した田畑の耕地面積にしても明治34年(1901)時点の記録によれば僅か61町歩に過ぎなかった。この所持高は他の地域であれば大地主と称される規模になるであろうが、明治30年代の新潟県では伊藤家、市島家、斎藤家といった1000町歩を超える田畑を所有した豪農が数多く輩出されていた状況にあり、決して傑出した存在ではなかった。くどいようだが、どうやら私には幽寂にして侵し難い風情を醸す当住宅の存在が、当家の地位を実際以上に高める役割を果たしたとしか思えてならない。「幽霊の正体見たり、枯尾花」の戯言の如く、雛には稀なる屋敷であったが故に、由緒までもが誇張された可能性はないだろうか。
ところで、新潟市内から当住宅を訪れるに当たっては中ノ口川左岸の堤防道路(旧三国街道)を辿ると判り易い。嘗ては新潟市中心部と燕市を結ぶ新潟交通線というローカル鉄道が敷設され、最寄駅として味方駅が開設されていた線路道である。見渡す限り平坦な田園風景が拡がる中、鬱蒼とした屋敷林の存在が遠目にも当住宅の在処を教えてくれる。昭和36年(1961)に襲来した第二室戸台風により邸内の老木140本が倒れたということなので、以前は更に深淵たる風情に包まれていたに違いない。屋敷地の広さは尋常ではなく、東西150m、南北100mで約5000坪、周囲に巡らされた濠を含めると6065坪の規模になるが、嘗ては屋敷裏手の道路を隔てた位置に本邸と同様に四周を濠と土手で囲んだ約2600坪の土地を別に確保し、火災等に見舞われた際には邸宅を移すための予備屋敷としていたというから恐れ入る。また屋敷の背後には、諏訪神社や真宗の円性寺、常敬寺といった寺社が配置され、恰も当家を中心に村が拓かれたような景観を呈している。古い由緒を誇る各地の旧家でも同様の屋敷配置を取る例が少なからず確認されるが、当家の場合は全てにおいて規模が大きい。そして先述した表門は屋敷の表側中央部に東南の方角、すなわち中ノ口川に向って開かれている。正面扉の左脇には潜門を備え、右手には番屋を併設する格式の高いもので、巽風門と別称される。新潟市内は冬の時期を除けば東南方向から風が強く吹く地域で、これを屋敷内に取り込むことを意識して名付けられたものであろう。この門を潜ると左手に中門を擁する簓子下見張の仕切塀、右手に回廊状の外便所棟が配され、これらが幼稚園の園庭ほどの広さはあるであろう前庭を囲み、二筋の敷石道が前庭を縦貫して、その奥正面に端座する主屋に向って延びている。通常であれば農家の前庭は収穫した作物の加工場であり、その広さは凡そ収穫高に比例するものであったが、当家の場合は果たしてどうであったか。主屋前の空間をそのような雑多な使途に用いることが憚られる程に前庭自体が厳かな雰囲気を醸している。そして何よりも前庭を隔てて臨む主屋正面の美しい姿には誰もが嘆息するに違いない。日光東照宮の廟所前に建つ陽明門は、一日中見ていても飽きないその素晴らしさから日暮門と別称されるが、私は当住宅の主屋の姿にも日暮屋と名付けたい程の気持ちである。けれども、この前庭に面して佇む建物は主屋の一部であって、あくまで役宅と称される公的な来客を迎えるための表座敷棟に過ぎない。実は正面からは俯瞰できないが、家人が起居する日常生活の場である居室棟が、表座敷棟とほぼ変わらぬ規模でこの背後に続くのである。近世の農家建築においては、その発展過程から、まず日常生活を送る場が屋敷の中心にあり、接客空間は、あくまで派生的、付加的に整備されるものであったが、当住宅の場合は、まず接客のための表座敷棟が屋敷の中心にあり、本来は主屋の名を冠すべき生活空間たる居室棟は背後に隠されている。こうした建前は殆ど例を見ない稀有なものである。そもそも農家と云われる類であれば、例え村役層の屋敷であったとしても、訪れる賓客はせいぜい下級役人程度であり、藩主等の貴人が来駕する機会などは殆ど無く、表座敷を極度に発達させる必要性など無かったのである。故に通常は主屋一棟の下に座敷部と居室部の両方が収まる程度の建前で済ませるところが、当住宅ではこの両者を別棟としてはっきりと区別している。更に当住宅の重要文化財指定書によれば、主屋建物の構造及び形式として表座敷及び台所は桁行34.3m、梁間17.6m、居室部は桁行26.5m、梁間13.0mとあり、この居室部の南面東端に更に桁行14.6m、梁間7.4mの突出部が附属すると記述されている。江戸中期の一般的な農家建築が俗に6×4間建てと云われており、換算すると桁行10.8m、梁間6.4m程の大きさとなるので、当住宅における居室棟の突出部だけでも一般農家の主屋を優に凌ぐ規模となる。表門の扉口から臨む遥か先に、自分たちの知る農家建築とは全く異質な主屋が現れる。恐らく往時の人々にとって当住宅の存在は、ひたすら畏怖の対象でしかなかったに違いない。
さて複数の棟から成る主屋建築ではあるが、やはり特筆すべきは表座敷棟である。正面に唐破風屋根の向拝を突き出す3間幅の式台玄関を構え、そこから室内に上がると畳敷の入側を介して、奥に2間半幅の大床を備えた18畳敷の玄関の間がある。その上手には12畳敷の次の間が配され、更にその奥に正式な書院造の9畳敷の上段の間が鉤の手に続く。こうした座敷配置自体は江戸中期以降の上層農家においては決して珍しいものではないが、当住宅の場合は、単に座敷を形式的に間取りしたというだけではなく、座敷という存在に本来求められるべき機能、即ち格式を演出するための役割が十分に与えられている点に注目すべきである。その一端として、例えば上段の間は2間半四方の造作で通常であれば12畳半敷となるところを大型の畳を用いることで9畳敷とし、次の間も同様に15畳敷のところを12畳敷としている。また建具が入る鴨居の高さを示す内法高も通常の民家では5尺7寸程度に収めるところを6尺高とし、更に襖にしても二間半や三間幅に対して幅広の四枚立としている。つまり部屋の設え全てが大振りで、一般庶民の民家に用いられる規矩ではなく、藩主御殿のような大規模な公共建築を建てる際の規格が用いられているのである。しかもこれは座敷部にのみ用いられる造作で、表座敷の裏手の帳場や家老の間などの普段部屋や居室棟については、通常の民家規格が用いられている。すなわち表座敷棟の中でも来客の導線となる寄付から大広間、三の間、次の間、上段の間の各部屋にのみ特別な規格が付与されているのである。それでは、こうした破格とも思える普請の背景には、どのような意図があったのであろうか。当家の家格を誇示するという意図もなかった訳ではないとは思うが、先述の通り村上藩は身分制度に関しては厳しい姿勢を取っていたと思われ、当然の事ながら家作についても相応に制限が加えられていた可能性が高い。あくまで私見であるが、座敷に求められる格式とは、詰まるところ人と人との距離感ではないかと常々思うところがある。その点において当住宅の座敷は貴人と家人との距離を充分に取り、両者を隔てることを意識した造作となっている。公式な場において庶民は貴人の顔を見ることさえ憚られた時代である。地方の名望家の屋敷には藩主が度々訪れたとの逸話を残す例が少なくないが、家人が藩主と直接に会話できたかどうかは甚だ怪しい。数多くの民家建築を見ておられる方ならば、こうした上層農家の座敷部屋の狭さに違和感を覚えたことはないだろうか。本当に藩主と身分の隔たりを超えて、至近距離で対面できたか訝しく思うことはなかったであろうか。実はこうした座敷は実際に貴人の来駕を想定したものではなく、あくまでも家の格式を形式的に演出するためだけに整えられた可能性が高い。つまり自らが貴人と直接に対峙することなど微塵も想定していないのである。このような視点に立てば、当住宅の座敷がその真逆の存在として実用に基づき整えられたものであると容易に理解できるはずである。封建制度下において庶民は藩主権力に対して盲目的に従うことが求められた。公私において必ずしも利害が一致しない時には、公を優先させねば大勢が生きていけない時代だったからである。穿った見方かもしれないが、実際に当住宅の座敷に坐すれば、本来、座敷は貴人をもてなすためにあったものではなく、如何に民衆を盲目的に従服させられるかが問われる舞台装置であったことを感じる。大庄屋階級の屋敷の設えには公私の両面が混在することは、その役儀からして至極当然の事だった。とはいえ、あくまで百姓階級の身上で、これほどまでに過分とも思われる表座敷を当家は何故に建築できたのであろうか。そして、普請を許した村上藩は何を意図したのであろうか。例外には相応の理由があったと考えて然るべきかと思う。
当住宅が建築された江戸中期に味方村を領したのは、県北の村上市に拠点を置いた内藤家5万石の村上藩である。味方村は村上から直線距離にして60km以上程も離れた飛び地領で、郷方の支配機構として三条役所による代官支配の体裁を取るものの、直接には大庄屋によって支配されていた。村に残る江戸中期の古文書には、飛び地であるため殿様ではなく大庄屋の支配を受けることに不満を抱いた農民が幕府に強訴したことが記録として残る。こうした大庄屋に対する百姓の反抗的な活動は江戸期中に一度ならず発生しており、この事実からは味方村を含む蒲原郡一帯は藩庁による監視の目が届きにくい遠隔地であったが故に藩主権力の代弁人としての立場を利用した当家が専横に振る舞った様子が想像される。しかし実際は立場の弱い者たちが常に正義とは限らず、事はそう単純ではなかったかもしれない。百姓側から大庄屋罷免の強訴があった後に当家が藩庁より苗字帯刀を許されている点は注目すべき事実である。大庄屋という立場は百姓と藩の両者を介在し、時には百姓側に味方することもあれば、反対に藩主権力に迎合しなければならないこともある。藩命に従い実行した政策が百姓達から強く反対され板挟みになることも少なからずあったに違いない。一連の経緯は百姓からの抵抗に屈せず、藩側の意向を貫徹した大庄屋家に対する論功行賞として苗字帯刀御免の恩典が与えられたと見るのが素直なところであろう。こうした状況を垣間見ると、当家は百姓達を慰撫するために相当な苦労が求められる立場にあったと想像される。ひょっとすると飛び地領ゆえに傲慢だったのは百姓側で、遠隔地における支配機構の脆弱さを百姓たちは見透かしていたのかもしれない。さすれば藩側としても、この期に及んで百姓達に対する直接の支配者たる当家に更なる権威付けを図る必要性を痛感したのかもしれない。文政4年(1821)の火災焼失後から7年の長きに及ぶ主屋再建は、こうした背景から藩側の意向が大いに反映された形での普請だったのではないかと想像されるのである。また、一方でこの地域における百姓統治の難しさには、別の理由もあったようである。。新潟平野は広大で、車窓から臨む田園風景の連続に「米どころ」として名高い新潟の面目躍如を実感する。毎秋に高級米として名高い魚沼産コシヒカリの入札価格の高低が新聞紙上を賑わすのは恒例行事であるが、味の良さだけでなく生産量、作付面積の面においても北海道、秋田を抑えて堂々たる第1位なのである。しかし不思議なことに米が基軸通貨のような役割を果たした江戸期の越後国には大藩がなかった。幕末における越後国内の諸藩は、村上藩5万石、新発田藩10万石、長岡藩7万4千石、高田藩15万石に複数の1万石程度の小藩を足し合わせて計46万石程度に過ぎない。これらは表高なので江戸初期の石高を合計した数値ということになるが、明治元年(1868)の段階でも115万石程であったと記録されている。これに対し、現在の新潟県内の収量は約66万tで、1石=150kgとして換算すると440万石ということになる。明治元年以降の近代になってからでも約4倍弱、江戸初期と比較すると約10倍の尋常でない増収振りである。しかし、この事実は逆に藩政期における生産性の低さは何故の事であったかという疑問をもたらしてくれもする。実はその原因が米作に恵みをもたらせてくれるはずの存在であった信濃川にこそあったという史実に接したときは、俄には信じ難い心持であった。信濃川は全長367kmを誇る日本で最も長い河川である。信濃国を流れる千曲川が、越後国に至り信濃川と名を変えて日本海に注ぎ込む。越後国においては信濃国から流れてくる川なので信濃川と呼称されたが、上流の信濃国においては千曲川と呼称された。なんだかややこしいが、この信濃川が信濃の山々を抜けて越後国に入ると広大な氾濫原を形成し新潟平野となる。しかし、ここまでは良かったが1つ大きな問題があった。度が過ぎる程の水量だったことである。信濃川が日本屈指の山塊を孕む信濃の地から大量の土砂を運び込んだことにより、新潟平野は余りにも広大になってしまい、そのために水捌けが悪く、平野全体に沼や潟が点在し、悪水が溜まる低湿地帯となってしまったのである。つまり、そもそもの新潟平野は米作に不向きな土地柄だったのである。嘗て味方村の所在する蒲原郡一帯の田圃も深田と呼ばれるもので、田舟を利用し、田下駄や田かんじきを履いて農作業を行わねばならない程の湛水に苦しんだと記録されている。昭和期に撮影された映像でも腰どころか胸まで浸かり、竿で体を支えながら田植を行う姿が記録されている。また、こうした深田で獲れる米は「鳥またぎ米」と揶揄されるほどで、鳥さえも喰わぬほどに不出来なものだった。米の収量が国力の源泉であった江戸期において、当然の事ながら、この事態を何とか打開しようと様々な試みがなされたことは云うまでもない。江戸中期頃から新潟平野を分割領有する各藩はこの信濃川の流れを変えることによって如何に収量を増やすかに精力を費やし続けている。その道程は決して容易なものでは無く、流域面積が広いが故に利害関係者も多かったことで調整が遅々と進まぬことも多かった。江戸期の低い灌漑技術では或る村が得をすれば、他の村は損をするということが当たり前にあり、大庄屋を務めた当家は、その仲介役として東奔西走の活躍を強いられた。時には藩領を跨いで、長岡藩領や新発田藩領の村々と利害調整を強いられる局面もあったようである。江戸期を通じて当家は普段に大庄屋としての職責を果たす一方、時には治水家として更に広域に亘る八面六臂の活躍を強いられたのである。私はこうした当家の置かれた特別な立場が主屋の再建にあたっても影響を受けない訳はなかったと考えている。つまり周辺の村々との利害調整の場として寄合が頻繁に開かれることを意識して普請されたのではないかと思うのである。当住宅の表座敷は単に当家の由緒・来歴をひけらかすような虚栄のために在るのではなく、様々な身分の利害関係者たちが一堂に会するとき、理屈を越えて物事を収めるために、座敷が演出する格式が大いなる役割を果たすことを意識して計画されたものに違いない。民芸の世界に「用の美」という言葉があるが、当住宅の座敷建築も、本来座敷という存在が持つべき用途を違えることなく発揮しているだけなのかもしれない。明治時代にこの地を旅した民芸活動の先駆・バーナードリーチが当住宅を賞賛したとの逸話が残されているが、外国人であった彼がどこまで日本の座敷というものを理解していたかは判らない。しかし当家が江戸期を通じて大庄屋・治水家として新潟平野の干拓事業に膨大な時間と費用を投じて地域の発展に関わった家柄であり、近代に至って干拓事業の成果だけを享受して千町歩地主に成り上がった新興の家々とは一線を画す存在であったことを理解し、そうした歴史を背負う家が醸す風情を彼も感じ取ったのかもしれない。
ところで、残念なことに新潟平野の乾田事業は多くの労力と金銭を費やしたにも関わらず、当時の灌漑技術の限界から江戸期中において飛躍的に米穀の収量を伸ばすには至らなかった。ただ、どうすれば画期的、且つ抜本的に乾田化を進めることができるのかということは早くから理解していたようである。その方法は信濃川が最も日本海に近付く大河津村から寺泊に向けて堀割を開削し、余水を放流するというもので、後の世に云う「大河津分水」というものである。結局のところ、その構想を受けて具体的に起工されたのは明治初年のことであったが、莫大な工事費用の調達に苦しみ途中で断念している。恐らく当家は相当な費用を拠出したにも関わらず成果を得られぬままに終わり、負担だけが長く尾を引き、家産を大きく回復させる機会を失してしまった様である。最終的には産業革命がもたらした近代的な灌漑技術が導入され、分水工事が完了したのは再起工から16年の歳月を費やした大正13年のことであった。
室町末から400年に亘り地域を牽引し、積年の懸案を解消するために奔走し続けた当家は、戦後の農地解放が駄目押しとなり、今に残る家屋敷を維持することが能わず、昭和45年(1970)に此の地を去ることとなった。現在に至る大穀倉地帯創出の立役者でありながら、忸怩たる想いであったに違いない。。私は唯一無二の存在である当住宅を単に豪農屋敷の名を冠し、農民搾取の象徴、封建制の弊害の象徴と捉える向きがあるとすれば、余りにも一方的な話だと思う。近世という時代は、誰もが血が滲むような努力をし、虚飾とは縁遠い、実務的、実質的な時代であったと感じている。地域において当家が果たした役割を顕彰し、当住宅が果たした役割を再評価することは、今を以ってその余沢に預かる我々の責務ではないかと思う。(2023年12月3日記述)

【参考文献】新潟県西蒲原郡味方村刊「笹川邸今昔」/毎日新聞社刊「新指定重要文化財12 建造物U」/新潟日報事業社刊「越後豪農めぐり」/学芸出版社「民家 最後の声を聞く」藤木良明著/INAX出版「INAX ALBUM36 北陸の住まい」/伊藤ていじ著「民家は生きてきた」/味方村発行「重要文化財笹川家住宅修理工事報告書」
 

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