島木赤彦生家
Shimaki Akahiko's parents' house



 
下諏訪町指定文化財 (昭和57年3月26日指定)
長野県下諏訪町北高木9180
建築年代/江戸末期
用途区分/武家・歌人
指定範囲/主屋
公開状況/公開

赤彦は明治30年久保田家の養嗣子となり、大正15年3月に死去するまで、この家を根拠に生活したが、大正7年、東京のアララギ発行所から帰郷以来ここで起居、自ら「柿蔭山房」と命名した。間口8間半、奥行5間半、士族の家作りとしても評価が高い。書斎は西向き8畳の上座敷であったが、冬は寒く、夏は暑かったので、大正14年、東南の一部に日当たりの良い書斎を新築した。庭の赤松は樹齢300余年、目通し周り2m、また門口の胡桃は樹齢130年余、共に赤彦の特に愛惜した老木である。なお津島社前に歌碑、裏山の中腹に赤彦と夫人・不二子の墓がある。
  雪ふれば山より下る小鳥多し 障子の外に日ねもす聞ゆ  【現地案内看板より】


柿蔭山房について
この家は江戸時代末期に建てられたと推定され、代々諏訪藩の藩士であった久保田家の家として、古風な書院造などの特徴も見られます。名前の由来ですが、赤彦は柿の木を好み、「柿村舎」や「柿の村人」の号を用いていたこともあり、大正11年に「柿蔭山房」と題した歌を詠んでから、「柿蔭山房」と呼ぶようになりました。以後も「柿蔭山房」や「柿蔭山房の冬」などと題した歌を残しています。また遺作集も「柿蔭集」と名付けられました。
  おのづから汗や沁みけむ坐りつつ時を経にける畳の上に
  庭つづき柿の畠の雪深し雪割茸を掘りて得にけり
柿蔭山房の由来は、庭の北隅に大きな柿の木があり、その枝葉の木陰に家があったからです。赤彦の没後、柿の大木は茅葺屋根を蔽い、そのために日光が差さず屋根の損傷がひどくなったため、やむなく伐り倒されました。その切り株は、現在、赤彦の部屋の入口に置いてあります。また、同じ場所に再び柿が植えられています。
赤彦の妻であり、歌人であった不二子も柿についての歌を残しています。
  夕されば柿の木にゐて囀れる雀の聲はさむく聞ゆる
  家毎に柿吊し干す高木村住み古りにけり夢のごとくに
【現地案内看板より】


明治9年~大正15年(1876-1926)
明治-大正時代の歌人
本名は久保田俊彦。旧姓は塚原。
別号に山百合、柿の村人、柿蔭山房主人など。
妻の久保田不二子も歌人。
明治9年12月17日、長野県諏訪郡上諏訪村(現・諏訪市)で塚原家に生まれる。明治31年(1898)に長野尋常師範学校を卒業、同年に下諏訪町高木の久保田政信の養嗣子となり、同家長女・うたと結婚。故郷長野県の小学校教員、校長などを務めながら、歌人として活動。明治35年(1902)に妻・うたの死去に伴い、その妹・ふじと再婚。明治36年に同人誌「比牟呂」を創刊、明治42年には師事する伊藤佐千夫の「アララギ」に合流。歌人としての鍛錬道を極めながら、「アララギ」の経営、「万葉集」の研究、教育者としては郡視学(地方教育行政官)を務めるなど、その活躍は晩年に至るまで多岐に渡り、活発であった。大正15年、癌により死去、享年49歳。【現地案内看板より】


現在の長野県諏訪市生まれ。長野県尋常師範学校卒業後、久保田家の長女・うたと結婚。養子となる。本名は久保田俊彦。長女が夭折、うたも亡くなり、その妹・ふじと再婚する。
この死別体験が新体詩から短歌に進んだ赤彦の文学に影響を与えたとされる。
長野県内で小学校教師、校長などを歴任する一方、雑誌「比牟呂」を編集刊行した。斎藤茂吉に代わって、伊藤佐千夫、長塚節亡き後の「アララギ」の編集をするために上京。茂吉とともに写生の重要性を主張し、文学的生活における「鍛錬道」を唱えた。万葉集を研究し、童謡にも力を注いだ。     (日本経済新聞夕刊文学欄より)