島木赤彦生家
Shimaki Akahiko's parents' house



 



現在の長野県諏訪市生まれ。長野県尋常師範学校卒業後、久保田家の長女・うたと結婚。養子となる。本名は久保田俊彦。長女が夭折、うたも亡くなり、その妹・ふじと再婚する。
この死別体験が新体詩から短歌に進んだ赤彦の文学に影響を与えたとされる。
長野県内で小学校教師、校長などを歴任する一方、雑誌「比牟呂」を編集刊行した。斎藤茂吉に代わって、伊藤佐千夫、長塚節亡き後の「アララギ」の編集をするために上京。茂吉とともに写生の重要性を主張し、文学的生活における「鍛錬道」を唱えた。万葉集を研究し、童謡にも力を注いだ。     (日本経済新聞夕刊文学欄より)