伊澤修二生家
Isawa syuuji's parents' home



 
伊那市指定史跡 (昭和43年5月30日指定)
長野県伊那市高遠町東高遠2130
建築年代/寛政年間(1789~1800)
用途区分/下級武士
指定範囲/主屋
公開状況/公開
高遠藩下級武士の住居で、伊澤修二は明治期に活躍した教育者。

伊澤修二は東京師範学校長、東京音楽学校(現在の東京芸術大学)初代校長、東京盲唖学校長などを歴任し、我が国師範教育の基礎を築いた人物で、嘉永4年(1851)6月、この家に生まれた。父は勝三郎(文谷)といい、俸禄は20俵2人扶持であった。この生家は江戸時代の高遠藩士すべての住宅の間取りを記した御家中屋舗絵図にも「大屋敷裏長屋、●より壱軒目」と記載があり、座敷、次の間、茶の間などはあるものの、玄関がない板葺き石置き屋根の質素な武士住宅であった。昭和43年、郷土の名士を生んだ家であり、残存する武家住宅としても稀少であることから、文化財として買上げて、御家中屋舗絵図をもとに解体復元修理がおこなわれた。また修二の弟、多喜男は政界に入り、各県知事、枢密院顧問官などを歴任し、国家の枢機に寄与した人物である。(現地案内看板より)

伊澤修二先生記念碑
この碑は我が国近代教育の基礎を築いた伊澤修二の功績を称えるため、大正8年(1919)に建てられた。撰文は「高遠公園碑」の名文を記した三島毅、書は岡田起作の手によるものである。
修二は嘉永4年(1851)、この家で生まれ、藩校進徳館に学び、20歳の時、貢進生に選ばれ大学南校に入学した。明治7年(1874)24歳で愛知師範学校長に抜擢され、その翌年、文部省は「師範学科取調べ(調査)」のため米国に留学生として派遣した。帰国後、東京師範学校長、東京音楽学校(現在の東京芸術大学)初代校長、東京盲唖学校長を歴任するなど終始教育に携わり、実践的教育者として師範教育、体操教育、音楽教育等の基礎を築き、さらに吃音矯正法を創始した。大正6年(1917)東京小石川の自宅において病のため急逝された。享年67歳であった。

伊澤修二のことについては、司馬遼太郎著「街道をゆく 台湾紀行」の記述されている。その記述は興味深く、余計な邪文を入れないままが好ましいので、以下そのままに抜粋する。
「伊沢修二は、明治十年代、「小学唱歌集」を編纂した人物である。明治の教育理論の開発者であり、とくに音楽教育において圧倒的な影響を教育界にあたえた人でもある。信州高遠藩の藩士の家にうまれ、藩の貢進生として大学南校にまなんだ。のち工部省に入り、一時期、建築を専門にしたこともあった。のち文部省に転じ、明治7年(1874)、23歳のわかさで、愛知師範学校の校長になった。その翌年、師範学校教育の調査のため米国留学を命ぜられた。入学したのは、マサチューセッツ州のブリッジウォーター師範学校だった。「アメリカでは、大人でも、球戯のような、東洋では児戯に類することに熱中していた」これが伊沢のおどろきだった。驚きにも、才能が要る。伊沢のおどろきと同じ驚きを、他の人は感じなかったからである。伊沢は旧幕時代、高遠藩の藩校進徳館に入り、14歳のわかさで寮長になり、助手ともいうべき句読師をつとめた。だから、儒教教育にも通じ、その欠点もわかっていた。儒教は少年に対し、老成を強いるのである。人間は、一個の精神のなかに、子供と大人を同時に持っている。子供の部分で恋を語り、芸術に接し、科学・技術や芸術を創造する。さらには、正義を語る。だからこそ大人は、終生、自分のなかの至純な子供をひからびさせるべきではないのだが、その方法は少年少女期の教育にある、と伊沢は思ったにちがいない。少年少女期に、童心を純化しておけば、老いてもその人のなかの感受性は衰えない、ということであったろう。その方法を、伊沢は、スポーツと音楽に見出した。とくに良質の音楽は、その人を終生ひからびさせないもとになる、と伊沢は考えたはずてある。」、「27歳、明治11年(1787)に帰国すると、東京師範学校の内容を一変させるかたわら、日本国に音楽を興すべく、まず音楽取調掛の設置を献策し、容れられた。さらにアメリカの音楽教育家ルーサー・W・メーソンを御雇外国人としてまねいた。音楽は、その国の耳になじむものでなければならない。メーソンが、雅楽・俗曲など日本古来の音楽をきいて、伊沢に、「音調が、英国の古い時代か、スコットランドのものに似ている」といったことから、伊沢はメーソンとふたりでヨーロッパの古い曲をあつめ、そのよいものに、日本の歌詞をつけた。伊沢が編んだ明治14年(1881)「小学唱歌集」初編のなかの稲垣千頴歌詞「思ヒ出ヅレバ」はスコットランドの古曲で、またスペインの古曲らしい曲に、野村秋足の歌詞がつけられた。それが、「てふてふ てふてふ。 菜の葉にとまれ」の歌詞で有名な「蝶々」だった。」
伊澤修二がなぜ「街道をゆく」の台湾編に登場するのかについては、日清戦争により台湾が日本領になった際に、総督府学務部長として活躍したことに由来する。後年、台湾総統に就任する李登輝氏の史観として「植民地というのは、トクな面がある。その本国のいちばんいい所が植民地で展開されるからだ」という言葉を伴って紹介されている。
伊澤修二という人物を端的に紹介した司馬遼太郎の文章は、あくまでも彼の同行者の感受性の極みに触れる中で人物引用したに過ぎないのだが、明治維新の時代こそが、近代日本の礎を築いた輝かしい時代と彼は考えていたようで、薩長土肥に代表される藩閥を超えて登用された人物こそが偉人であり、憧憬を抱くべき存在と位置付けるべきであるという考えに立脚すると、この伊澤修二こそが、将来の日本の行く末を見詰めた、本当の憂国の士であったと理解されるのである。


伊澤修二は父・勝三郎、母・多計の5男5女の長男として生まれる。弟の4男・多喜男は東京帝大を出て、内務省に勤務。警視総監を務めた後、台湾総督、東京市長を歴任。勅選貴族院議員となり最後は枢密院顧問官にまで立身した人物。








 

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