黒澤家住宅
Kurosawa



 
国指定重要文化財 (昭和45年6月17日指定)
群馬県多野郡上野村楢原甲200
建築年代/19世紀中頃
用途区分/大惣代・御林守
指定範囲/主屋
公開状況/公開

昭和40年代の中頃までに、そう、ちょうど大阪万博が開催された頃位までに生まれた方の中には、上野村と聞けば「日航機墜落事故」を思い浮かべる方が多いに違いない。昭和60年8月12日、東京羽田発大阪伊丹行き日航機123便が埼玉県西部の山岳地帯を迷走のうえ墜落。520名の死者を出した日本航空機史上最悪の大事故である。多くの目撃情報が寄せられたにも関わらず墜落位置をなかなか特定できず、最終的には上野村の御巣鷹山中で残骸となって発見されたが、救出が遅れた最大の原因は、墜落地点の山深さにあったと云われている。実際、その5年後に私は当住宅を訪れるため初めて上野村を訪れたのであるが、JR高崎線の新町駅から路線バスを万場町で乗り継いだ片道約2時間半の道程に加え、断崖沿いを走る細くカーブの多い山道に少し恐怖を感じたことを今でも記憶している。
この墜落地点となった御巣鷹山は、その名前のとおり鷹の営巣地で、藩政期には徳川将軍家に鷹狩り用の巣鷹を献上していたという由緒がある。御巣鷹山の北東部、神流川が形成する渓谷沿いに屋敷を構える当家は、この御巣鷹山の管理を担う「御林守」を務めるとともに、現在の上野村、旧万場町、旧中里村、旧美原村から成る天領地であった山中領三郷のうち、上山郷の「大惣代」を務めた旧家である。そもそもは桓武天皇を源とする系図を戴く家柄であるが、上野村に土着したのは栃木県の皆川城主であった黒澤左馬助が戦国時代末期に北條方として豊臣秀吉に敗れた後のことで、藩政期には2人扶持、苗字帯刀を許された特別な家柄であり続けた。
住宅は、桁行11間半、梁間9間で、切妻造の石置き板葺屋根の大規模な建前である。建ちの高い総二階建で、2階は居室として細分化されずに、1室のみの板敷の大空間で主に養蚕のために使用されたとのことである。住宅の最大の特徴として、外観的には表側に身分によって使い分けた3つの玄関、すなわち家人が出入りした大戸口、村の寄り合いに際して周辺村々の名主達が出入りした村玄関、巡検に訪れた代官等を迎えた式台玄関を構えていることで、現代的な感覚からは日当たりの良い南面を出入口のために間口の半分を割くなどということは論外なことであるが、当時としては大惣代の格式を示す重要なアイコンであったようである。また内部について最も特筆すべきは、家人の生活空間から切り離すかのように設けられた中廊下を挟む形で、上手に上段の間、中段の間、中之間、休息之間の4間続きの座敷を一直線に配していることで、山深く平地が貴重な土地柄にあって如何に代官を迎えるためとはいえ、4間続きの座敷を構えるということは尋常なことではなく、そのために必然的に梁間9間の奥行きの建前となったことは平地の上層農家でも滅多に見られる規模ではなく稀有なものである。まして当地域の周辺に残る一般の民家と比較したとき、その規模の差は一層際立つものとなっており、他地域の大庄屋に相当する大惣代としての面目を如何とも発揮する素晴らしい住宅である。

【参考文献】
群馬県民家緊急調査報告書 
上州の重要民家を訪ねる(西毛編) 群馬県文化財研究会編
INAX ALBUM 関東の住まい INAX
新指定重要文化財 建造物編Ⅱ 毎日新聞社
上野村誌 上野村の歴史  上野村
 

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