長谷部家住宅
Hasebe



 
福島県指定文化財 (昭和48年3月23日指定)
福島県南会津郡只見町叶津字居平456
建築年代/江戸後期
用途区分/名主・番所
指定範囲/主屋
公開状況/公開
旧長谷部家住宅は規模の大きい上層家屋で、馬屋中門を付けた曲り家です。棟が高く、棟裏には小天井を張り、船枻造で、会津の通例として外縁は備えず、座敷周りに内縁を付けています。元座敷前面にあった乗り込みは撤去され、内部は現在水屋全体まで板敷ですが、もとは一部か土間であったと考えられます。
水屋と居間境の柱は約35cm、居間回りは23cmと太く、居間境、差し鴨居も丈51cmと大きなもので、柱仕上げはいずれも鉋掛け面取りで、天井は居間を除き、上段、座敷、中座敷とも棹縁を用いています。またこれらの部屋にはいずれも面皮長押を廻すなど上等な仕上げになっており、建立年代としては、土間中2階の存在、中引と桁を等間隔に通した二重梁構造などの造作状況等からみて江戸後期と推定されます。長谷部家は旧叶津村の名主を務め、八十里越の番所と制札所となっていました。【現地案内看板より】
桁行24.35m、梁間10.15m

叶津口留番所は、元和2年(1616)の「叶津村御番所古跡の堂」の検地が示すように、これ以前に設置されたと考えられます。また八十里越、越後側の葎谷口留番所が慶長5年(1600)にあったとされることから、叶津口留番所の設置も同時期と推測されます。口留番所とは、江戸時代の各藩が自藩の境界や交通の要所などに設置し、人や荷物の出入りを検査するための施設です。江戸幕府が設置した関所に相当します。また、江戸幕府による施設でも裏街道に設置されたものなど、関所の要件を満たさない小規模なものは口留番所と呼びました。この旧長谷部家住宅し、叶津口留番所と云われました。
寛永20年(1643)、この只見地方が幕府の直轄地となり会津藩の預り地支配が始まると、藩では上番屋1軒、下番屋1軒を建て、その2ヶ所で口留番所の執務に当たりました。宝永元年ゅ1704ょには、上下番屋ともに傷みが酷くなったため、叶津村名主の旧長谷部家住宅へ番所を移しました。その後、享保13年ゅ1728ょからは、長谷部家が番所の一切の執務を行ってきました。叶津口留番所は、門や柵を設けて通行人や物資の出入りを監視していました。取り締まりを行ったものは、女・巣鷹(タカの幼鳥)・駒(馬)・蝋・漆・鉛・熊皮・紙などで、時代を経るにつれ取り締まる対象物は増えていきました。近世から近代になると、只見からゼンマイや蚕種、生糸などを輸出し、越後から塩、魚介類、斧や鋸などの金物が輸入されました。戊辰戦争(慶応4年・1868)の際は、東軍・西軍双方の拠点として使用されました。明治期には叶津、蒲生、寄岩3村の戸長役場(戸籍事務などを行う役所)として使用されました。
旧長谷部家住宅は、時代ごとに様々な役割を担い、八十里越の会津側玄関口として行き交う人々を見守り続けてきたと云えます。 【現地案内看板より】




 

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