旧田山家住宅
Tayama



 
村田町指定史跡 (平成6年8月指定)
宮城県柴田郡村田町村田字西66
建築年代/江戸後期
用途区分/武家
指定範囲/主屋・土蔵
公開状況/非公開
藩政期の仙台藩においては領内の要所を、その重要度に応じて城・要害・所・在所の4つに区分し、一族・譜代の上級藩士を地頭として各所に配する地方知行制が幕末まで維持された。他藩では時代が下るとともに家臣を城下町に集住させ、家禄を俸禄制により支給することで在郷との領主的な関係性を断ち切る政策が採られたが、薩摩藩や仙台藩、佐賀藩のような歴史の長い由緒ある大藩では中世的な支配体制てせある地方知行制が温存される傾向が最後まで見られた。
当住宅が所在する県央に位置する村田は、近年の重要伝統的建造物群保存地区選定により重厚な町家群が建ち並ぶ商家町として注目を集めることとなったが、街道の両側に櫛比する町家群の山手側には嘗て武家屋敷街が形成されていたことは喧伝されていない。村田は先述の区分では所に該当し、江戸初期の貞享元年(1684)に柴田氏4代・常春が村田所3000石を拝領して村田舘主となって以後、慶応2年に柴多常則が失脚し、その子の常質が降格・転封されるまでの約300年間に亘って柴多氏(村田入部直後に柴田姓を柴多に改めた)が所預かりした。ちなみに江戸中期の柴多佐渡の時代(1743-1811)には、家中士107名、足軽35名と記録され、相応規模の城下町が形成されたことが窺える。

藩政期の村田の町割りを知る手掛りとして、「居屋敷並びに家中屋敷絵図面(写)」が残されており、慶応2年に御代官高橋惣助が所有していた図面を筆写したことが判る。
当住宅は村田館の大手前を南北に通る表小路に面し、大手門から城下を直進する大手小路の角から2つ目の区画に位置している。
敷地割図には「鳥羽喜右衛門屋敷二佐藤利作」と書き込みがあり、領主が柴多家から片平家に交替した際に、屋敷の主も鳥羽氏から佐藤氏に替わったものと推察される。公簿には明治20年4月に代替で佐藤利作の所有名義が記録されており、明治38年には田山孫八の所有となったことが明らかである。
住宅は南北方向に11.5間、東西方向に20間の縦長の不整形地で7畝2歩(212坪)の敷地面積を誇る。敷地内には主屋と土蔵が建つ。土蔵は大正期の建築である。主屋は桁行10.1間、梁間4間の萱葺寄棟造の平屋建の建物で、中規模なものである。
主屋は前面中央部に玄関を設えるが、これは後補と考えられ、当初には玄関は無かったものと推測されている。武家住宅でありながら仙台藩における在郷家中屋敷には式台玄関を備えている例が少ないとされており、当住宅も同様であったと考えられている。総じて農家建築に近い武家住宅であったと推定されている。



 

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