粟野家住宅 (庄内屋) |
上山市指定文化財 (平成2年8月14日指定) 山形県上山市楢下 建築年代/18世紀中頃 用途区分/脇本陣 指定範囲/主屋 公開状況/公開 楢下宿は羽州街道の宿駅で、上町、横町、下町、新町とそれぞれ鉤形に曲折して連続する特異な町並を形成している。粟野家は屋号を庄内屋と称し、下町の東側の南寄りに位置する脇本陣である。下町周辺は、嘗ては中央に本陣を務めた斎藤家、北寄りに脇本陣の丹野家等が所在した場所で、楢下宿における中心地であった。宝暦8年(1758)と明治6年(1883)の楢下町屋敷割図が残り、それらに「吉十郎」、「5間9分、5間」との記載があり、現在の屋敷の規模にそのまま一致し、宝暦年間より現在に至るまで敷地の位置、規模に変化がないことが確認されている。住宅は準本陣級の格式を持ち、庄内藩主や藩士達の常宿とされ、庄内候の煙草盆や拝領品が今に遺されているが、その他の諸侯の関札も残されているので、庄内藩に限らず広く利用されていたとみられる。 建築年代については、文献等の資料は残されておらず、平成8~10年にかけて実施された解体修理工事においても墨書等の資料は発見されなかったため不詳であるが、宝暦7年(1757)5月の大洪水に際して流出を免れたと伝えられており、凡そ18世紀中期~後期頃の建築と推定されている。これは楢下宿に残る家屋の中では最も古い時期に該当する。一方、、室内の上段座敷の壁の和紙張りの下貼りから文化6年(1809)の年号が確認されたことから、少なくとも、それ以前の建築であることは間違いないようである。 先述の解体修理工事により建築当初時の姿が判明しており、現在、本棟から曲折して道路側に張り出された突出部は式台形式の玄関棟となっているが、この突出部は江戸期の脇本陣として整備された際に付加されたもので、当初は玄関としての構えはなく蔀戸が設えられていたと推測されている。修理工事に際しては、脇本陣であることを考慮して、当初の形に復さず、玄関を整備した時期の復原に留めたとのことである。ここから奥の方に「玄関の間」、「中間」2室、「上段」と一列に並び、この棟に対して直角方向に広い「カツテ」と「ニワ」から成る本屋棟が続き、本屋の裏側には土蔵と接続する斜行した廊下状の繋ぎがあり、ここには「シモイロリ」が設けられている。 【現地案内看板より】 |