本間家住宅
Honma



 
山形県指定文化財 (昭和28年2月20日指定)
山形県酒田市二番町7-12
建築年代/明和5年(1768)
用途区分/商家(大地主)
指定範囲/主屋・長屋門
公開状況/公開

本間家は、江戸時代より商業・金融業を営み、酒田随一の豪商に成長しました。江戸末期から明治・大正時代にかけて田畑1800町歩、一説では最盛期には3000町歩とも云われる日本一の大地主となりました。
江戸時代には、藩主を凌ぐと揶揄されたその経済力から、「本間様には及びもせぬが、せめてなりたや殿様に」という歌も詠まれる程の栄華を誇りました。
現在、本間家の旧本邸と別邸が一般に公開されています。別邸は港湾労働者たちの冬期失業対策事業として築造した別荘です。別邸「清遠閣」には、大正14年に、東宮殿下(昭和天皇)がご宿泊されました。別邸の池泉回遊式庭園「鶴舞園」は、北前船により全国の銘石が寄り集められた、鳥海山を借景とする名園です。【東北三大地主・池田邸の案内看板より】


歴史的背景
港町・酒田は寛文12年(1672)に河村瑞賢が酒田湊を起点とする西廻り航路を拓いたことに始まる。貞享5年(1688)に書かれた井原西鶴の「日本永代蔵」は、全国各地の豪商・分限者たちを紹介した書物であるが、酒田ついては鐙屋の繁盛振を伝えるが、この時点では本間家のことについては触れられていない。実は本間家初代・原光が酒田本町に「新潟屋」の看板を掲げて、米、大小豆、古手、瀬戸物、薬、両替を商ったのは<、翌年の元禄2年(1689)のことなのである。
宝永4年(1707)には、酒田の商業を司る長人(おとな)の列に加えられ、36人衆となっている。
元文元年(1736)に2代・光寿が350俵の土地を買収し、地主化の傾向が確認される。光寿は宝暦元年(1751)には、座頭連判貸しを創始し、公益を家訓とする。
宝暦8年(1758)には3代・光丘が西浜に植林を始め、日和山に砂俵を積み上げ、一台横丘とし、飛砂の害に苦しめられた酒田の町を救済している。また光丘が幕府巡見使の宿舎として2000石格旗本屋敷を献上したのは明和5年(1768)のことで、「備荒籾」2万4000俵を備蓄したものも同年のことである。










 

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