青山家住宅
Aoyama



 
国指定重要文化財 (平成12年12月4日指定)
山形県飽海郡遊佐町比子青塚155
建築年代/明治23年(1890)
用途区分/漁家
指定範囲/主屋・小座敷・西土蔵・東土蔵
公開状況/公開

青山留吉翁彰徳碑 解説
青山留吉は羽後国飽海郡青塚村で、父・嘉左衛門、母・清の4男3女の6番目の子供として、天保7年9月に生まれた。11歳になると、願専寺の青塚義諦師に読み書きを習う。貧乏な中、母に付いて魚を酒田に売りに行き生活していた。15歳以後は父と漁業を行う。18歳、由利郡塩越村の須田仁右衛門の養子となる。須田家は農漁業を行っていたが、古い習慣を固く守っていたので、留吉の盛んな志に合わなかった。そこで22歳の時に意を決し、須田家を辞して生家に帰る。留吉は、生まれつき爽快で創造的な性格、しかも独立心が強く、ずっと胸に秘めていた望みを北海道でかなえたいと思っていた。そこで、事業の適否を試みようとして、安政6年正月2日、波に漂うような小舟に乗って北海道に向かい、後志国高島郡祝津村に着く。そこで寺田九兵衛の雇い人になり7ヶ月間働く。その間、留吉はことごとく辛苦を経験するが、その働きを見て九兵衛は彼は必ず後に名を成す青年だと思った。留吉は漁業で利益が上がるのを細かな所まで学び、一旦、青塚に帰り父母に相談する。翌年7月、わずかな米と塩を借り波風を押し切って進み、再び祝津村に向う。祝津村に戻った留吉は、田中某から漁場を借り、茨で荒れ果てた土地を刈り除き、風雨を凌ぐ小屋を仮設し、獲った魚を自ら背負い小樽に売りに行った。ここは厳寒の地であり、他の家では炉で暖を取って寒さをこらえている時でも、一人山に入り薪を取りに行ったりしたが、積雪や骨まで凍みるような寒気の中でも働き続け、窮地に陥ることもあった。また漁のできる日は遠洋に出て、強い波風で船が転覆しそうになったりしたが、諦めることなく働いた。こんな時に父と姉の訃報を聞き、やむを得ず青塚に帰り家事を見る。暫くして祝津村の特許漁場に戻るが、ここが北海道に土地を持つ始まりとなる漁場である。その後、秋ごとに青塚に戻り家事を見ながら忙しく働き、漁業経営もようやく安定するようになる。そして家屋を新築して鰊建網漁場を開設する。次第に事業も拡大、隆盛を極め、漁夫300人余り、漁船数百、漁場数十を有するようになる。明治41年8月、漁場を青山政吉に譲り、青塚に隠居する。北海漁業を経営すること50年余り、留吉翁、優れた我慢強さで注意深く、いても勤勉、倹約を心掛けて何事も行い、決して奢らず巨万の富を築くのである。そして年老いてもますます丈夫で、務めて一家の暮らし向きを見るとともに親族や村の人々を教え諭す。想像するに庄内浜の漁民が、北海道遠洋漁業に関わるようになったのは、留吉翁の影響ではないだろうか。
連れ合いの小山勘は内助の功がある。青山米吉、青山市五郎、それぞれ分家する。今ここに留吉翁78歳、一族で相談し、彰徳の碑を建てようとして私に撰文を依頼する。私は留吉翁をよく知っている一人でもあり、恩義として断ることはできず、留吉翁が築いた生涯の大筋をここに記す。【現地碑文解説看板より一部改編】




 

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