多聞院伊澤家住宅
Izawa



国指定重要文化財 (平成2年9月11日指定)
岩手県和賀郡和賀町岩沢9地割48
建築年代/18世紀末〜19世紀初頭
用途区分/修験者
指定範囲/主屋・久那斗神社里宮
公開状況/公開

広大な北上平野から利賀川に沿って横手方面へと西に向かう途中、ちょうど山間部に差し掛かる辺りに当住宅は所在する。まるで隠れ里の様な場所で、車の乗り入れが躊躇われる里道を伝い、JR北上線の線路に行く手を阻まれるが構わず歩を進めていくと針葉樹の屋敷林を背負って厳かに佇む当住宅に辿り着く。当家は住宅背後の林中に所在する久那斗神社里宮の別当を務めた家柄で、多聞院の名が冠されていることから推察されるとおり、修験者の住居である。周囲には羽黒山や月山などの修験の山々が連なり、超人的な能力により人々から畏敬の念を持たれた山伏の住居に相応しい風情である。住宅内部についても、一般の庶民住居とは著しく異なり、上手座敷を社寺建築特有の虹梁、円柱、大瓶束といった建築部材に囲まれた修験道場に充てられている他、土間が極端に狭く、間取りなども異質である。


多聞院伊澤家は里に住み着いた修験者(里修験)で、仙人権現(明治以降は久那斗神社となる)の別当として、江戸時代中期以降、この地域で勢力を持っていた。多聞院は18世紀後半から19世紀初期に亘る秀慶、秀廣の時代が最も盛んであったが、天保14年(1843)、西和賀の霞処(縄張り)を取り上げられて衰退した。
伊澤家住宅は、この地方の農家と変わらないが、修験者の住宅として特徴があるのは、座敷と道場境に円柱を立て、大きな虹梁を架け渡し、堂の手法を用い、両室を一室として使えるようにしていることである。また虹梁上の壁や道場の内法上の壁に漆喰彫刻を用いていることも注目される。
主屋の建築年代は、文献資料が無く明らかでないが、建物の構造、形式等から見て多聞院が盛んであった18世紀末ないし19世紀初期の建築と考えられる。主屋は桁行10間半(20.4m)も梁間6間弱(11.2m)、寄棟造茅葺の建物である。間仕切りの位置を移動し、土間に新しい部屋を設けるなど後世の改造はあるが、当初の間取りの概略は掴める。
主屋の後方にある久那斗神社(附指定)は、修験活動の根拠となった建物で、天明7年(1787)の建立である。桁行3間、梁間2間、入母屋造鉄板葺、正面に向拝1間を持つ小堂である。
伊澤家住宅は、江戸時代における山伏住宅の実態が殆ど判らなくなっている現在、修験道場施設を内に含んだ住宅例として貴重である。【現地案内看板より一部改編】


 

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