| 平野家住宅 Hirano ![]() |
| 花巻市指定文化財 (昭和54年12月12日指定) 岩手県花巻市桜町4-83-5 (移築・復元) 旧所在地・岩手県花巻市桜町2-182 建築年代/19世紀初期 用途区分/武家(同心) 指定範囲/主屋 公開状況/外観のみ公開 花巻の町は岩手県中西部に位置し、空港所在地として岩手県への空の玄関口という存在感も無い訳ではないが、凡そは広大な北上平野に営まれる田園地帯が拡がるばかりで、人口9万人弱程度の小都市に過ぎない現状は、今の世においては若干存在感が薄い。私も花巻と聞いてすぐに思い浮かぶのは、花巻温泉ぐらいである。しかし嘗ての藩政時代においては陸奥を南北に縦貫する奥州街道の宿駅が営まれ、東の方向に遠野街道が分岐する交通の要衝地というだけではなく、東北の大藩である仙台藩伊達家62万石に対峙する盛岡藩南部家10万石の防衛拠点的な位置付けがなされた土地柄だったのである。そのため一国一城制を基本とした徳川幕藩体制下において岩手県中北部を封知された盛岡藩南部領内でも、例外的に盛岡の本城以外に花巻城は出城(抱城)として認められた程であった。 そもそも鎌倉御家人の系譜を引き南部藩祖として崇められる南部信直は、天正18年(1590)に豊臣秀吉より「南部内七郡」の本領を安堵され近世大名として認知される存在となった。その後の慶長5年(1600)の関ケ原合戦後には徳川家康からも本領を安堵され、幕藩体制下でも盛岡藩として実質的な成立を見ることとなる。藩祖となった信直は重臣・北秀愛に8000石を与えて花巻城代とし、秀愛は城下町の建設に着手するも、途上で逝去。彼の死後は父・信愛により事業は継承されたが、慶長18年(1613)に信愛が逝去した後は、2代藩主・南部利直の庶子・政直が入部し2万石の城下町となった。政直の死後は血脈が絶えたため、寛永元年(1624)以後は城代が派遣され、花巻は盛岡に次ぐ重要拠点として位置付けられ、仙台藩境の警備を任された。天保15年(1844)の記録では、御給人171名、御与力4名、御同心70名が配置されている。もちろん、この配置人数は藩領内における最大の在郷武家数を誇るものであった。 さて、ここで紹介する平野家住宅は、花巻城外の向小路(現・桜町)に住した在郷武家の御同心の住居遺構である。昭和49年に調査が実施され、昭和53年に刊行された民家緊急調査の報告書には、当住宅について次のように記述されている。 「花巻市桜町に同心組の屋敷がある。向小路と称し、以前は道路の両側に短冊型に割られた屋敷地に15戸ずつ計30戸が建ち並び、小頭2人、組頭6人の構成を取り、小路の南、北両端には木柵を備え門番所も設けられていた。現在では改変が甚だしく、僅かに数軒を遺すのみで、既に町並の面影は失われている。豊臣秀吉の臣・浅野重吉は鳥谷ヶ崎城にあって(南部家の家督争いに端を発した)九戸の乱に当たったが、乱平定後残していった配下の一隊が同心組となったもので、はじめは花巻城二の丸下の馬場に住んでいたが、延宝8年(1680)に至り、現在地に町割をして移り住んだものと云われている。平野家は街道の西側、同じく花巻市の文化財に指定される今川家は東側にある。平野家は元・四戸氏の居宅で、明治末年に移り住んだものである。平野家は比較的保存の良い遺構で、建築年代は藩政末期頃のものと推測される。台所棟と座敷棟とが常居(茶の間)部分で直交し、曲り屋形態を取る。道路側からみれば、道路に平行に置かれた台所と常居を含む本棟に、奥に座敷を突出させて曲り屋にした形である。台所は常居の南側に位置する。外壁は大壁で、常居の道路面に窓を取り出格子を付ける。屋敷間口は7間~8間で、西側の家と東側の家とでは、家の配置は道路を中心に対称形になっている。屋敷への出入口は台所の南側になるが、建物への入口は台所の妻側に取っている。同心屋敷は2室の座敷部(座敷と常居)に台所が付いた形の曲り屋と見て良いが、厩は見られない。」 また、報告書内の当住宅の項では詳細に触れられていないものの、総括文中には「当住宅は主棟に対して角屋を突き出す曲り屋形式を採っているが、岩手県遠野地方の曲り屋とは大いに成り立ちを異にするものだ」という旨の記述がなされている。即ち厩を屋内に配置することで人馬が同一空間で生活する当地方に特有の習俗に基づくものではなく、乗馬を前提としない下級武家ゆえに当たり前といえばその通りであるが、曲り屋形式が取られた理由を別の系譜に求めるべきだと見立てているのである。(世間一般に知られる遠野の曲り屋とは別モノだということである) ところで報告書の記載にあるとおり、花巻城を守護する御同心達が、かなり特異な経緯によって当地に配された人々であったことが先の解説から窺い知れるが、「豊臣秀吉の重臣であった浅野重吉が当地から引き揚げる際に残していった配下の者たちが、そのまま御同心組となった」という事象について少し補足が必要だろう。南部領の事蹟に、なぜ豊臣秀吉の臣・浅野重吉が絡んでくるのか。岩手の歴史に疎い方には少し解説が必要と思われるので、以下に概略を述べることとしたい。鎌倉御家人にルーツを持つような古い家柄の藩主家では藩政成立初期に内紛を起こしている例が意外に多い。これは同じ血筋を有する一族が幕藩体制が構築される途上で、宗主家に服属を強いられることになった為である。それまでは宗主家と一族家は並列に近い関係性にあったものが、殿様と家臣という上下の関係性を強いられることになるのである。これに反発した一族家が内乱という形で、跡目争いに抗じた例が頻発したという訳である。南部家においても一族の九戸政実によって天正19年(1591)に起こされた九戸の乱が同様の例で、歴史上最も激しい内乱であった。そもそも争いの発端は南部宗家第26代・南部信直が実は嫡流でなかったことにある。第24代・南部晴政の時に一族の石川高信の長男であった信直は、男子のいなかった晴政の跡取り養子として迎えられたが、その後に晴政に嫡子・晴継が生まれたため、信直は嗣子を辞退する。しかし第25代となった晴継が13歳の若さで亡くなったため、信直は再び嗣子として返り咲き、第26代当主に就任する運びとなったのであるが、これに反対し次の家督相続に晴継の姉婿であった九戸実親を推す一族の九戸政実と争うこととなったのである。実は南部氏は九戸氏の反乱に対して、領内における権力基盤が脆弱であったため自力でこれを収束させることができず、臣従していた豊臣秀吉に援軍を要請、秀吉の配下で東北地方の代官職にあった浅野重吉等の東北諸大名の連合軍の助力を得ることで、ようやく乱を鎮定することができたのである。要は他人の褌で相撲を取ったのである。その際、乱後の政情不安を懸念した浅野重吉は、引き揚げに際して花巻城守備のために自らの一隊を当地に残した。これが花巻御同心となって明治維新まで継続したという訳なのだ。(ちなみに浅野長吉は豊臣秀吉の直臣として信頼厚く、秀吉の逝去前には五奉行筆頭に任じられた程の人物であったが、関ケ原合戦では東軍に味方し、戦後は真壁藩5万石を与えられた) 平野家住宅の当初の戸主であった四戸氏が、浅野重吉の歴代の家臣であったか否かは定かでない。四戸という南部藩領特有の姓氏から地付きの家系であった可能性も高い。また御同心株は幕末頃には金銭で売り買いされたこともあったらしく、江戸初期から続く家系であったかどうかも判らない。ただ浅野重吉自身は豊臣政権末期には五奉行筆頭にも任ぜられる程の人物であったが、決して大身の知行取ではない。尾張国の小城主の家系に生まれたが、石田三成と同様に官僚的な資質に恵まれての重用であったと思われ、奥州仕置の段階では未だ決して大勢の家臣団を抱えていた訳ではなさそうである。そうした背景から四戸氏は恐らく東北代官に任じられて以降に新たに召し抱えた現地採用組の面々であったのではないかと推測するのが妥当なところではないだろうか。(あくまでも四戸氏が浅野重吉が残していった御同心の末裔だとすればの話である) さて本題の平野家住宅のことである。先述のとおり2つの棟が直角に合接する曲り屋形式の主屋である。茅葺寄棟造平屋建で武家住居らしく建ちが高い建前であるが、恐らくこれは格式を示すわけではなく、雪深い地域性を色濃く反映したものであろう。主棟は桁行9.35m、梁間5.73m、これに付属する角屋部分は桁行2.89m、梁間5.53mと、かなり小振りな建築である。浅野重吉の下知により花巻に留め置かれ、二の丸下の馬場に住していた江戸初期の事であればいざ知らず、建築年代と推定される19世紀初期の建物としては、農村部の小農住宅と比較しても劣るのではないかと思われる程に粗末な建前である。御同心の平均的な俸禄は3駄2人扶持と推定されており、米俵(1俵=60kg)換算で16俵、石高にして8石程度の最下級武士であったとはいえ、武士の体面も何も有ったものではない。この点について考えるとき、私見ではあるが、御同心の住居は官舎であって、自前の住居ではなかったという点を鑑みることがポイントと見る。何事も旧規のとおり踏襲することを得意とする官僚集団にとって、19世紀初期の住宅建替に際しても向小路に移転を余儀なくされた延宝8年(1680)頃の建前がそのまま踏襲された可能性が高いのではないかと思われる。その意味においては、17世紀にまで遡る住宅建築が残存していない東北地方において、下級武士住宅という限定的な階層の住居とはいえ、原初的な建前を知る貴重な存在と考えられなくもない。 ところで、屋敷のあった向小路は花巻城からは1km程も南方にあり、城の前濠の役割を果たす前沢川を渡った城外の地に在る。向小路は南北方向に延長100間(約180m)に及ぶ同心町で、街道に沿って左右に各15棟ずつの御同心住居が対称形に並んでいたが、街道の先は伊達藩領へと続いている。つまり同心町の立地は明らかに仙台藩伊達家に対する警戒のための前哨的な配置であり、各住戸は街道に面する表側を土壁で覆う閉鎖的な設えで、唯一出格子窓を開くのみとしている点や、主屋内へ出入口は必ず建物南面に設けている点などは、恐らく街道筋を通る軍勢を迎え撃つことを想定、意図したものと考えられる。260年間にも及ぶ太平の世を謳歌した江戸時代にあっても、こうした造作は彼らが何故にこの場所に住まうことになったかという歴史的事実を如実に示しており、僅かな扶持を宛がわれるのみでありながら、常に戦時に臨むことを強いられた御同心達の立場は如何ばかりのものであっただろうか。花巻の同心屋敷は故郷を捨てて、縁も所縁もない土地に居残された人々の住居である。九戸の乱鎮静後に浅野家の同僚達が撤退していく中で、自分たちのみが全く地縁血縁もない土地に残され、恐らく当時のことゆえに言葉もろくに通じなかったであろう状況下に置かれた心境を想像すると、ひたすら哀れを催すばかりである。 さて最後に蛇足となることを承知で一言だけ述べさせてもらいたい。南北の街道筋の両側に各15戸ずつ、計30戸が建ち並んでいた同心屋敷は、昭和30年頃には10戸に減り、最後に残った2戸(平野家・今川家)が昭和54年に現在地に移築保存されたという経緯を辿る。ただ、この時の移築は本来の建物の向きを全く無視した形で実施されており、街道に面して攻め手を迎え撃つという同心屋敷の役割が微塵も感じ取れない配置となっている。現地保存が叶わなかったというならば、せめて当初の有り様を、向小路における御同心屋敷としての意味を残してもらいたかったというのが、民家を愛する者としての我儘である。 (2025.11.4記) 【参考文献】 日本の美術No.296武士の住居 藤村泉著/みちのく民俗村にみた民家の発達 北上市立博物館発行/ 岩手県の民家 民家緊急調査報告書 昭和53年岩手県教育委員会編 |