土田家住宅 Tsuchida ![]() |
国指定重要文化財 (昭和48年2月23日指定) 秋田県由利本荘市矢島町元町字相庭館9 建築年代/江戸時代(17世紀後半) 用途区分/農家 指定範囲/主屋 公開状況/非公開 東北の名峰・鳥海山の北麓にある矢島町の中心部に所在する農家建築である。当家は木曽義仲の重臣で木曽四天王の一人と称された根井(根縫井)小弥太正重の末裔と伝える家柄で、中世には由利十二頭に列せられた国人領主として当地を支配したが、江戸初期に帰農して当姓を名乗ったという。主屋は帰農し延宝6年(1676)に没した初代・清左衛門が建てたと伝承されており、手斧仕上げの栗柱が一間毎に立つ古式な建前で、東北最古級の住宅建築である。現在は座敷側に中門を突出させる片中門造となっているが、解体修理以前は土間側にも中門を突出させる両中門造の姿であったが、後世の改造との判断により取り除かれている。建築当初から上座敷には天井や長押が設えられ、一般の農家ではなかったことを暗示する造作も興味深い。 根井家由来 清和の御末・木曽佐馬守朝日将軍源義仲公の家臣・小弥太滋野ノ朝臣行親なり。義仲頼朝のため近江粟津ヶ原にて討死なり。行親四天王と号して名を顕し、終に敵に討たれずして自害す。之に寄り信州義仲滅亡の後、行親の末子、即ち式部太夫と云う。信州を立ち退き、羽州由利の郡矢島の庄にて年久しく蟄居して、民を従いて土地を開かせ、子孫繁栄す。相随う領地の村は、吉谷地村、上直根、下直根、猿倉、百宅、大河原、小田、新町、須郷田、相庭館、其の外小村合わせて高弐千五百石余なり。氏神信州諏訪大明神を根井館に勧請し、則ち社家弐人、佐藤但馬、佐藤伊勢幣を捧げて3月18日縁日に一門類属を祈る。式部太夫家督段々相続して、五郎衛門尉親光迄領地別儀なし。 上総介継目のため御目見として大坂に参勤す。献上物熊皮5枚・銀子弐拾枚なり。然るところ太閤、高麗御陣にて大坂に在り、3年詰候得共御朱印出ざるゆえ下着す。翌年また参勤して大坂に上着す。献上熊皮5枚、銀弐拾枚を以って御目見申し上る。此時御朱印奉行中の取次を以って下し置かる。則ち頂戴するなり。高弐千五百石、羽州油利の内矢嶋なり。秀頼公へ御目見申し上げず下着す。一家の安座此時なり。上悦として、兵庫頭、上総介宅へ来る。兵庫頭、上総介に云う。其の方、年若の事覚束なし。御朱印某に預けおくべしと云いて直ぐに我が館に持ち行く。然るところに兵庫頭乱心して鉄砲にて自害するなり。居宅に火をかけて滅亡するなり。それ故、兵庫頭御朱印も、上総介御朱印も一緒に焼失する。其の後、また大坂へ参勤のため上着す。太閤程なく他界ゆえ、秀頼公へ御朱印の儀願い奉り候得共、最早大坂騒動し、中々御朱印の沙汰に及ばず、下着す。それ以来参勤せず、関東御利運家康公江府御下向有りて、天下の御朱印御改之節、上総介御朱印焼失の旨申し上げると雖も、御取り上げ之無く、右の領地押領地と仰出られ、則ち召し上げられる。此の時浪人となる。之に依りて根井の名字相止め、遠藤と号す。上総介程なく病死し、則ち金嶺山龍源寺に於いて葬る。是菩提の地なり。上総介惣領靱負佐、子無くして弟の三小右衛門尉茂親を養子とする。然る処に寛永年中に讃州の城主・生駒壱岐守高俊流罪として大猷院様御政務の御時、由利矢嶋へ高壱万石にて下着す。此節、茂親ならびに兄・茂次両人、高俊迎えとして同国の内最上まで出る。道中において壱岐守に初めて謁して則ち附属す。茂親宅を高俊陣屋とし、茂次宅を高俊老母圓智院借宅するなり。高俊普請出来移徒す。其の後、上総介末子女に小番の家より孫兵衛尉茂広を婿となし、高俊へ目見申す。領分郡方支配なり。高俊病死して、家督を左近高清なり。此の時、茂親を家老として、左近矢島城内に住居し在所す。其の後年58、申の年中気にて卒す。 遠藤清左衛門様 根ノ井恵左衛門 |