鈴木酒造店
Suzuki brewery



 
登録有形文化財 (令和2年4月3日登録)
秋田県大仙市長野字二日町9
建築年代/明治中期
用途区分/商家(酒造業)
登録範囲/事務所兼主屋・上座敷・文庫蔵・前蔵・仕込蔵・北蔵・中蔵及び袖蔵
公開状況/酒造店として営業中
雄物川の河川敷で毎夏開催される大花火大会で全国的な知名度を誇る大曲と武家屋敷の黒板塀越に枝垂れる桜の名所として県を代表する観光地となっている角館の中間に位置する在郷町・長野の中心部に所在する酒造屋敷である。長野は関ケ原合戦において旗幟を明らかにしなかった咎により徳川幕府から国替えを命じられた佐竹候が慶長7年(1602)に常陸国太田より出羽国に入部した際に、藩主一族の佐竹北家を最初に配置した土地で、当初はその居城となった紫嶋城の城下町として発展したと推測されている。現在でも長野の小字に二日市、六日市、九日市の地名が残るのは往時に定期市が開催された証左と云われている。また藩政初期から角館を領有した芦名家が無嗣断絶により改易となったため、その後釜に佐竹北家が「所預り」として角館に拠点を移した明暦2年(1656)以降においても、長野は在郷町として町場の機能は維持し得たようで、少し間を置いて藩政後期の寛政6年(1795)には郡方役所として御役屋が置かれたことからも推察されるとおり中仙地域の中心地として位置付けられ続けたようである。一方、そもそもの話として江戸期における藩内の物資輸送は専ら河川交通が担っていたことは知られるところで、長野は秋田藩内の大動脈である雄物川の神宮寺港から支流である玉川を利用した角館の岩瀬港に通じる舟運の積替港としての役割を担っていたことが発展の素地としてあり、また陸路では羽州街道の大曲宿から分岐して角館城下へと繋がる角館街道の中間宿として機能したようである。即ち一言で云えば、交通の要衝地であった訳である。
ところで実際に長野の集落を歩いてみると町内を縦貫する旧角館街道(現・県道253号線)の両側に櫛比する町家は、間口が狭く、奥行きを深く取る短冊状の敷地となっていることにすぐに気付かされる。また町の中央部で街道は鍵状に曲がって桝形となっている。これらのことから町場はかなり計画的に整えられたものであることが判るが、それが佐竹北家配置時にまで遡る話であるか否かは定かでない。また町の様子は桝形を境に南北で異なっており、北半は間口の狭い町家が多く、宿場町的な風情であるが、南半は酒造屋敷を中心に比較的大規模な屋敷構が目立つ街村的な風情である。藩政期において町場の南端に御役屋があったことから、周辺は武家地であった可能性も考えられ、町は南北で商人地と武家地に区分けされていたのかもしれない。だとすれば、町場の整備が進んだ時期は藩の御役屋が置かれた寛政年間以降ということになるのかもしれないが、これもあくまで推測の話である。
さて、桝形の角脇に黒板塀を廻らせて広大な屋敷を構える当住宅は、元禄2年(1689)の創業という老舗の酒造家で、東北地方においては屈指の長い歴史を有する存在である。屋敷の北寄りの街道から少し奥まった位置に西面して切妻屋根妻入の主屋が建つ。明治中期の建築なので然程に古いものではないが、近代町家とは思えない程に控え目で質朴な佇まいである。また板塀越に主屋脇に整えられた池泉庭園の巨大な樹木が聳え立つ様子など屋敷全体が醸す風情には長い歴史を有する旧家のみが放ち得る何とも云い難い品が漂っている。全国で数多くの町家を見てきたが、これほどまでに奥床しく、侵し難い気配を感じる町家はそうあるものではない。実に素晴らしい町家建築である。
また表構えも然ることながら、主屋内に足を踏み入れた際に展開する通り土間沿いの景色も素晴らしい。主屋の南側には奥の醸造場まで一直線に通り土間が続いており、土間北側には事務室などの諸室を配置する一方、反対の南側は採光のためガラス引戸としているため、主屋南脇の広大な池泉庭園を直に臨むことができるのである。即ち、この通り土間が雪国に見受けられる雁木のような建前になっているのである。そして、ここから眺める庭園の厳かな風情は筆舌に尽くし難い。私が訪れたのは夕暮れ時であったが、樹齢500年にも及ぶ桂の木を中心に、池泉を取り囲む木立の隙間から橙色の光の束が土間に降り注ぐ様子に神々の存在を思った程である。現在、屋敷内に残る建物群は明治~大正期の建築であり、創業当初からの建物は残されていないため、この桂の木が永く家の歴史を見守り続けてきた唯一の存在なのである。英国の幻想小説として名高いR・R・トールキン著の「指輪物語」に登場する王都ミナスティリスの宮廷前庭には王の在位を示す「白の木」が描かれているが、まさしく、この桂の木の存在が白の木と同様に当家の全てを象徴するような気がしたと書くのは穿ち過ぎであろうか。
ところで、当家初代の鈴木松右衛門は伊勢国の出身で、寛文2年(1655)に出羽国に来住し、農業に勤しみ地主化、その後34年の時を経て酒造を開始したという。当初は「初嵐」という銘柄だったらしいが、宝暦年間に秋田藩主佐竹候による酒の品評会で当時の御用酒であった「清正」よりも秀でているとのことで、戦国武将・加藤清正の主人であった豊臣秀吉の名を掛けて「秀よし」と銘するように御下命があったとのこと。江戸中期の逸話ながらに徳川政権下において豊太閤を偲ばせる命名は、余程の胆力が無ければできない芸当である。しかし実際に「秀よし」が佐竹候の御用酒に指定されたのは嘉永元年(1848)になってからのことのようで、幕府の威光が衰え始める時期にまで藩を代表する銘酒としのて位置付けを見合された格好である。この経緯は詳らかではなく、個人の穿った見方になるかもしれないが、酒の勢いに任せて藩主が命名したまでは良かったものの、一旦酔いから覚めれば、やはり徳川幕府から疑念を抱かせるような振る舞いと捉えられかねず、藩政を預かる官僚達は公認を先延ばしにせざるを得なかったという顛末が想像される。しかし、この与太話が当たらずとも遠からずということであれば、これを佐竹候の腰砕け振りを伝える滑稽話とするか、それとも外様中藩の悲哀を伝える話と解釈するか、秋田県人の思いを聞いてみたいものである。 (2022.7.31記)

 

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