佐藤政忠家住宅
Sato Masatada



 
無指定・公開
秋田県由利本荘市矢島町矢島町32
建築年代/明治2年(1869)
用途区分/武家
残存建物/座敷棟及び台所棟


佐藤政忠家住宅は、明治2年(1869)に建てられた武家住宅です。明治元年の戊辰戦争により、八森陣屋と城下は殆ど焼失しましたが、翌2年には版籍奉還による矢島藩庁の成立と共に城下の復興工事が行われました。本住宅は、時の矢島藩大参事で、藩政時代には江戸家老であった加川退蔵住宅として建てられたものです。当時の加川家住宅は、旧八森陣屋大手門脇の堀端(城内大路第1区6番)にありましたが、明治5年に加川家が東京へ転住するにあたり、佐藤政忠が所有、その後現在地へ移築されました。
佐藤家は、矢島藩の飛地領であった仙北大沢郷(現・大仙市大沢郷宿他)約1400石(宝暦8年(1758))「御領分中覚書」の大名主で、天保2年(1831)の領地替えにより矢島に移り、時の大名主・佐藤治郎兵衛正容の代に矢島藩家臣に召し抱えられました。この矢島初代正容の子が本住宅を購入した佐藤政忠です。政忠は戊辰戦争では百宅口(由利本荘市鳥海町)隊長として指揮をとり、戦争後は少参事、明治4年の廃藩置県後は士族授産を受け、「康済義社」を設立し近代製糸産業に着手、また明治6年の大・小区制施行時には第4区長(由利郡長の前身)となりました。
本住宅は145.643㎡、矩折の平屋で、西側通りの桁行7.5間は座敷棟、南側通りの桁行4間は台所棟に大別され、屋根は緩い勾配の切妻屋根を上げて、矩折の接続部は隅木入りに曲がっています。建築当時の屋根は柾葺でしたが、今回の復元は銅板となっています。外観は、座敷側の西面に出窓を設けて繊細な格子を組んだ猿頭付の板屋根で、また軒廻りは出桁を組んで棰軒を見せています。本住宅の意匠は、外観および内部空間とも簡潔に作られ、清楚さを追求した高風な意匠の武家住宅といえます。家伝によれば、本住宅は当時の江戸大工の手によるものとされており、その洗練された意匠からみて、この伝えは正しいものと思われます。全体として当時の住宅建築の特色をよく示し、当時の建築(住宅)の使い方(住まい方)を知る上で貴重な存在であるといえます。【現地案内看板より】



 

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