斎彌酒造
Saiya-Brewery



 
国登録有形文化財 (平成10年9月2日登録)
秋田県由利本庄市石脇字石脇53
建築年代/明治35年
用途区分/商家(酒醸造業)
登録範囲/住宅、店舗、漬物蔵・壜蔵・事務所・釜場・西蔵・旧米蔵
公開状況/酒蔵として営業中
由利本荘市は神奈川県の半分程の面積を誇る秋田県内最大の自治体である。市域は江戸期の本荘藩六郷氏2万石、亀田藩岩城氏2万石、矢島藩生駒氏1万石の三大名家の藩領に該当し、縦長の地形で南北間の距離は約70kmにも及ぶ。この三藩は多分に漏れず嘗ては藩境争いを繰り返した間柄で、時代を経ても変わらぬことが多い領民間の気質の違いを乗り越え、よくぞ合併に至ったものだと感心もさせられる。合併後に実施された役所機能の統廃合により行政の施設が集中するのは旧本荘藩の城下町であった本荘地区であるが、当住宅はこの城下町とは一級河川の子吉川を挟んだ対岸に位置する石脇地区に所在する。現在、旧本荘城下町とは由利橋で結ばれ、一体的に発展してきたように見受けられる石脇地区であるが、実のところ嘗ては本荘藩領には属さず、亀田藩領の津出場として発展した在町であった。現在でも往時の面影を残す町並は子吉川と並行する石脇通りに沿って形成されているため宿場町的な様相を醸しているが、藩政期の石脇は藩米の輸出拠点として亀田藩の米蔵(石脇御蔵)が置かれ、日本海を往来する北前船が寄港するばかりでなく、藩内を遡上する芋川の河川交通の積替地として栄えた湊町だったのである。一方、亀田藩領の中心拠点である亀田陣屋はJR羽越本線・亀田駅の東方内陸部に位置する岩城地区にあり、何故にこのような中途半端な場所に城下町を造ったのか訝しく思う程に辺鄙な場所である。中高年世代の中には、松本清張の「砂の器」を原作とする野村芳太郎監督の映画の一場面、東北弁のような言葉を話す殺人犯の出身地を島根県の「亀嵩」を錯誤して秋田県の「亀田」出身に違いないと捜査を始めたシーンを覚えておられる方もいるかも知れない。確か延々と田圃が続く景色が映し出されて、東北の寒村といった風情で描かれていたように記憶している。実際は小藩のものとはいえ、相応の城下町として発展した町場であったにも関わらずの事で、地元の方は複雑な気持ちでご覧になっていたのかもしれない。さて話を元に戻して石脇のことである。亀田城下から直線距離で15km以上も離れた遠隔地にあり、江戸中期には藩境を争った本荘藩城下の対岸という危険極まりない立地条件ながら、亀田藩は何故に此の地に藩米の津出場という藩経済の大動脈たる役割を与え続けたのか事情に疎い県外者にとっては訝しく思うところである。地図を睨めながらに考えると、その理由の1つには恐らく亀田藩領の地形的な問題とも密接に関わっていたであろうことは容易に推察される。つまり日本海に面する海岸線は殆どが砂丘地帯であり、当時の商品流通の大動脈であった北前船の寄港湊に相応しい適地が他に無かったということである。ただ、それだけでは少し理由として弱い。ここからは勝手な憶測に過ぎないが、どうやら亀田藩と隣国・秋田藩との関係性に原因があったのではないかと思うのである。すなわち亀田藩主の岩城氏の藩祖・貞隆公は秋田藩主・佐竹義宜公の弟であり、当家が元和9年(1623)に信州国・川中島1万石から加増されるにあたっては、「秋田藩からの指図を受けるには遠国であり不都合なため」という理由により転封先として亀田を希望したという経緯があるのである。藩政初期における亀田藩は秋田藩を宗藩のように慕っており、実際、城下の建設や領内の検地に当たっても秋田藩の全面的な支援を得ている。この時、南北に長い藩領の南端にあった交通の要衝地である石脇に陣屋を構えるのでは政治的に便が悪く、敢えて政治と経済を切り離して秋田藩寄りの北方の地に城下町を築くことを優先したのではないかと考える。しかし、ここからが歴史の皮肉である。その後の第4、5代藩主に仙台藩伊達氏から続けて養子を迎えてしまったため、秋田藩との関係性は急速に冷え込み、むしろ互いに反目する程の関係にまで陥るのである。そうなると逆に秋田藩領に近い岩城城下のみが発展することは危険である。藩政初期に政治と経済を切り離したことを幸いとして、藩内の台所事情を隠しつつ、万が一の不測の事態に備えるという思惑から石脇を藩経済の中心に置き続けたのではないだろうか。
さて当住宅は、石脇地区のほぼ中央部に所在する酒造屋敷である。嘗て津出場が置かれていた子吉川の河畔とは通りを挟んだ山手側に位置する。屋敷背後は標高140m程の「新山」と称される小高い丘陵地帯で、その東麓の湧水に恵まれた立地となる。屋敷前の通りが町を横断する「石脇通」で、主屋兼店舗はこの通りに南面して建つ。石脇通沿いに残る他の伝統的な町家建築が単層切妻屋根の妻入で幾重にも梁と束を交互に重ねた意匠で妻壁を飾る建前を基調としているのに対し、当住宅は単層部分は純然たる和風建築の体裁を採りながらも、重層部分は壁面を白ペンキ塗りの下見板張壁で覆い、開口部には上下窓や出窓を設える疑洋風建築としており、周囲の景観からはかなり異質な存在である。両層の境界部には銅板屋根の庇を差し出し、小振りな唐破風屋根を載せた玄関を設えて軽快ながらも上品な意匠を演出しているが、それに比して疑洋風の重層部分は立ちが高く、少しばかり大振りで重たい印象の建前である。しかし、その不均衡さ故に全体的に押し出し感のある建築となっているとも云える。銅板庇上には「由利正宗」と醸造酒名が書かれた大看板を掲げるが、現在は「雪の茅舎」という銘柄が主力となっている。いずれにせよ県内では有力銘柄の1つに数えられる存在であるものの、創業は明治35年10月と比較的歴史は浅い。創業者の斎藤彌太郎氏は慶応4年(1868)に藩内平岡村の肝煎の家に生れ、15歳で藩内第一の富豪・畑谷村の高野家の養子となった後、更に石脇の醸造家・斎藤重左衛門家の養子となり酒造りを学んだという人物で、現在の店名である「斎彌酒造店」は彼の名に由来する。ちなみに地酒愛好家の間では、当店は屋敷地が先述のとおり新山東麓の傾斜地にあるため「坂道醸造」という独特の方法により酒造りを行っていることでも知られている。傾斜地の高低差6mを利用して工場建物は階段状に配置され、一番高い位置から精米、洗米、仕込、貯蔵、瓶詰の各工程を下方に流れるように進められる合理的な構造となっているのである。これが酒の味にどのような影響を及ぼすのかは判らないが、何となく運搬等に要する無駄な労力を別のところ費やせるというメリットは有るのだろうとは思う。ところで斎藤彌太郎氏は当店の創業のみならず、本荘町長を2度に亘って務めたという地元の名士でもある。明治22年に石脇地区が本荘城下に編入されて本荘町となり、その約30年後の大正12年に1度目の町長就任を果たしている。当時のことは知る由も無いが、旧本荘藩の本荘城下を中心とする本荘町にとって、外様であった旧亀田藩領の石脇地区から町長を輩出したという出来事は、石脇の住民のみならず、旧亀田藩領の人々にとって、かなり誇らしい出来事だったのではないかと想像される。商売に裏打ちされた財力も然ることながら、由緒正しき出自に加えて新興企業家としての勢い、そして恐らく相当な人格者でもあったのだろう。それを伝えるエピソードとして、本荘藩の象徴とも云うべき本荘城址(現・本荘公園)買い戻しの逸話が残されている。すなわち旧藩主家の末裔・六郷政貞氏が金銭的に窮乏し、爵位を返上するとともに地元帰参時の居住用に献上されていた旧本荘城址の土地を昭和10年に大山郡花館村の三浦友吉氏に7000円で売り払うという事件が発生した際、彼は17000円の私財を投じてこれを買い戻し、町に寄付したのである。旧亀田藩領出身の彼にとって何の思い入れもないはずの土地で、旧藩の枠を越えた彼の活躍は、ひょっとして外様であるが故の旧本荘藩民に対する迎合かもしれない。しかし、このことが彼の評判を上げ、引いては「由利正宗」を県を代表する銘柄酒へと押し上げ、後代へと続く繁栄を確たるものにしたのだとすれば、彌太郎氏の深謀遠慮は見事と云わざるを得ない。今に残る当住宅の和洋折衷の建物も、品格を漂わせながら進取の気質をも感じさせるものである。そして旧亀田藩が石脇という土地柄に対して採った政策も同様である。由利正宗は土地の歴史が醸した酒、だとすれば何て理想的な関係なんだろうか。(2023.2.19記述)

 

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