嵯峨家住宅
Saga



国指定重要文化財 (昭和48年2月23日指定)
秋田県秋田市大平目長崎217
用途区分/農家(肝煎)
建築年代/18世紀末~19世紀初頭
指定範囲/主屋・北米蔵・南米蔵・土地
公開状況/以前は公開していたが・・・
初春の候に秋田市を訪れると、東の方角に冠雪した美しい姿の山並を見ることができる。古くから薬師の峰、修験の山として信仰を集める大平山である。秋田市民にとって故郷の山といえば、どうやらこの大平山を指すようである。標高1170mの山頂からは秋田市街を一望できるだけでなく、遠く岩手山や鳥海山なども望める良い山である。ところで江戸後期の文化9年(1812)に久保田藩からの依頼による地誌編纂の過程で、この大平山に登り、その過程を記録に留めた男がいる。東北から北海道を意味も無く歩き回った事で知られる放浪の旅人であり、紀行作家でもあった菅江真澄である。愛知県豊橋生れの他国人でありながら、時々に各藩から諸々の委託を請けつつ、ただ己の興味の赴くままに山形、庄内、出羽、津軽の東北各地を旅した人物である。もちろん、時には間者と疑われたことも少なからずあったようである。しかし、この男が自らの旅を膨大な日記として書き残してくれたお陰で、現代に生きる我々は当時の東北の人々の暮し振りを知ることができるのである。そのため日本民俗学の祖と称される柳田国男に、菅江真澄をもって民俗学の先駆と云わしめた程である。そして、この得体の知れぬ男が大平山への登攀に当たって逗留した家こそが、当・嵯峨家住宅なのである。
当住宅が所在する目長崎集落は、大平山直下の越家森を源とする大平川により形成された氾濫原が、湿地を転じて米作地として開墾されたことから形成された集落である。大平山の南西域に拡がる丘陵裾に沿って帯状に民家が点在しており、地元の呼び方に従えば「沢目」と称される適度に拓かれた谷間の典型的農村集落である。当家は昭和46年に実施された秋田県の民家緊急調査で第3次調査対象となっており、それによると分家を13軒も出した総本家で、過去帳によると弘治3年(1557)に没した先祖の記載が確認されるものの、系譜が連続するのは延宝2年(1674)からの事で、幕末には目長崎村の肝煎を務めたとのことである。しかし当家に逗留した際の菅江真澄の日記「勝手能御弓」(カツテノオユミ)にも「目長崎の嵯峨利理衛門勝珍は舞鶴の柵主、大江家に仕えたりし、上祖は弘治3年に卒れぬ」と聞き書きされており、それを裏付けるものとして、同時に大江家から当家に下賜されたと伝わる什宝類を実見し模写していることから、中世武士の系譜を引くことは、ほぼ間違いないことのようである。実際、当住宅に東接する台地は大江氏の居城であった舞鶴館址であり、大江氏が秋田郡の旧領主・安東氏の軍門に降った際に帰農した当家は、中世から近世を通じて此の地に止まり続けたということなのである。
現在残る屋敷地は南北に長く、東西に狭い地形で、南端が尖り、家伝では「出舟形」の屋敷と云われていたという。約700坪程の敷地の後方に主屋を構え、その前方に北米蔵と南米蔵が脈絡もなく点在する。南面して建つ主屋は、秋田地方の肝煎や豪農といった上層農家に典型的な両中門造である。建物に向って右側に厩中門を、左側に座敷中門を角屋形式で前方に突き出し、下手となる厩中門を家人が出入りする普段使いの戸口とし、引き戸を潜ると馬屋が両側に並び、更にその先には広大な土間が拡がっている。土間奥には脱穀作業に用いられる床敷の稲部屋があり、その広さからは当家の富裕振りが窺える。また土間の上手には日常生活の中心となる三間四方のオエ(客間)が設けられ、神棚や仏壇が備えられた祭祀空間であるとともに、当家の私的な上客をもてなす接客空間となっている。オエの奥てには喰違いにネドコ(寝室)やオジヨメ(居間)といった家族のための部屋が連なり、秋田型と称される前座敷三間取の形式がとられている。一方、反対側の座敷中門は正面右手に小振りな土間式の玄関を設け、そこから床上部に上がると中門、中座敷、奥座敷と非日常の空間が連続する。ちなみに幕末期には久保田藩主佐竹侯が遊猟の際に訪れたことがあったそうで、その時には道路に面して開かれた御成門から直に奥座敷に上がったとのことである。
ところで当家は国の重文指定後の昭和57年から3年間に亘って半解体修理が実施されているが、それまでの調査では、当初は直屋として建てられ、後からその左右に両中門が付加されたと見立てられ、18世紀前半の建築と推測されていた。しかし解体修理時の再調査により当初から両中門造の形式で建てられたことが判明、一気に100年の時を下った19世紀初頭の建築と考えられるようになった。土間に3本の独立柱があることや柱の省略が少ないこと、屋根裏が単純な扠首構造であることなど古風な造作が散見されることから、当初の簡易な調査では年代の見立てを大きく誤ったようである。また古家を解いたりした際に、未だ使用可能な柱や梁などは新家に転用することが当たり前にあった時代で、当住宅においてもそうした転用材が多用されていたため、直感的に「古い」と感じてしまったのかもしれない。しかし私個人としては見立て違いの最大の要因は、傍証資料として用いられた菅江真澄の絵図に少なからず影響を受けたためではないかと見ている。
菅江真澄は当家を2度訪れている。1度目は文化8年8月に大平川上流の勝手神社への参詣の途次に立ち寄って休息を取っている。そして2度目が文化9年7月に先述した大平山へ登るために宿泊したときである。実はこのとき、菅江は目長崎集落を遠方から眺めた絵図を描き残していたのである。絵画からは、遠くに大平山を臨み、手前に舞鶴舘址と思われる台地上の平坦地と目長崎集落内に乱立する茅葺の家屋を見て取ることができる。この絵図の中には当住宅が描かれているか否かは判らない。ただその図中に描かれた家屋は全てが直屋の建前となっている。要するに菅江真澄が訪れた文化9年(1812)の時点では、目長崎集落内には両中門造の家屋は存在していなかったと解することができる内容なのである。この事実に建築史家は引きずられたのではないか。当初から両中門造で建てられたとすれば、当住宅は菅江が訪れた後の時代に建築されたもので菅江と直接的な関わりのない建物ということになる。反対に当初は直屋で建てられたが、後に両中門が付加されたとすれば、菅江が宿泊した可能性も高まり、描いた絵図とも反故は生じえない。もちろん建築年が古いというだけでも魅力である。いずれの可能性も考えられる時、物語としては後者であって欲しいと願うのが、人の情けというものであろう。
ただ、この問題の底流にあるのは、両中門造という秋田県特有の建築様式が、いつの時代に発生したのかという謎が完全に解き明かされていないことにある。古式として直屋があり、中門は後から付加される形で広まったと考えられているが、最初から両中門造として建てられるようになった時代は何時の頃のことなのか。予期せぬ早さで多くの古民家が建て替わった現代においては、既に永遠の謎となってしまっているのである。ただ、期待した菅江真澄逗留の家という勲章を得ることは能わなかったものの、奇しくも当住宅が当初から両中門造として建てられた事実が判明したことで、その初期の事例として意図せぬ評価を得ることになったのは、僥倖という他ない話である。 (2022.9.5記述)


【参考文献】重要文化財嵯峨家住宅修理委員会刊「重要文化財嵯峨家住宅修理工事報告書」/東洋文庫「菅江真澄遊覧記5」/宮本常一「旅人たちの歴史2 菅江真澄」/秋元松代「日本の旅人 菅江真澄」/毎日新聞社刊「解説版 新指定重要文化財12建造物Ⅱ」/秋田県教育委員会「秋田の民家」/INAX ALBUM38 木村勉著「北の住まい」/ 

一覧のページに戻る